26.「冗談、でした――……」(2/2)
喉が詰まる。
本人の前で言うのが、辛い。ましてや、周囲に自殺の影すら見せていない時点の澪だ。本人にとってもショッキングなことを言っている自覚がある。
「私はもう、嫌だ……。澪を失いたくない。もう、澪のあんな姿、見たくない、から……」
勝手に、頭が俯いた。
真心との別れのときは、下を向かないでいられたのに。そもそも今は、お互いがベッドに腰かけているから目は合わないのだけれど、それでも、俯いた時点で負けだと感じてしまう。
私は――頑張ったと、思う。
澪の死身に一生ものの恐怖と悲哀を植え付けられてなお、立ち上がって、何度もやり直して、何度も死身に行き遭って。それでも現実に負けじと、ここまでやってきた。澪の愛情や真心の手解きがあったにせよ、自分を好きになれるくらい性格を変えようと奮闘して。自分の寿命を引き替えにして、澪に尽くしてきたつもりだ。
だから――。
「ねぇ、お願い、み、お――……」
だから。
私は、これで一連の物語は好転すると、どこか妄信してしまっていたのかもしれない。澪がログハウスに干渉できるできないは別の問題としても、とにかく、あとは彼女の頑張り次第で何とかなるものだと、疑わなかった。
そんな私にとって、目を合わせたときの澪のその表情は、衝撃なんてものでは済まなかった。
「……あのさ、紬希、」
真剣に話を聞いている面持ちでもない。私の話に目を丸くしているわけでもない。これまでの私の奮闘に感銘を受けているわけでも、ない。
ただただ、そこには、不信があった。
あまりにも冷徹で、あまりにも非情な、その表情。
命を懸けて高々と積み上げてきた何かが、披露した相手にあっさりと蹴り倒されてしまうような感覚。血の滲むような努力が、ひとつ瞬く間に泡に帰してしまうような心象。
ただ顔を見ただけで、私にとってはそれだけの打撃だった。
「お願い、冗談って言って。作り話って、妄想って、言ってーや」
「違う、これは、ほんとに……」
「なぁ、考えてみて? 紬希がどこまで知ってるか分からんけど、あたしさ、もう結構人生に疲れてて、生きてるだけで辛くて、そこに大学のあれこれも重なって、かなりギリギリの心で生活してる自覚あるねんか。そんなときに光明さながらに出会えた人に、急にこんな訳わからんこと言われる気持ち、分かる?」
澪が別段棘のある声音で言い詰めているわけではないのだが、すっかり気圧されてしまっていた。
何もかもが崩れ去る脳裏の映像に、私は何もできない。
「紬希もレズビアンって言うなら、それをカミングアウトする怖さ、分かるやろ? それも、女の子の友達に打ち明ける怖さ。……あたしさ、一回あってん。中学の頃のめちゃめちゃ仲良かった女友達に、恋愛感情があるって伝えて、関係が一瞬で壊れた経験が」
「…………ぇ、」
「それでトラウマになって、高校の頃は、自分の気持ちをずっと誤魔化しながら生活してた。どれだけ好きになっても、友情を装い続けた。紛い物の友情と外面と建前で、自分をギチギチに縛ってた」
知らな、かった……。
何度やり直して、何度澪と話しても、そんな事実は一度も告げられなかった。
だけど――思えば、これもまた、ヒントがあった。今回が特に顕著だったが、一周目のときも、レズビアンを打ち明けることにただならぬ恐怖を覚えているように見えた。私だって、性的マイノリティをカミングアウトする怖さは分かっているつもりだけれど、彼女のそれは度を越していた。
まるで、命を懸けるような。
少なくとも、社会的生命は懸けていたような。
いっそ穏やかな様子の澪が、ひとつ大きな呼吸を挟んで続ける。囁くように。
「大学に入って、紬希と出会って、アホなあたしは性懲りもなく好きになって。でもやっぱり、言い出せる気はしぃひんかった。だってさ――たぶんあたしも大人になったんやろな、紬希には本気の愛情を抱いちゃってたから。想いが強ければ強いほど、同性愛を打ち明けたときのリスクもでかい。……異性愛でも、今の関係を壊したくないからって告白できひんかったりすんねんから、恋愛の常やな」
「…………」
「でもなぁ、紬希が嬉しいこと言ってくれたから」
その口調はとても静謐で――だけど、口元は綻ばない。穏やかには、笑わない。
「あたしと出会えてよかったとか、あたしのお陰で自分が好きになれたとか……。何となくやけど、今日勝負に出ようと思ってた矢先のそれやったから、神様っておるんやって思ったな。このチャンス逃したら次はないって思って、トラウマに胸を焼かれながらも、勇気を出してカミングアウトした」
「…………」
私は、何も返せない。黙って聞くので精いっぱいで。
「あたし、別に相手もレズビアンであってほしいなんて思ったことない。そんなん烏滸がましいから、あたしの気持ちを知ってもらって、受け入れてもらったうえで、関係を続けてさえいければ充分やと思ってた。そう、言い聞かせてた。……ほんならさ、紬希もレズビアンとか言い出すし、あたしのこと大好きやったとか言うし、めちゃめちゃにしたいとか言うし。あたしだって性欲は女の子に向くから、別に紬希に貞操観念脅かされること自体はどうでもいいしな。そんなことより、自分が好きになった相手が偶然レズビアンで、しかもあたしのことを好きでいてくれたなんていうとんでもない奇跡に、訳わからへんぐらい嬉しかった。キスせずにはいられへんぐらい昂ってた」
そこまで淡々と言い繋いで、……空気が変わった。嫌な空気に。澪の目元に、怒りに似た色がはっきりと宿った。
ただただ怖くて、耳を塞ぐことすら敵わなかった。
「そんな奇跡を掴み取ったっていうのにさ、その相手が意味分からへんこと言い出したなんて、信じたくないねん。セーブとかロードとか、あたしと何回も会ってるとか、ほんまに勘弁してくれって話。……なぁ、どっちか選んで、紬希。さっきの話を冗談って認めるか、この奇跡を蔑ろにするか」
「待っ――……」
待って。そんなの、酷すぎる。
冗談なんかじゃないし、この奇跡を潰したいわけでもない。澪と出会えたことは、私にとっても何にも代えがたい奇跡だ。この奇跡を確かなものにするために、私はこれまで走り回ってきたっていうのに……。
「ねぇお願い、信じてよ……! 私、澪の真心を説得するのと引き換えに、もうこれ以上やり直せない体に――」
「紬希!」
その一声で、私の訴えは軽く蹴散らされた。
「最後にもう一回だけ言う。その話が冗談と認めるか、あたしの恋心を打ち砕くか。……選んで」
冷酷に。冷たいナイフのように。
澪は言い放った。
「…………」
訴えの言葉は、もう、思いつかなかった。
取りつく島のひとつもない。
澪の気持ちだって、本当は分かっている。一刻も早く、辛い現実を変えたいのだろう。一刻も早く、自分に嘘を吐くのを止めたいのだろう。命綱を繋ぎ留めておく柱が、欲しいのだろう。
分かって、いるけれど――。
「じ、」
あぁ。崩れる。
私が積み上げてきたものが。私が繰り返してきたものが。
「冗談、でした――……」
その、自分の回答によって。
私の全てが、否定された気分だった。
澪のためにやってきたこと、自分のためにやってきたこと、二人のためにやってきたこと。澪に背を押されてできたこと、自分の真心に背を押されてできたこと、澪の真心と向き合ってできたこと。犠牲になった、真心と能力。
その、全てが。
あっさりと。
*