27.「さん。に。いち」
*
「こんなん今さらやけどさぁ。……ここの学食ちょっとダサすぎひん?」
「まぁ……そうだね。よく聞くよ、そういう声……」
「日ごとのラインナップも少ないし、二、三日続けて同じメニューなんてしょっちゅうやし。食べたいもん無いから、結局何となくこうやってカレー頼むねんな。カレーも別に食べたいわけじゃないっちゅうねん」
「そうだね……。私なんて、カレー苦手だから素うどんだよ……」
――予定通り。
「かんぱぁーい!」
「かんぱーい……」
「ぷはぁ!」
「どう? 美味しい……?」
「美味しい! ……でも、これほんまにアルコール入ってるんか? なんか普通のジュースの味しかしぃひんねんけど」
――狙い通り。
『死ぬまで、あたしのこと思い浮かべもせんといて――反吐が出る』
――筋書き通り。
*
五月二十八日。日曜日。
しんと静まり返った自室。私の別荘は、当たり前だが、私だけの空間だった。
邪魔が入らない代わりに、いかなる救いもない。ただ、無機質な静寂を閉じ込めているだけの部屋。正の感情を押さえつけ、負の感情を引き出す沈黙。
ぶぅぅん、と、冷蔵庫。
いぃぃん、と、換気扇。
ぽたぽた、と、滴る水。
この部屋が静かになったとき、聞こえるのはいつもそれらだ。無機質で温かみの欠片もない音。いつだって変わらない時間の流れを示すかと思えば、私の心にカウントダウンを仕掛けてくることさえある。冷たい沈黙と合わせて、この部屋をより孤独に染めていく。
「ろくじゅう。ごじゅうきゅう。ごじゅうはち。ごじゅうなな――」
時を刻むのは、私もだった。
部屋を見渡せる場所にしゃがみ込んで、ライティングデスクよりも低いベッドの上に移動させたデジタル時計を見ながら、淡々と数を数える。一定間隔で数字を変更していく時の支配者に従って、正確に。
あれから――思えばもう、一年近く経つのか。
何をしたって。どれだけ犠牲を払ったって。何度覚悟を決めたって。
運命は変えられないと知った、あの日から。
「ごじゅういち。ごじゅう。……ねぇ、もう少しだね」
宙に――否。自分に、言う。
自分の中の、もうひとりの自分にめがけて。
返事がないだけで、彼女は確かに私の中にいるのだから。会話はできなくても、私がいると信じれば、彼女はいつだってここにいる。
「これは、許されるよね。……私、できることは全部やったよ。すぐできることも、勇気を出さなきゃできないことも、命を削らないとできないことも、全部、やったつもり。それでも、駄目だったよ。その全部、一気に無駄になっちゃった。もう、やり直せないのにね」
――あの日。
もう一生澪を救うことができないと分かったあの日。
私は、最後の覚悟を決めた。最後のプランを立てた。
なぜ、これまで思いつかなかったのかと思うほど、完璧なプランだった。あまりにも隙がなくて、思わず自分に酔いしれてしまうほどだった。まさに灯台下暗しな必勝法。
「澪はね、きっとはじめから、私なんかが救える相手じゃなかったんだよ。……だって、そりゃそうだよね。なんか変われた気がしてただけで、私なんてどこまでいっても所詮ただの弱虫。変われたとか、自分が好きになってきたとか、あんなのは雰囲気に浮かされた錯覚だったんだよ。何度やり直したって、多少前向きになれたからって、人を救えるような器じゃないんだよ」
私の一番の特技に、自己嫌悪が返り咲いていた。今となっては、下ネタなんて頭の隅にもいない。ランキングですら、ない。
「今日、澪が死んじゃうんだけどさ。っていうか、きっと今もう取り掛かってるんだと思うけどさ。……澪が死んでも大丈夫な、最強のプランがあるんだよ」
澪の死を避けるために模索してきたプランを一蹴する、最強のプラン。
やり直しができないため、一度でも澪が死に行き着いた時点でアウト。今澪の自殺を止めに入っても、飛び降りを図った前例のとおり、何かしらの方法で彼女は自殺を成功させる。
そんな厳しい条件を物ともしない、澪が死んでも機能するプラン。たとえどれだけログハウスがバグを起こしても、一発で解決できるデバッグ。
「あのね、」
それはね。
「私も同時に死ぬっていうプランなんだよ――」
それは。五月二十八日の、土曜日の、十七時五十三分。
一度突入したから分かる。見た光景から、時間まで推測できる。
その時間に、大窓のコルセット錠から提げた縄で、澪は首を吊る。
座位から行う、通常のそれよりもハードルは低いが難易度の高い方法で。のちに私に気づいてもらおうと、部屋の鍵を開けた無防備な状態で。
なら。
私も同じように死ねば、誰も悲しむことはない。むしろ、同じ時間に同じ方法で逝けたのなら、永遠に添い遂げられるに違いない。何も、この世で一緒にいる必要はないのだ。
東仙紬希と八百坂澪は、あの世で無限に寄り添いあう。
「さん。に。いち」
――じゃあね。
それは、澪に向けてか、もうひとりの自分に向けてか。
はたまた、世界に向けてか。
私は、縄から手を離し、腰を下ろして、首元の縄に体重を預け――。
「紬希!!」
――転瞬。
扉を蹴破る音と、その声とで。
私の最強のプランは、前提から木っ端微塵に散った。
*
《あとがき》
例によって、乙糸旬です。
【三幕】をお読みいただき、ありがとうございました。
長くはなくとも、密度は最大級の幕でした。お疲れ様です。
あえて、内容には触れません。
ただ、皆様に何かしらの感情を抱いてもらえていると嬉しいです。
さて、次の【終幕】が、その名のとおり最後の幕となっております。
何度もやり直して前に進めず、むしろ狂い絡まって大波乱となった紬希たちの物語が、ようやく結末へと行き着きます。
紬希が駆け回ってきた努力が、何かしらのかたちで実を結びます。
著者の立場から、紬希にも澪にも思い入れがあります。彼女たちには幸せになってほしい。
ですが、時間遡行も、鬱病も、そう思いどおりになるものではありません。
紬希と澪の未来に、幸せはあるでしょうか。
【終幕】の終わり――つまり最終回に、あと一度だけお会いしましょう。
ラストスパートです。