26.「冗談、でした――……」(1/2)
*
「――大学の寮で。はい、五一○号室です……!」
声。……澪の、声。
遠くで、少し不明瞭な澪の声がする。
私は――何を。
「さっき、私がベッドに押し倒してしまって。たぶん、それが原因で……!」
ここは……私の部屋か。ベッドに仰向けに倒れていて、ぼやけた視界は白い天井だ。
なんだ、澪はかなり焦った声音だな。あまり聞かない、切羽詰まった響き。
ベッドに押し倒して? それが原因?
…………。
まさか……!?
「みお――」
「え!? 紬希!? ……あ、なんか今復活しました! もう大丈夫かもしれないです!」
「ごめん、寝てただけだと思う……」
「あー寝てただけみたいです! 思い込みで電話してしまって本当に申し訳ございませんでした! 失礼します!」
軽く上体を起こして見やった先で、ぴ、と澪がスマホの通話を切る動作。
どうやらというか、危惧していたとおり、救急車を呼んでいる最中だったようである。既のところで阻止できてよかった。
まだ整理のついていなさそうな面持ちのまま、こちらにドタバタと駆けてきた。
「紬希大丈夫!? ほんまに寝てただけなん!?」
「うん……ごめん、疲れてたのかな」
「疲れてた――って、キスの最中に急に寝落ちするって、さすがに疲れすぎやろ! 殺しちゃったと思ってどんだけ焦ったと思ってんねん!」
「ごめん……」
そうか。澪のログハウスに入っていた間と、私の真心と話していた間、動かなくなっている私を心配して焦っていたのか。
まぁ……それは、心配するだろう。彼女の言うとおり、かなりの勢いで押し倒されたものだから。ただ、息はしていたはずだ――殺したと思ったは大げさだろう。
……というか。
澪のログハウスに入っていた間、彼女はどうしていたのだろう。身体が――もとい口が離れた状態で相手のログハウスに居続けるのは不可能な気がするが、何せそのあたりの仕組みを詳しく理解していないから何とも言えない。もしかすると、澪のほうは眠ったようにぽっかり記憶が抜け落ちているのかもしれない。
「いや、でも……なんか大変なことになってなくてよかったぁ……」
「ごめんね……」
「ほんまによ。……でも、あたしが悪いことには変わりないからな。あたしこそごめんやわ」
焦りすぎて体力までだいぶ削っていたのだろう。今の澪はだいぶなよなよしている。
私の無事を確認して、澪は力なくベッドに腰かけた。私もゆっくりと上体を起こしきって、彼女の隣に位置取る。他人のログハウスからの覚醒だからか、少し頭が重い。
「いやー、よかったよかった」
未だ安堵を言葉に出している澪の隣で、彼女の体温と息遣いをしみじみと感じながら、私の頭は思考に落ちた。
澪の部屋。飛びつかれて、キスをしたあとの。
現実に帰って来た――つまり。
私の真心は、もう。
私と澪の未来を切り開くために、自分の存在を犠牲にして。私の相棒には、自分ではなく澪が相応しいと言わんばかりに。
きっと、いつかこうなることも見通して、私がひとりで前を向けるように言葉をかけてきたのだ。私が私を好きになれるよう、陰で支えてきてくれたのだ。
今、彼女はいない。
――東仙紬希という人間から深層心理が消えるなんてことはもちろんあり得ない。
そう、彼女は言っていた。彼女と会えないだけで、話せないだけで、私の中には永遠に居続けるのだと。察するに、ログハウスよりももっと深い、彼女が本来あるべき静かな深層で。
……ログハウス?
そうだ、確か。
「……紬希?」
「あ、うん?」
「いや、なんか、ぼーっとしてたから」
「あぁ……うん、ちょっとね。さっき、夢を見てさ」
「ほんまに寝てたんやな……」
真心の言葉を、もうひとつ、思い出した。
澪のログハウスで暴走した炎には、私の能力を壊す力がある、と。そして、能力の無効化と同時に、彼女が消されると。
それはつまり、裏を返せば、彼女が消えたときには既に能力が果てているということだ。彼女の消失以上に、合図も実感も何もなく、ただただあっさりと。私が添い遂げてきた力は、消えているのだ。
「で? その夢がどうしたん」
焦りと安堵が治まって、澪の表情と声音がいつもの優しいそれに戻ってきている。
見た目や話し方できついと言われやすいらしい彼女の、酔いしれるような優しさ。澪を怖い人だと断じる人たちには到底分からない、私だけの。
――もし澪の最期を避けられなかったときのこと、考えてる……!?
澪のそれらと対比して、真心の表情と声音がフラッシュバックした。珍しく――もとい、ついに最初で最後となった、焦燥に駆られた顔と声。
そう。私の人生はもう、取り返しがつかない。つまり、澪の人生も、取り返しがつかない。
一度でも澪が死んでしまったら、そこでこの物語は終了。奇跡で先送りしていたその節理が、私の前についに降り立ったのだ。
「……ごめん、夢じゃ、ない」
「え、なんやそれは」
「あのさ澪、聞いてほしいことがあるの……!」
「おぉ、急にテンション上げるな、びびるから」
大仰に身を引いた彼女の手を、握る。
焦って電話までしていたからだろう、手のひらが少ししっとりしている。それでも甲はすべすべで触り心地がよく、すらりと綺麗に伸びる指が美しい澪の手を、ぐっと握りしめた。
今は亡き真心と立てた、東仙紬希史上最大で最後のプラン。
澪に、セーブロードを意図的に操作できるようになってもらう。そのシステムについて説明して、自分からログハウスに干渉する術を模索してもらう。
こんな突飛な話を聞いてくれるぐらい仲良くなった状態かつ、時間とともに減る寿命が十分に残っているタイミングで、それを切り出す。この作戦の実行にあたって私もジャンクログを大量に生成するため、実質一度きりのチャンスで決めなければならない――そもそも能力を失ってしまったけれど。
いずれにせよ、真心にも啖呵を切ったくらいだから、このチャンスを無駄にすることは許されない。澪の真心だって、私の想いに応えてくれたんだから。
……今だろう。今しかない。
「あのね、人間には、人生をセーブしたりロードしたりする能力があるの」
「…………は?」
「うん、そう……なるよね。でもお願い、まず聞くだけ聞いてほしい」
「う、うん、」
だいぶ戸惑った様子の澪に、私はどこから切り出そうかと思案する。
やり直しはきかない。慎重に、噛み砕いて。澪の理解力や洞察力任せでなんとかなるような話ではないのだ。
「人生は分かれ道の連続って、言うよね」
言い出しで、無性に懐かしくなって、けれど、笑いそうになった。だって、これはまるっきり、真心のセリフの借用だ。
だけど――別に真似ようという意図はなかった。言ってから思い出したのだ。
真心が、確かに私の中にいる。そう勝手に思ってしまった。
「……逆の道を選んでたら状況が悪化してたかもしれないし、実は今より幸せな世界だったかもしれない。最悪、人生の終わり――死に繋がる道だったかもしれない」
「そう……やな、まぁ」
真心からこの話を聞かされているときの私よりも、澪は呑み込みが早い。
それもそのはずで、何を隠そう澪は哲学専攻なのだから。
今はまだ一年生だから専攻には分かれていないが――それに、専攻したところで学部生がその学問を究めるなんてありもしないことだが、そういう話ではない。数ある中から哲学を専攻しようという時点で、そもそも哲学に向いている、少なくとも興味はあるのだ。心理学専攻の私よりこういう話に適性があるのは間違いない。
「そんな分かれ道が無数に連なっているのが人生で、私たち人間は、それを無意識に選択して生きている――……」
それから、たっぷり数分かけて、澪に哲学を語り尽くした。
実は、人生は選択の連続という概念が間違いであること。
人生は、やり直しの連続であること。
ゲームのセーブやロードに似たシステムが存在していること。
ひたすら、説明を続けた。尤も、そのほとんど――いや全てが、真心の受け売りになってしまったけれど。
そして、私はそのシステムを意図的に操作できることも、打ち明けた。
「実は、もう澪とは結構長い時間を過ごしてるんだよ。二年生の六月まで進んだのが一番長くて――それを、人生のフロントラインって呼んでるんだけど。やり直してるぶんも含めたら、一年なんかじゃ済まないくらい、澪とは一緒に過ごしてる」
澪は三ヶ月くらい前に引っ越しの挨拶で初めて出会ったと思ってるだろうけど、実はそうじゃなくて――と。
喉が渇くくらい、とにかく説明を続けた。澪は、私が言ったとおりに、とにかく聞きに徹してくれている。その神妙な表情からは、彼女の思考は読み取れない。
「でね、澪のログハウスがおかしくなって、セーブとロードを無意識に頻発しちゃってるんだよ。そのせいで、……長く生きられなくなってるの」
澪の眉が、僅かに反応する。突飛かと思えば、今度はデリケートな話だ――無反応で聞かれる方が不安になるくらいである。
「それでね、澪には、自分のログハウスに入れるようになってほしいの。セーブとロードを意図的に操れるようにして、その過剰なジャンクログの生成を、止めてほしい。……できるかどうか分からないけど、私だって生まれつきのものじゃないし、ログハウスの存在さえ知れれば、何とかなるかもしれない」
改めて考えてみても、あまりにも成功の可能性が低いプランである。もちろん、それは真心も承知の上だったのだけれど。ログの上限というシステムの発見に加え、澪の鬱症状によるジャンクログの過剰生成、さらには直近のログが一通り狂ってしまったとなれば、たとえ成功の可能性が限りなくゼロであっても、そこに賭けるしか道はないのだ。
「そうじゃないと、澪が、……死んじゃう」