30.「これからも頼むわ、あたしのこと」(2/4)
いたずらっぽい声音で言う真心に、澪が鼻笑を返した。
「あたしは別に学級委員長じゃないで。せっかく解いてきてんから、提出するために言ったんや」
『委員長じゃないにしても、相変わらず優等生やな』
「年齢イコール宿題に漏れがない年数って等式、崩すわけにはいかへんから」
とんでもないことを言ったぞ、今。
まさか、小学一年生から今まで、ただの一度たりとも宿題をやり損ねていないというのか。日々の細々とした宿題に始まり、長期休暇の宿題まで。どれだけ真面目な生徒でも、一度くらいは抜けがあるものだろう。
改めて、澪の真面目さ――悪く言えば完璧主義さが、窺い知れる。
『でも、提出先はあたしじゃないで』
「……分かってる」
固唾を呑む一拍。
「紬希、」
「ん……?」
私に回した腕を解いて、澪の目がこちらに向いた。今の今まで抱きしめられていた至近距離だから、その眼差しはダイレクトに私の深くに届く。
「紬希に比べたらあたしの愛の深さが負けてるかもって話したの、覚えてる?」
「……うん、」
「中学の頃にレズビアンって打ち明けて失敗してから、自分の恋愛感情を出すことに極度に恐怖があった。紬希のことも、どうせ失敗する運命やねんから、完全に好きになったらあたしが傷つくって思って自制してた。……でもな、それだけじゃないねん。愛の深さが負けてるって思った理由は」
完全に好きにならなければ、上手くいかなかったときの保険になる。
私には澪ほどの大きな失敗経験はないけれど、それでも彼女の気持ちはよく分かる。
相手を好きになるのと反比例して、もしものときの防御力は低下の一途を辿るのだ。愛情を抱けば抱くほど、自分の脆弱性が増していく。外套を脱いだ心を預ければ、傷をつけて返されるかもしれない。それが、恋愛は相互の信頼の上に成り立つものである所以だ。
だから、その理由だけで難なく納得していたのだけれど。
「万が一、何もかもが上手くいって、紬希と相思相愛になれたとしても。紬希と、付き合えたとしても。……あたしは紬希に相応しくないって、思っててん」
「え、」
それには思わず反論せざるを得なかった。
「何言ってるの、それは私こそだよ……!」
「いや、」
「澪は言うまでもなく超美人だし、背も高くて格好いいし、性格だって優しさに溢れてて非の打ち所がないし、胸は小さいけど足も長くてスタイルいいし、」
「つむ、」
「髪だってすっごく艶々なうえにすっごく似合ってる髪型だし、服とかインテリアだって私とは比べものにならないくらいお洒落だし、礼儀正しいし生活リズムも安定してるし、頭もいいし目も大きくて可愛いし身体もエッチだし何もかも――」
「つ、紬希、一回落ち着いてくれ! あとなんか途中で胸の話してたな……!?」
「ふぐぅ……!」
褒め殺しにしてやろうと息巻いていた私の顔面を、澪が胸元に押し付けて無理やり口を塞いだ。
ふと、ほんの一瞬だけ、優越感に似た感情があった。
胸元に顔を押し付けて強制的に黙らされたわけだが、その感触があまり心地よくない。ぼふ、とか、むに、みたいなオノマトペは思い浮かばない。部屋には素晴らしいクッションを置いているというのに、胸はというと胸骨が鼻に当たって痛いくらいだった。高嶺の花の澪だが、胸の大きさだけは彼女に勝っている自負がある。
ただ、たとえそれを計上したとしても、私では澪の魅力には到底及ばない。
どうでもいい考え事はこのくらいにして。
「ちゃうねん、紬希。そう言ってくれるのは嬉しいけど、そういう話じゃなくて、」
「ふがふが」
「あ、ごめん。……でな、あたしが紬希に相応しくないっていうのは、」
息ができるように私を解放してくれた澪が、見下ろして言う。
「いつ紬希を一人にするか、分からんかったからやねん」
「……ん、どういうこと」
「いつ自殺するか分からへん状態で付き合うのは、申し訳なかったってこと」
「え、」
自殺。
澪は軽々しく――内心はそうではないだろうが――口にするけれど、私はその響きを耳にするだけで、胸の奥がきゅっと収縮する感覚を覚えてしまう。死や自殺、そういった単語はもちろんこれまでも聞き心地のよいものではなかったけれど、この一連の騒動を経て、私はトラウマのような具合で恐怖を抱いてしまった。
できることなら聞きたくない。けれど、そのぶん、逃げていいような言葉でもない。
「これは……紬希が関わったどのあたしも言わへんかったんじゃないかな。あたしさ、実は高校のとき、一回自殺未遂起こしてるねんか」
「は、」
とんでもない初耳だ。やり直した先のどの澪も、確かにそんな過去は気配すら見せなかった。
「自分に嘘吐き続けるのがしんどくなっちゃってさ。ロフトベッドの柵から縄吊るして死のうとした。……でも、普通に失敗やった。見つかるまでに、上手く死にきられへんかった。調べが甘かったっていうのももちろんあるけど――人間って、不慮の衝撃にはとことん脆いくせに、自分の意思で危害を加えると思ったより頑丈やからさ。唯一、人間の嫌いなところやわ」
「そう……なんだ、」
そうなんだ、としか返せない。この文脈における正しい返事なんて、見つかるはずもないのだ。
一呼吸を置いて、澪が続ける。
「で、自殺の怖いところがここからやねんけどな。ほんの一度でも本気で自殺を考えてしまうと、それ以降、あたしの中の選択肢に常に自殺が並んでるねん」
「……選択肢、」
「うん。たとえ未遂で済んだとしても、たとえ自殺願望が治まったとしても、一度生まれた“自殺”という選択肢は、いつまでも消えへん。一生あたしの中にあり続ける」
人を罵ったことがない人は、最大の攻撃として睨みを使う。
人に手を上げたことのない人は、最大の攻撃として暴言を使う。
人を殺したことがない人は、最大の攻撃として暴力を使う。
なら、一度でも殺人を経験してしまえば――……。
要は、そういう話である。上限の話。閾値の話。人間としての、幅の話。
自殺とは、自分を殺す殺人犯になる行為なのだ。たとえそこまで追い込まれた過程では被害者だったとしても、自殺に手を染めてしまった瞬間、気の毒にも立派な加害者になってしまう。
「……普通の人ってな、逆境に直面したときに、悩みはしたとしても“やるしかない”っていう前提のもとで立ち向かえるねんか。でも、本気で死を考えたことがある人は、逆境の解決策のひとつに常に自殺がある。その選択肢がある以上、やるしかないっていう踏ん張りが全くきかへんくなるねん」
「……死ねば済むって、なるってこと?」
「んーまぁ、それはそうなんやけど。どっちかというと、死ねば済むことを頑張らなあかんって思って余計にしんどくなって、思考が自殺に近づいていくっていうループが問題やねん」
「あぁ……」
気の利かない生返事だ。
「だから、ちょっとした窮地で、普通の人じゃ考えられへんぐらいあっさりと死を選ぶ可能性がある。それは、正直あたし自身も制御できひん。……そんな状態で紬希と付き合ったら、申し訳ないやんか」
「…………」
「その思いがあたしの根本にあったから、あたしの真心が拒絶を示してたんやと思う」
澪の一瞥が向いた先の彼女が、腕を組んだまま目を伏せる。
「宿題の採点は?」
『……満点』