2話 異世界生物ネコ
「なあん」
ブリティッシュロングヘアっぽいネコが、気怠そうにひと鳴きする。
いい加減鬱陶しくなったのか、お腹に顔を埋めていた男性の両肩を後ろ足で蹴り付け、その腕の中から抜け出した。
黒い軍服に肉球スタンプを押されたのに、男性は気を悪くするどころか、むしろご褒美です、とでも言いたげな締まりのない顔をしている。
くるんと一回転して長テーブルの上に着地したネコが、金色の目を細めてニヤリと笑った。
『しめしめ……そやつめ、まんまと珠子に依存しておるわい。チビ達も順調に人間どもを手懐けておるし──ぐっふふふふ、我らがこの世界を制する日も近いぞ!』
その口から飛び出したのは、酒焼けしたようなダミ声だった。
セリフも何やら不穏だが、私以外の人間には「にゃーん」とか「みゃあ」とかいう、至って普通の猫の鳴き声に聞こえているらしい。
それを証拠に、ミケやおじさん達がしゃべるネコに驚く様子はなかった。
(そもそも、便宜上ネコって呼んでるけど……本当はあれ、ブリティッシュロングヘアどころか、猫でさえないんだよね)
半年前に私の後頭部にぶち当たるまでは、真っ白くてまん丸い、それこそ毛玉みたいな姿をしていたという。
その正体は、異なる世界間を移動する能力を持つ、謎多き異世界生物だった。
たまたまこれにぶつかった私は、否応なしに異世界転移に巻き込まれてしまったのである。
『当初は余計なのがくっついてきおったと思ったが……げっへっへっ、珠子め、なかなかどうして役に立つではないか! 褒めてつかわすぞ!』
にゃあんにゃあん、という猫撫で声に対し、副音声があまりにもひどい。
子ネコ達のミーミーという声にそれがないのだけが救いだった。
とはいえこちらも、実際は猫の子供ではなく、この半年の間にネコの毛玉を元にして生まれた分身である。
『何より、我がこの姿を手に入れられたのは僥倖じゃった。珠子の中にあった〝猫〟〝かわいい〟〝尊い〟という概念のおかげじゃなあ。おもしろいほど簡単に人間どもが陥落しよるわ』
そう言ってほくそ笑んだネコが、さっきまで自分を抱っこしていた男性が顔を近づけてきたのを、ふさふさのしっぽでビンタした。
ネコの下僕にとってはご褒美でしかない。
図らずも一緒に異世界へ渡ったことで、私とネコはお互いの影響を受けた。
私の中にあった猫の概念があちらの姿形を変化させたように、私も髪が白くなったり、ネコの言葉が理解できるようになったりという変化に見舞われている。
しかも……
『珠子も、わずかながら我らと同質のフェロモンを発しておる。王子にはそれが作用しとるんじゃ……ぐっふっふっ』
ネコ達は特異なフェロモンを発しており、匂いを嗅いだり接触したりした他の生物に多幸感をもたらすらしい。今まさにメロメロになっている軍服男性達がいい例だろう。
おじさん達も、ネコ達に関わらない時は比較的キリッとしているのだ。
フェロモンは、例えるなら……
(日干ししたお布団みたいな、いいにおい)
もともとお日様の匂いというのは、脳内のα波の周期を一定のリズムに整え、リラックス効果をもたらすと言われている。
つまり、ミケが私を吸いたがるのもその影響で、人間が猫に癒やしを求めるのと同じ感覚だろう。
少なくとも、私を異性として求めているわけではないのは確かだが……
「問題が山積みで仕事が終わる気配がない……タマでも吸わないとやってられん」
「いやもう、本当にお疲れ様です。でも、猫を吸うならともかく、私を吸うのはちょっと……ミケの沽券に関わるといいますか……」
「そんなことくらいで私の立場が揺らぐものか。タマは余計なことを気にせず、黙って吸われていろ」
「ミケったら何様っ……あっ、そうでした。王子様で……国軍元帥様、でした」
ミケことミケランゼロ・ベルンハルト王子は、現在療養中の父王に代わって国軍のトップも務めている。
この部屋は、そんなミケを筆頭とした軍の幹部が集まる会議室だった。
目下、子ネコ達にメロメロになっているおじさん達は、大将、中将、少将、准将といった将官だ。
猫じゃらしマスターが大将で、ネコのしっぽにビンタされて幸せそうなのが准将。彼らは実の親子である。
額に向こう傷がある強面とメガネをかけたインテリヤクザっぽい二人が中将、黒髪オールバックとスキンヘッドの二人が少将で、それぞれ気の置けない仲らしい。
そんなおじさん達を部下に持つ国軍トップが、めちゃくちゃ真剣な顔をして言い募る。
「いいか、タマ。よく聞け。私は、別の世界から迷い込んだと言い張るタマの後見人。いわば、この世界におけるお前の保護者だ。親の言うことは聞くものだぞ」
「わかったわかった、わかりましたよー、お父さん。もう、好きなだけ吸ったらいいでしょー」
「せめて、お兄さんと呼べ」
「自分で親って言ったのに」
とたん、バンッ! とネコがクリームパンみたいな前足で長テーブルを叩いた。
『こぉら、そこの王子! たわけたことを申すでないぞ! 珠子の親は我じゃ! 珠子は、この我の一の娘じゃぞっ!!』
それこそ、たわけたこと、である。
私は、異世界生物を親に持った覚えなど微塵もない。
それなのにネコは、私は世界と世界の狭間において生まれ変わったも同然で、今こうしてピンピンしていられるのも自分のおかげだと言って譲らず、日々お母さんムーブをかましてくるのだ。
『いいか、王子! よく聞け! お前がそうして珠子を愛でられるのは、我の尽力あってこそ! おネコ様を崇め奉り、末代までこの尊さを語り継げよっ!!』
興奮したネコにより、眉間に猫パンチを食らった准将が、はわっ、と幸せそうな悲鳴を上げた。
彼以外の将官達も、引き続き子ネコ達を相手に表情筋と語彙力を崩壊させている。
「「「「「「はー……ネコちゃん、ホントかわいいー……」」」」」」
これが、ベルンハルト王国軍最高部の日常だとは、にわかには信じがたいだろう。
そのトップたるミケはというと、にゃごにゃご言っているネコにかまわず、私の後頭部に顔を埋めて息を吸い始める。
異世界転移も想定外の出来事だったが……
「人間に吸われる猫ちゃんの気持ちを味わう日が来るなんて、思ってもみなかった……」
理解を超える状況に、私はスンとした宇宙猫の顔になった。
そんな中、私の後頭部に顔を埋めたままミケが口を開く。
「タマ、調子はどうだ。今日は、傷が痛みはしていないか?」
言いながら彼が撫でた私の左脇腹には、半年前にできた傷跡がある。
後頭部への衝撃により猫カフェの窓から転げ落ち、ネコ曰く世界と世界の狭間を渡った私は──なんと、ミケの膝の上に着地した、らしい。
時は、西側で国境を接する隣国ラーガスト王国との最終決戦真っ只中。
ミケは父王に代わり、ベルンハルト王国軍本陣でその指揮を執っていた。
そんな緊迫の状況でいきなり現れた私に騒然とする中、今度は敵国の刺客が単身天幕に飛び込んでくる。
そのナイフの切先が吸い込まれたのは、ミケの甲冑の隙間ではなく、彼の膝に乗っていた私の無防備な左脇腹だった。
ネコはこの時、血を流す私に縋り付いて喉が潰れるほど鳴いたらしい。
図らずも、一国の王子にして国軍のトップを庇う形で負傷したことから、私はベルンハルト王国にて手厚い看護と保護を受け、現在に至る。
そんな経緯があるため、ミケは殊更私に対して過保護だ。
「全然問題ないですよ。先日は雨だったから、ちょっと疼いただけですので」
「それならばいいが……」
努めて明るい調子で答えれば、ミケは安堵したようなため息をついた。
私がこの世界に来て半年──戦争が終結してからも、ようやく半年。
ベルンハルト王国は戦争にこそ勝利したものの、多くの犠牲者と巨額の戦時国債の発行により、軍事的にも経済的にもいまだ逼迫している。
(敵だったラーガスト王国は、敗戦にともなって王政が崩壊したんだっけ。今は確か無政府状態で、とてもじゃないけど賠償金なんて搾り取れそうにないって話だよね……)
そんな中で、ミケことミケランゼロ王子を筆頭とするベルンハルト王国軍は、ひたすら戦後処理に追われている。
特に、戦勝祝いに父王から正式に元帥の位を譲られたミケは、若くして重責を担い、体力とメンタルをすり減らしまくってきた。
私がこうして、お茶の用意を携えて軍の会議室を訪れる目的は、彼に適度に休憩を取らせることと、もう一つ……
「私は超絶元気ですけど……ミケは疲れまくってますね? また何か、大変なことがありましたか?」
「……むしろ、大変なことしかない」
私の後頭部に顔を埋めたまま、ミケは将官達には聞こえない声で弱音を吐く。
元の世界へ戻る目処も立たない私は彼の庇護下に置かれ、現在はネコ達のモフモフふわふわボディを利用して、人々の心を癒す仕事に従事していた。
もちろん、ミケ自身もその対象だ。
私は自分を囲い込んだミケの腕を、宥めるみたいに片手でポンポンする。
すると、黒い綿毛のようなものがいくつも彼の中から飛び出してきた。
(怒りや憎しみ、不安、嫉妬、悲しみ、苦しみ……)
そんな、多かれ少なかれ誰しもが持つ負の感情が、黒い綿毛の正体だ。
ふわふわと空中を漂うそれを、ネコ達は爛々と目を輝かせて見つめていたが、ミケや将官達が気づいている様子はない。
私が、人間の目には映らない負の感情を目視できるのも、黒い綿毛の状態にして引き剥がせるのも、ネコとともに異世界転移した影響だった。
『っしゃああ! いいぞぉ、珠子! どんどん引き剥がせい! 我がみんな食ろうて、子を増やすための糧にしてくれるわっ!』
ネコが長テーブルの上でぴょんぴょんと飛び跳ね、私がミケから引き剥がした黒い綿毛を食らい始めた。
将官達と遊んでいた子ネコ達も、一斉にこれに倣う。
何しろ、人間みたいに知能の高い生き物の負の感情こそが、彼らの唯一の糧となるのだ。
黒い綿毛を認識できない将官達には、ネコ達がただ戯れ合っているように見えただろうし、自分達も遊ぶふりをしながら彼らに負の感情を食われていたなんて知りもしないだろう。
ただ、負の感情を食べられた方も、心の負担が軽くなるため一石二鳥である。
『ふむふむ……重責を担うがゆえの焦り、不安。戦争を起こしたラーガスト王国への怒り……その他諸々、抱え込んでおるなぁ』
ペロリと口の周りを舐めながら、ネコがミケの負の感情を吟味する。
私がそれを引き剥がしたとて、ミケを苛むものが完全になくなるわけではないが……
「タマの髪……何やら甘い匂いがするな。どこで寄り道をしていた?」
「王妃様がハーブキャンディを作るのを見学したからですかね。いくつか持たせてくださったんですけど、ミケも食べますか?」
「食べる。口に入れてくれ」
「はいはい」
ここでようやく私の頭から顔を離したミケは、目の下の隈が少しだけ改善していた。
その口に、エプロンのポケットに入れていた包み紙からキャンディを一つ取り出し放り込む。
そんな私とミケのやりとりを、黒い軍服をネコ達の毛だらけにした将官達が、微笑ましそうに見守っていた。