29.「もう一回キスしよ」
*
「澪……!?」
私の思考は、行動とともに、停止した。
澪が、いる。どうして――。
私のプランは、澪と同時に、同じ方法で死ぬこと。つまり、澪は今隣の部屋で同じ状態にあるんじゃなかったのか。今まさに、この世を去ろうとしてたはずだ。
それなのに、どこか泣き出しそうな――それを無理やり抑え込んでいるかのような表情の澪が、視界の中にいた。
「紬希……!」
「澪、なんで――……」
お互い、妙な緊張感で少しも動けないまま、途切れ途切れの言葉で会話を繋ぐ。
私は、狙って元通りの展開に沿わせたのだ。一緒に逝くために――澪の自殺のタイミングを一周目どおりにするために。記憶の糸を引いて本来の展開を思い出しながら、ノイズによって逸れていく現実を半ば無理やり誘導までして。
だけど、澪が生きている。
この時点で澪が生きていると、私のプランが根本からひっくり返る。この私の奔走劇は、細部にわたる全てが、偏に澪の自殺を阻止するためなのだ。なのに――その自殺が、起きない?
やけに息の上がった澪が、数歩、部屋に入ってくる。玄関から鋭い眼光を飛ばす彼女の背後で、扉が閉まって光が絶たれた。夜目がきく私でも見えない距離で相対しているから、一拍して彼女は扉の隣の照明スイッチを入れた。
照らし出された部屋の中、私たちは見つめ合う。
「あたしが言うのもなんやけど――まず、その縄、外して」
「…………」
「話はそれから」
普段から堂々とした出で立ちの澪だが、それよりもさらに決然とした態度。そこに、動揺の色は見えない。私がこんな有様だというのに。
完璧とまで言えるこのタイミングでの乱入。一刻を争うような様子で。
彼女は。
私がこの状態にあることを、分かっていた――。
「……なんで、分かったの」
指示どおり、ゆっくりと首から縄を外して、立ち上がる。
私は澪と違って、自殺を目的とした自殺ではない。選択による死ではなく、消去法による死。彼女が生きている限り、私はこの行為に手を染める必要は全くないのだ。
きっと澪は、そこまで知っている。だから、力づくで縄を奪い取ろうとまではしないのだ。
静かに縄を机に置いて、澪を窺う。
「…………」
私の問いに、しかし澪は言葉を返さない。
彼女らしからぬ乱暴な所作で靴を脱ぎ棄てて、ずかずかとこちらへ歩を進めて。
「む……っ!?」
私をめいっぱい抱き締めて、突然唇を奪った。まるで、告白されたあの日のように――今回は押し倒されはしなかったが。
準備する間なんてなくて、半開きの口で受け止めた私は、その隙間から呻きのような声をあげることしかできなかった。
「……あれ、」
押し付けるだけのキスが少し続いたあと、そんな言葉とともに澪が口を離した。あまりにも強く唇を潰されていたものだから、少しじんじんとした感覚が残っている。昂った感情に乗せられた乱暴な口づけだ。
そんな彼女は、怪訝な表情だった。
「なんにも起きひん……」
「え?」
「いや、真心がキスしろって言ってたから、何かあると思っててんけど――」
一拍。
「待っ――真心と会ったの!?」
疑問に揺らいでいた澪の眼差しが、芯を取り戻してこちらを向く。
「ログハウスに、入れたの……!?」
「…………うん、」
首を縦に振る彼女は、しかしばつが悪そうに目線を横へと逸らした。
察するに、私の話が本当だったことを自らの身で証明してしまって、耳を貸さなかったことを申し訳なく思っているのだろう。私の立場で言うことではないが、その気持ちはよく分かる。気まずいに違いない。
けれど、そんなことは本当にどうでもよかった。
「ね、ねぇ、残りのログは……!?」
「いや、……分からへん。ログハウスに入って、真心と話しただけやから」
「そっ、か……」
ログハウスや真心という単語を口にするたびに、微かにクエスチョンマークの声調が入っている。辛うじて話についてこられるだけの知識はあれど、まだ何も分かっていない状態なのだと推し量られる。私だって、その仕組みを完全に理解したのはつい最近だったくらいだから仕方ない。
私が露骨に落胆したせいで、澪も申し訳なさそうに眉を顰めてしまった。
「あ、でも、ロードってやつは一回した」
「え……!?」
果たして思い出したかのように言った彼女の言葉に、胸の奥が冷やついた。
ロードをした。それはつまり、ジャンクログの生成を意味している。
寿命の、変換。澪の真の死因そのもの。
「な、なんで――」
「紬希を助けるため」
「……え、」
「実は、あたしがここに突入したの二回目やねん。最初にここに来たとき、もう、手遅れやった。……やから、真心の助けを借りてロードってやつをした。紬希がまだこの世におる間に、駆けつけれるように」
……うそ。
「ジャンク、ログは……?」
「あたしは、まだそういうところあんまり分かってないけど。真心は、ジャンクログの生成と紬希の自殺までの猶予に折り合いをつけたログをロードするって言ってた。……それでも痛手とも、言ってた」
「そんな……」
嘘だ。
それって、つまり。
何らかの作用でこの時点までログが残って、せっかく澪が自殺せずに済んだのに、私の身勝手な愚行のせいで貴重な寿命を削ったってことじゃないか。たとえ自殺しなかったとしても、もう、長くはない寿命を。澪の真心の言うとおり、痛手を背負って、私のために。
あぁ――駄目だ。
自己嫌悪が、私の頭を支配していく。
せっかく澪が生きているのに。せっかく私を想い続けてくれているのに。せっかく奇跡を掴み取ったのに。私は私を、どんどん嫌いになっていく。
「…………」
――自分を好きになってくれて、ありがとう。
脳裏で言葉が再生された。自分の声で。真心の声で。
――おかげで、私はあなたを好きなまま逝けるよ。
儚くて、力強い笑み。私を勇気づけ続けてくれた彼女の最期。
そうか。
今の私は、自分を嫌えない理由があるんだ。好きでいなきゃいけない理由があるんだ。私が自分を嫌ってしまっては、彼女の犠牲を穢すことになる。最後まで笑顔のまま逝ってくれた彼女への、冒涜になる。
自分が背負っているものを、忘れていた。
「……あ、そうだ、」
厚く張っていた自己嫌悪の雲は、少しづつ薄くなって、晴れていって。
その間隙を縫って、正常な思考を走らせる。
「キス、」
「え?」
「澪の真心が、キスするように言ってたんだよね」
「あぁ、うん、そう。紬希の部屋に行って、キスでもしたれ、って」
なんだその投げやりなキスの指示は。
いや、ともかく。
私の経験則では、真心の言動には必ず意味が込められている。時には自分自身を勇気づけてくれたり、時には窮した現実を打開するヒントをくれたり。そもそも限られた状況でしか会えない彼女は、無駄な会話をしようとはしない。私にとっての私の真心がそうだったように、澪にとっての澪の真心も、そういう位置づけにあるはずだ。
なら、キスをしろというのは、すなわち。
「ねぇ、もう一回キスしよ」
「え、」
「私、澪の真心が何を言いたかったのかが分かる。前回である程度コツ掴んだから、私からキスしたら、上手くいくかもしれない」
「ん……なんかよう分からんけど、考えがあるなら頼む。紬希の力借りな、あたし一人では状況を掴むことすらままならへんし」
少し戸惑いの様子を見せながらも、澪は大人しく目を閉じた。慣れているとはいえ、そうあまりにも堂々とキスを待たれてしまっては、こちらも普段より勇気が要ってしまう。
生唾を呑み込んで、私は澪へと唇を近づけた。