30.「これからも頼むわ、あたしのこと」(1/4)
『本当に申し訳ございませんでした!』
「……!?」
目を開けるよりも圧倒的に早く、そんな怒号が耳を劈いた。誰の声かはすぐに分かったが、その特徴的な響き方。まるでエコーをかけたかのような。
目を開けると、……誰もいない?
そう思ったのも束の間、ふと足元を見下げれば、まるで羽虫か何かのように小さく土下座をした澪だ。丁寧に四肢を折り畳んでこぢんまりとしている。
さっきの声の響きを考えれば、真心のほうの澪だ。彼女の背後に佇む灯籠に、その輪郭が茫々と照らし出されている。
「澪……の、真心……!?」
『ほんまにごめん! あの時はあたしが未熟やった!』
「あ、あの時……?」
烈火のごとき速さで謝罪を重ねられて、わたしの理解は置いて行かれている。そもそもログハウスに意識が移った瞬間だったのだ、まだ頭がぼやぼやしているときに話しかけられると、単なる聴覚刺激としてしか受け取れない。
全力で噛み砕いて、記憶を辿って、やっと理解ができた次第だ。
「ここで、話したときのことだよね」
『あんなん話したって言わへん。あたしが一方的に紬希を痛めつけてただけや』
「そんなことないよ……少なくとも、私が心の裡に入り込もうとしたのが悪かったんだし」
他に方法がなく、仕方がなかったとはいえ。
真心に直接アプローチするというのは、もちろん、拒絶の心をこれでもかと引き出す行為だ。普段必死に守り固めていた心の核に、無理やり触れたに等しい。言ってみれば、あの時の彼女の行動は、不可抗力だったようなものである。
「ねぇ、まず、顔を上げて……? 土下座なんてされてたら、申し訳なくて話せないよ……」
『申し訳ないのはこっちやけど――まぁ、うん、そうやんな』
言ってむくりと起き上がると、……泣き腫らしたのか、目元を若干赤くした澪の顔だった。
「え、泣いてたの……!?」
『…………』
「ご、ごめん、私が炎に焼かれたぐらいで苦しむ軟弱女なせいで……!」
『それが軟弱とされる世界線はない』
快活な突っ込み。確認するまでもないが、間違いない、澪だった。
突っ込んで気持ちが切り替わりでもしたのか、少し晴れた表情の彼女が、目元を拭って洟をすする。その様子を見るに、泣いていたにしてもかなり本格的な号泣だったようである。澪がそこまで泣いたところを――そもそも泣いたところ自体を、思えば私は初めて目にした。
泣くのはいつも私だった。
『……本体のあたしがおったときは、何とか耐えてたけど。いざ紬希を前にすると、罪悪感で涙が勝手に出てきた』
「「そっか……」」
罪の意識を向けられた立場として何と返せばいいか分からなくて、そう呟くに留まった。
…………。
今、声が、重なった……?
「真心も泣くんやなぁ……」
「澪!?」『本体!?』
私たちの反応に肩をびくつかせた声の主は、あろうことか、もうひとりの――本体の澪だった。私のすぐ斜め後ろに、当然のように立っている。これまで気づかなかったことが信じられないような近距離だ。
魅力を詰め込んだ双眸が、驚きと困惑に見開かれている。
「な、なんや、」
『なんやも何も、いつからおってん……!』
「いつからって、え、紬希と一緒に来たつもりやけど」
「ほんとに最初からいたの!? 全然気づかなかったよ……」
「えー? まぁ、あたし影薄いってよく言われるしな」
『そんなん言われたことないやろ。歩く関西が何言ってんねん』
「歩く関西ってなんやねん。あと関西を騒がしさの象徴にする物言いは色々危ないから止めときや」
すごい速さで飛び交う言葉の応酬。
私と澪ならともかく、澪と澪が掛け合うとなると、いよいよ関西人の本領発揮だ。澪の言う“関西人同士の掛け合いのしやすさ”に加えて、私が自ら経験したように、自分の真心との会話は特別心地よくてどんどん膨らむ。きっと今の澪は、とても気持ちのいいテンポで話せているに違いない。
ともかく。
真心でない――現実世界の澪とログハウスで会うのは、前代未聞の事態である。
「澪、ほんとにここに来れるようになったんだ……」
「うん、まぁ…………ちょっとした弾みで」
言い淀んだ一瞬の空白と、真心に流した一瞥。
「もしかして、自殺のときに……?」
「……なんで分かったんや」
「澪の勘の良さがうつったのかも」
「え、あたし勘のいい自覚ないねんけど」
「嘘でしょ」
冗談ではない、本当に心当たりがない様子だ。
下手な占い師より見透かしておいて何を今さら。
『とにかく』
私たちの意識が真心へと向く。
今になって、映った光景に脳が混乱し始めた。
澪が二人いるというのは、改めて、とてつもない違和感を放っているなと感じたのだ。もちろん私が自分の真心と話すときもそうだったのだろうが、そのときは本体の私を第三者視点で見ることはないから、そこまでおかしいと思わなかった。鏡の自分と話すような具合だ。
ただ、視界に同じ人間が二人映るとなると、途端に不可思議に感じてしまう。
何かを話し始めようとする澪の真心に、その混乱を一度振り払った。
『紬希、改めて、あの時はごめん』
「ううん、私こそごめん」
『それ以上に、ありがとう。ほんまにありがとう』
「……感謝される覚えなんて、」
「あるやろ」
遮ったのは、本体の澪だ。
「……え、」
「あたしがわがままで紬希を置いて死んだりしたから、その現実を変えるために、自分の身を犠牲にして走り回ってくれたんやろ。そのために性格変えようと努力して、寿命まで削って。そんな頑張りを、あたしは聞く耳も持たず一蹴した」
「…………」
「そんな最低なあたしを、それでも見捨てずに、最後は一緒に死のうとしてくれた。一人で逃げようとしたあたしを、自分の命と引き換えに、追いかけてくれようとした。……ありがとうって、言われる覚えないわけないやろ?」
微笑みかける澪に、目元がじんわりと熱くなった。
これまでの私を顧みるかのような彼女の言葉が、蓄えてきた記憶を雪崩のように蘇らせる。走馬灯――否、追想シネマのように。
忘れもしない――一周目、初めて澪の遺体を目にしたときのこと。彼女の、中身が抜けた殻とでも呼べる生気のない姿は、思い返せば昨日のことのように脳裏に映る。原因も過程も知らなかった当時の私は、それでも澪の死を避けようと、とにかくやり直し続けた。
最初の遡行先のログとして、誕生日を何度も繰り返した。乾杯が合わせられなかったり、お酒デビューした澪に先輩風を吹かせたりした。食べ合わせの悪いディナーは、もう飽きるほど口にした。誕生日プレゼントと称して盗聴器を仕掛けたこともあったし、ノイズの振れ幅によっては奥手な澪から情事に及んできたこともあった。
他にも、学食で文句を垂れたり、澪の診断書を見るためにかなりの無茶をしたり、過去のログが狂ってしまって酷い経験をしたこともあった。
そうした中で傷塗れになった私の心は、澪が癒してくれて、真心が勇気づけてくれた。そんな澪に恩返しができるように、性格から変えてみせようと頑張った。真心とはもう会えないけれど、彼女に顔向けできるような自分を目指した。
その全てが、今日この日に、生きた澪を見るための道筋。
ありがとうと、言われる覚えはやっぱりない。
だけど――澪のために、一人で勝手に奔走していたから、そうやって、
「澪……」
澪にその努力を認められてしまっては、涙を流さずには、いられないじゃないか。
「あたしまで泣けてくるやんか……」
泣きたくない――強くありたい。澪を泣かせるのはもっと嫌だ。
頬を伝う温かい雫を必死に拭う私に、澪が優しく腕を回した。ちらりと見えたその双眸には、確かに涙の膜が張っている。赤らんだ目さえ美しい。
澪の体温が、身体の芯まで沁み入ってくる快い感覚。彼女に抱きしめられるのはすっかり慣れたことだが、今回が一番、心に響いた。
涙を堪える傍ら、咳払いのような息遣い。
『なんか……あたしは気まずいなぁ』
「……なんでや、」
『いや、その紬希の努力を汲まへんかったどころか、焼き殺そうとまでしてたんやで。実際、そのせいで紬希は力を失ったし、その感じやと、真心も。……あたしは、ここで涙を流せる立場じゃない』
「…………」
前回を鑑みると、信じられないくらいに萎れた様子の真心だ。怒声とともに業火を放ってきていた彼女と同一人物とは思えない。
約一年前の、青い炎が一帯を統べた光景。
彼女は彼女で、罪悪感に苛まれ続けていたのだろう。
あの時は、私への信頼が十分に構築されるには早い頃だったから仕方がないとはいえ、自分の手でやってしまった事実は変わらない。私と私の真心を火だるまにした挙句、その片方を消滅させてしまったのだ。人を殺したのと、同じだけの罪の意識が芽生えていたに違いない。その意識は、私と澪が時を過ごすとともに根を伸ばし、どんどん膨れ上がっていたのだ。
その罪悪感に身体が負けてしまったのが、先の涙ということだろう。
「それも、あたしが悪い」
『は……?』
「は、やないねん。あんたが言ってたんや――あんたがその行為に至ったのは、あたしに紬希を拒絶する気持ちがあったことの証明やって。……なんや、先生が宿題出したことを忘れてるラッキーイベントか?」
皮肉な笑みとともに言い放つ澪。
宿題――とは何のことか分からないが、どうやら、彼女も真心の定義や位置づけについて説明を受けていたようだ。
こうして、まるで他人かのように接してくるから忘れがちだけれど、何を隠そう深層心理なのだ。彼女らが口にする言葉や及んだ行為は、例外なくその全てが、私たち本体の思考に即している。それが、意識下のものであれど、無意識下のものであれど。
つまり。
澪の真心が、極めて強い拒絶を伴って私に危害を加えてきたのは、澪がそれだけ私に思うところがあったという事実を述べている。
『……言わへんかったら、提出せずに済んだのにな』