28.「――今すぐ紬希の部屋行け」(2/2)
…………。
沈黙。
そう。
あたしは今、死の淵にいる。首に縄をかけて、体重を乗せた、ほんの直後だ。
無理して引き延ばしていたあたしの人生は、両親にレズビアンだと打ち明けたあの瞬間に、延ばし続ける意味を失って。両親が悲しむからと、我慢して、努力して、苦しんで、吐いて――なのに彼らはあたしの気持ちを受け容れる気はないようで。死にたいより、むしろ生きなくてよかったんだと思えて。無意識に探した次の命綱も、ひとつとして見つからなくて。
決心を胸に、用意していた縄をコルセット錠に掛けた。自殺の方法を調べるのに熱中していた頃に得た知識を恃みに、成人用おむつまで穿いた。本当はブルーシートも敷きたかったけれど、さすがにその大きさのものを買って持って帰ってくるのが億劫だったので、おむつだけで妥協するに至った。きっと紬希がそう遠くない未来に見つけてくれるだろうと信じて。
そして、遺書まできちんと用意した。
調べた中では、一番楽で、一番迷惑のかからない方法に思える、座位による首吊りで。
あたしはこの世を、去ろうとした。
『やっと解放されたと思ったら、急にここで意識が再開した』
「……うん、」
『ほんまに生死の狭間でここに来たんやったら、言うまでもなくもう死んでるで。こんな話してる場合じゃない』
「え、……どういうこと?」
『失敗や。今な、体勢崩れて、普通に窓際で寝転んでるだけやで』
「え……、」
嘘、失敗?
信じられない。
自殺の方法が決まって、それに絞って検索をかけて、失敗談も読み漁って対策したつもりだったのに。カーテンレールが折れて失敗だとか、同居人に見つかって失敗だとか、気道ばかりで肝心の頸動脈を絞められてなくて無意識に暴れて失敗だとか――思いの外たくさんあった記事に、片っ端から目を通したのに。
コルセット錠が重みに負けたならまだしも、体勢が崩れたって――。
『自覚ないん?』
「え……?」
『最後の最後で、気持ちが揺れたことの』
感情の読みにくい薄い表情で、真心が言う。
気持ちが……揺れた?
『紬希はそこんとこ思い知ってたみたいやったけど――あたしな、あんたの気づいてないことまで知ってんねんか。深層心理なだけあって、脳が知ってることなら、表層心理が気づいてなかったり忘れてたりすることでも、ちゃんと知ってる』
「なんか……怖いな」
『自分に対するプライバシーなんてないやろ。……で、だから、あたしはずっと知ってたで。さながら何とも思ってないみたいに平然と振る舞っといて、心の裡では、紬希の言葉を聞きもせず一蹴したことを散々後悔してるってこと』
「…………」
見事な図星だった。
本当に、彼女はあたしの胸中を知っている。封じ込んだ感情まで。
――聞けばよかったと。耳を貸せばよかったと。
紬希の話をこれっぽっちも信じていなかったというのに、なぜか、そうした後悔がいつまでも心に張り付いていた。首に縄をかけた、そのときまで。
それが心残りで、首吊りの体位に乱れが生じた、というわけか……。
恥のような気持ちが無性に湧いて、真心と目を合わせられなかった。そんな私に、けれど彼女は構わず言葉を投げかけてくる。
『優しいあたしからのアドバイス。その後悔、ここで止めといたほうがいいで』
「……止める?」
『このままじゃ、もっと大きい後悔が待ってるでって話』
あたしは首を傾げた。何か重要なことを言っているようだが、いまいち理解できない。
『――今すぐ紬希の部屋行け』
「え、」
『分かるやろ。あんたの死に様を何回も見せつけられて、それを変えるために何回も何回もやり直して、あの言い草やったらたぶん相当なものを代償にして、やっと辿り着いた先で、話を聞いてもくれへんかってんで。……あんたは後悔程度で済むことでも、紬希からしたら人生の崩壊や』
「…………」
『なぁ。もう、やり直されへん体になったって言ってたよな。あたしを説得する引き換えにって言ってたとおり、あれはあたしのせいや。ここに入ってきたから、この灯籠を暴走させて焼き払った』
「は!?」
あまりの言葉に、意味を理解するより先に、ほとんど反射反応で声が出た。
焼き払った? 紬希を?
あたしの真心が……!?
何を、そんなにもあっさりと告白しているんだ。どうしてそんなにするりと口にできたんだ。とんでもないことをしてるんじゃないのか――。
『あの時のあたしは冷静じゃなかった。紬希を排除することしか頭になかった』
「な、何言ってんの……!? 紬希に何したん!?」
『この炎を使って苦しめて、諦めてもらおうとした。そのまま、殺してしまおうとまで思った瞬間もあった』
「はぁ……!? 嘘やんな、嘘って言っ――」
『確かに紬希に直接危害を加えたのはあたしや。……やけどな、さっきも言うたやろ、あたしはあんたの深層心理やって。それが何を意味するか分かるか?』
「何……!?」
冷然な目が向けられる。嘲りのような。蔑みのような。自分の目だと分かっていても、その鋭さに硬直してしまった。
そのとき、ふと。
なぜか、その眼差しに含まれる意図が読み取れた。言葉になんてされていないのに、言葉で受け取るよりもはっきりと。まるで、思考回路が連結しているかのように。魔法のように。
――紬希はそこんとこ、理解してたで。
『あんたに、紬希を拒絶する気持ちがあったことの証明や。意思よりも意識よりも深い、八百坂澪の根幹に』
「は、」
食い下がろうとして。反論しようとして。
次の一歩が、踏み出せなかった。
思い当たる節がある――とまで、はっきりとした感覚があったわけではない。ただ、紬希を心の底から受け入れようとしていたとは、どういうわけか断言できなかった。
――紬希に比べたら愛の深さは負けてるかもしれん。
それは、全力で好きになってしまうことを避けているからだと。裸の心を預けてしまうのが怖いからと。そうでなくとも、単純に時間が足りていないからだと。
そう、思っていた。
違う? 別の理由だった?
自問自答を、真心は鼻で笑い飛ばした。
『その答えを考えるのは、じゃあ、宿題にしとく』
彼女が言う。……あたしが、言う。
『とにかく今は紬希の部屋に行け。そんで、キスでもしたれ。宿題の提出はそれからや』
「キス、」
『いーから。やれば分かる。早よ行ってこい』
「う、うん……」
しっしっ、と手を振る彼女に戸惑いながらも返事を絞り出すと、その直後、頭がふわりと浮く感覚があった。脳が浮き上がるような、精神が身体から離れるような。
意識が飛ぶ。
そう思った次の瞬間には、あたしはログハウスにはいなかった。
*