Chapter1「傘が先か、雨が先か」
その日は空調の効いた大学の講義室の中、外の残暑の熱気などつゆ知らず、俺は眠くなるような教授の声を聞きながら講義を受けていた。
「あぁー、精神分野の父といわれるフロイトは赤ちゃんの成長発達における区分を、えぇー、参考資料の図のように分類しまして、えぇー、成長発達段階とともに、『口唇期』と『肛門期』『潜在期』『男根期』というふうに分けておりーーー」
教授の喋りは緩慢で、精神分析の講義を受けて3回目だが今になって講義選びを失敗したと後悔している。
大学生になって前期を終え、現在は後期の単元を受けているが、大学の講義スタイルになっていくつか辟易していることがある。
一つは、講義のほとんどが延々と教授が喋るだけの内容であること。
もちろん少人数教室であればグループディスカッションなどもう少し有意義な時間を過ごせるものもあるが、大抵が不毛な教授から生徒への一方通行の講義スタイルだ。
小学校や中学校でさえ、体験学習の場が多いのに、アクティブラーニングという概念がまるっきり感じられない授業は退屈で眠気を誘ってくる。
もう一つは、一講義が90分と長いこと。集中力が続かないし、途中で休憩やトイレに行きたくなる。なぜ一コマ90分なんだろうか。人間の脳みそは適度に休憩挟をんだほうが勉強効率が良いと聞いたことがあるのだが、これは効率が悪くはないだろうか?
気が滅入る思いで授業に参加しているものの、まだまだ講義は終わりそうもない。
俺は少し不機嫌な思いで愚痴を頭に思い浮かべていた。
適当な理由を付けて、少し重たい気分を自分の中で消化していると、隣から小声で野郎が話しかけてきた。
「なぁ、今日彼女と一緒に午後に遊びに行くんだけどヒロも来る?」
「どこ行こうってんだ?」
不機嫌なまま頬杖をついてたのもあり、つっけんどんな返しをした。
「俺もお前もこの講義で今日は終わりだろ?そしたら近くのマックにでも軽く行かない?」
「おう、そっか。」
特に用事もなかった俺は彼の提案にのることにした。
こいつはショウという、唯一俺と同じ高校から同じ大学の学部に入った友だちだ。
腐れ縁のような付き合いで、学科こそ別だが自由選択科目のこの講義では、お互い知り合いということもありいつも隣に座って講義を受けている。
俺らは講義が終わると、講義室を出て大学の外にあるマックへと足を運んだ。この大学キャンパスは広いため講義室から大学の外へ出るだけでも10分ほど歩く必要がある。
途中、キャンパス正門へさしかかる辺りで一人の女性が視界に入った。
同じ大学生だろうか。
服装は今時の女子大学生のような、白のトップスに調和のあったベージュのスカートだったが、天使の輪と見紛うほどに綺麗に太陽光に照った黒髪と透き通るような瞳の視線は、他の女子にはない魅力があった。
そして俺が何より気になったのは、その女が手に持っていた傘だった。
今日は、快晴という言葉が合うほど雲の殆どない晴れの日だった。
朝に見た天気予報でも今日の降水確率は10%もなかったと記憶している。
そんな真っ昼間の晴れ模様の中で、彼女は正門前で傘を手にしている。
なんだったら傘を両手で持って空を見上げている。
なんだ?と思いながらもショウとともに歩いていると、徐ろにその女は傘をさした。
黒い傘なら紫外線予防だと考える事もできたのだろうが、残念ながら彼女が手に持っていたのはビニール傘だ。
その奇妙な行動に気を取られながらも歩き続けていると、ふと急に頭上から何かが落下してきた感覚を覚えた。
頭上を見て、頭に触れてみた。
雨だーーー。
驚いた。
快晴で雲が殆どないと思っていた空はいつの間にか雲で満ちていて、その雲からは大粒の雨がどんどん勢いを増して降ってくるのだ。
雨が降ってきたことに慌てた俺は、ショウとともに急いで目的地のマックに足を運ぶ。
幸いなことに目的地は大学キャンパスの隣に位置していたためそこまで距離はなかった。
雨で肌に張り付いたシャツを指で摘んで胸元に空気を送り込み、俺は少しでもシャツを乾かそうとした。
「やばいな、思ってた以上に雨で濡れた」
「ホントだな、家出るとき悩まずに傘持ってくればよかったよ」
ショウも俺と同じように濡れた服を乾かそうとシャツを仰いでいる。
まああまり効果のある行為でもないのだが。
「いや、今日の天気予報晴れだっただろ? 降水確率も10%ぐらいなもんだし仕方ないだろ」
そういうと、少し不思議そうな表情でショウは返した。
「そうだっけ? 俺が今朝天気予報見たときは降水確率60%ぐらいだったけど」
いやいや、ちょっと待ってくれ。
10%で天気予報は晴れだったし、講義室を出るまで雲の殆どない快晴だっただろ。
「どこの天気予報だよそれ」
「スマホの天気アプリだよ、ほれ」
ショウは俺に天気アプリを見せてきた。
天気は現在時刻で雨を示している。俺が奇妙に思ったのは、見せられた天気アプリだった。
それは、俺がいつも天気を確認するときに使っているアプリと同じものだった。このアプリはGPSで現在地付近の天気を確認できる。
もちろん位置情報がずれれば天気が変わる可能性もあるのだろうが、ショウは俺と同じ高校、同じ大学を通っていて居住地もそこまで離れてはいない。
住んでる場所が違うとか別の媒体で天気予報を見たとかなら、天気予報に差が出ることを理解はできるのだが、そうでないならなぜ天気予報に差が出たのだろうか。
まぁ、それでもそれだけの違和感ならあまり深くは気に留めることもなく、スルーして別の話題にでも移っていただろう。
だがショウからは、さらに違和感のある発言が続いた。
「講義室からマックまで歩くのはさすがにミスったな。服がビショビショだ」
「ん?講義室からマックまで?」
「ああ、講義室からここまで10分近く歩くだろ。さすがに10分も雨の中を歩いてたらここまで濡れるもんなんだなって」
ん? いやいや、待て待て。
なんか変じゃないか?
俺らが講義室を出るときって晴れてたよな。10分も雨の中は歩いてないよな?
雨が振り始めたのって正門のあたりを歩いてたときだよな。
なぜ講義室出たとき既に降ってたことになってるんだ?ーーー
そう思考を巡らせた途端、ふと自分の中で記憶が揺らぐような目眩がした。
認識がぐるんと掻き乱され、記憶が勝手に何かの力によって書き換えられるような感覚。
その記憶の中では、朝家を出るときに既に天気は曇り空だったような気がする。
講義室で講義を受けているとき、妙に気分がのらず不機嫌だったのは、ぐずついた天気で低気圧だったから、引き起こされていたような気がする。
いやこの感覚は、気がする、ではない。
現実に書き換わっている。
俺がほんの少し前まで記憶していた現実が書き換えられ、過去に起こった経験として記憶している。
奇妙な感覚だ。確かに、「講義を受けている時すでに雨が降っていた」と記憶している。
しかし、それとは別に、記憶が書き換えられたという認識がある。
上書きされ、記憶が書き換えられたのと同時に、元々の記憶も上書きされきることなく並在している。
「講義を受けている時すでに雨が降っていた記憶」とともに「正門付近まで歩くまで雨が降ってなかった記憶」が同じ時間軸、同じ現実の記憶として残っている。
我ながら何を言っているのか分からなってくる。
もしかして俺は、1人で妄想したことを現実と区別をつけることができなくなっているのだろうか?
俺は何か記憶違いをしているのだろうか。
そういえば、元々の記憶である晴れの中で突拍子もなくビニール傘をさした女はなんだったのだろうか。
それまで一切雨が降る予兆のなかった空模様が、傘をさす女を見た途端急に雨が降り始めた。
あれは一体何だったのだろうか。
まるっきり分からない。あんな突拍子もない天候の変化は晴天の霹靂なんていう表現さえ正しくないと思えるほどに唐突だった。
とりあえず、今1人で考えたところで答えは出そうもない。
なので、とりあえず俺は頭の中で適当な理由をつけることにした。
きっと、たまたまだろう。
たまたま、女が傘をさしたタイミングで雨が降った。
たまたま、雨が降るタイミングで女が傘をさしたのだ。
女が傘を刺した理由は、きっと、おそらく、傘が壊れてないかを開いて確認してたところだったんだろう。ちょうど、その時たまたま雨が降った。それか女が虫の知らせか何かで雨が降ることを予感して傘をさしたのだ。
きっとそうだ、多分。
俺の記憶が上書きされる感覚もきっと思い過ごしに違いない。
なので、今日も世界は平常運転である。
はい、結論が出ました。
答えを探すのは終わり終わり。
そもそも答えが出ないだろう事にあえて俺が思考を巡らせるのはナンセンスだ。
世の中は偉大な先人達が築いてきた科学や理論で答えを導くことができるのだ。
さしてロジカルな思考能力だとか分析力だとかを持ち合わせていない俺が抱いた不可思議も、世の中の頭の良い人達からすれば、きっと現象として理由づけができるのだろうし、その事象に対する解を導き出すことができるだろう。
だから、そういう世に溢れる謎に対して解を導き出すのは頭の良い人たちに任せて、俺みたいな平々凡々な一般人は謎に興味を抱くことはあれど、あえてそれに思考を巡らせるなんてことはせずに、筒がなく日常を平和に生きていれば良いのだ。
そう、俺は平々凡々な一般大学生なのだから。
この事象にも頭の良い人からすれば何らか答えが導き出せるのであって、俺がその答えに至らずともさしたる問題はないのだ。
だから、こう言ったことは適当に思い流しておけば良い。
そうして俺は頭で抱いたモヤモヤとした謎に適当に理由づけて、強制的に思考を巡らせるのを終わらせた。
ショウも大した違和感は抱いてそうにない。
俺が抱いた違和感は、日常を過ごしていれば簡単に埋もれてしまうぐらいには些末な出来事なのだ。
きっと、日常で抱くちょっとした違和感とはそのようなものなのだろう。
けれど、その翌日には俺は思い知った。
たとえ平々凡々な人生を歩む俺のようなどこにでもいるような大学生でも、世の中の不可思議な現象には巻き込まれることはあるし、思考を巡らせて解を出さなければならないときはあるのだと。
それは、自身の評価を見誤っていたからなのか、はたまた平々凡々とは言い難い人物との関わりによって巻き込まれたのかは定かではない。
ただ、巻き込まれたきっかけだけははっきりとわかる。
それは、晴れにも関わらず傘をさした、女との邂逅であったと。