25.「……自分を好きになってくれて、ありがとう」(2/2)
真心の身体が――見えづらい。白い光に溶け込むように、霞んでいる。
彼女の笑みが、ゆっくりと、浅くなっていく。儚さが前面に現れた頃に、返事が紡ぎ出された。
『バレちゃったか』
「ねぇ、それって――……」
『うん。……きっと、もう、時間なんだと思う』
…………。
言葉を返せるわけがなかった。
笑顔で言うのだ、彼女は。もちろん、笑顔で別れよう、というのを二人で暗に共有していたのだけれど。いざそんな顔を見せられると、切なくて、苦しい。
馬鹿な話題で逸らしていた現実が、いきなり牙をむいてきた。
「ほんとに、もう、会えないの……?」
『……そうだね』
やけにきっぱりと言い切ったのは、無駄な希望を持たせたくないからだろう。私の性格を誰よりも知っているから、そう簡単には縋らせてくれない。
『だけど、私が消えると言っても、東仙紬希という人間から真心が――深層心理が消えるなんてことはもちろんあり得ない。こうして話すことができないだけで、私はずっとあなたと一緒にいる』
「それは……分かってるけど……」
ぐず、と。
自分が泣きかけていることに、今気づいた。案の定、彼女のいたずらっぽい笑みがここぞとばかりに咲く。
『なに、また泣いてるの?』
「まだ、泣いてないけど。でも、泣くよ、そりゃ」
『やっぱり、まだ臆病かもしんないね』
「自分のことを好きになったんだから、あなたとの別れが悲しいのは当たり前じゃん」
意地悪を言う彼女に負けたくなくて、涙を堪えながら毅然と言い返してやる。そんな私の姿さえも、彼女は愉しそうに笑ってのける。
『うそうそ、意地悪言ってごめんね。……というか、ありがとね』
「え、……なにが?」
『笑って別れたいっていう私の気持ちを汲み取ってくれて』
汲み取った――というより、読み取った。彼女の考えが読みやすいのは元からだったが、ここ数回の関わりで、その精度が一気に加速したのだ。
『ほんとは心の中で号泣してるくせに、お得意の下ネタで無理して笑わせようとしてくれてたでしょ』
「また嫌な言い方する……」
『でも、ほんとに助かったよ。私、涙見せるわけにはいかないからさ』
「……なんで、」
『あなたの中で、どうやら私は強さの権化になってたらしいから』
「そんなとこまで読み取らないでくれる……!?」
無性に恥ずかしくなって、思わず強い口調で返してしまう。彼女は相変わらず笑って流すが。
私と彼女は一心同体。同一人物。
だから私は彼女の言外の意図が読み取りやすいわけだが、それは無論、逆も同じことだ。というか、私の思考は彼女のおさがりという話だから、読もうとしなくたって知られている。私にプライバシーはないのか――いや、自分相手のプライバシーなんて訳が分からないけれど。
真心が、大きく息を吸う。ここの綺麗な空気をふんだんに味わうように。
『せっかく楽しい話してたのに、いつの間にかしんみりしてきちゃったね』
「うん……」
『ねぇ。最後にさ――面白いことしてよ』
「無茶ぶりの頂点!」
私みたいな陰キャにとっては致命傷の注文だった。そもそも、私みたいな陰キャはそんな注文をされることはないけれど。
面白いこと……。
澪じゃないんだから漫談なんてできるわけないし、一発ギャグなんて持ってないし、変顔もこれまでやってきてないから分かんないし……。関西のノリを学ぶより、すぐに使えるギャグでも教えてもらっていればよかった!
「…………」
『……ギブ?』
「いや、」
……下ネタだ。下ネタは全てを解決する。
自己嫌悪の次に得意だったのが下ネタトークなのだ。その自己嫌悪がなくなったというのなら、私の特技ランキングに繰り上げが起こって、今や下ネタが一位になっている。私という人間が最も得意とするものを、ここで振る舞わなくてどうする……!
「待って、ブラ外すから」
『ブラ外すから!?』
驚嘆に震える彼女を尻目に、私は服の上からブラのホックを外した。ブラを外すことが目的というより、胸を自由にすることが目的だ。
上体が地面と水平になるように腰を折って、胸を重力に従わせる。これまでは澪の嫉妬と攻撃の標的だったこの胸が、艱難辛苦を乗り越え、ついに輝くときが来た。もう、淫らな肉塊とは言わせない。
「いきます」
その宣言で、自分でハードルをぶち上げながら。
胸の前で構えた両拳を糸を巻くように高速で回転させて、吊られた肉塊を叩いた。
「パンチングボール」
ぽよぽよぽよぽよ…………。
『…………』
「…………」
ぽよぽよぽよぽよ……ぽよ…………ぽよん。
沈黙。
「ど、どう……!?」
『どうしたって笑えない』
「どうしたって笑えない!?」
あまりの辛辣な反応に、私は恥ずかしくて恥ずかしくてなぜか胸を隠した。ブラを外しても服は脱いでいないから、別に隠さなくても隠れているけれど。しかも相手は自分だけれど。とにかく羞恥で何がなんだか分からなくなっていた。
ちなみにパンチングボールというのは、赤とか黒とかの意匠が多い、ボクサーが高速でパンチして練習するアレだ。昔動画でちらっと観たのが、どういうわけか今頭に降って来たのである。
『いや、自分の身体でそれやられても笑えないよ。澪なら笑ってくれるかもね』
「そんなテンションで言われても!」
こんな空気にしておいて、澪の前でやれる自信が出るわけがないだろう。人前に送り出す責任を持ってほしい。
『ていうか、痛くないの、付け根』
「めちゃめちゃ痛い」
『でしょうね』
「たぶんちぎれた」
『ちぎれてはない』
冷たすぎる。
あれか、これがかの有名な“スベる”というやつか。死に匹敵する苦しみだ。
と、澪が身を置いてきた関西という地獄を噛みしめていると、ふいに真心が噴き出した。今回は、私も同時に、というわけにはいかなかった。
『ごめん、ほんとはすごく面白かったよ。ていうか、後からじわじわ来ちゃった』
「どうしたって笑えないって言ってたじゃん!」
『スベらせたくて』
「ひ、人殺し!」
意図的にスベらせるのは殺人に等しい。スベった私が言うのだから間違いない。
とはいえ、結果的に笑ってくれたのならよかったとも思えた。彼女が楽しそうに笑えるのなら、私が辱められるくらい、取るに足らないことである。
だって、もう。
「ねぇ、身体が、」
『……うん、そろそろだね』
気づけば――というか気づいていないふりを止めれば、彼女の身体の透明度が著しく増していた。もう、表情がぎりぎり読み取れるレベルの霞みようだ。話せているのが不思議にすら感じてくる。
言葉ではなく、道理が、この時間の終わりを告げている。
「いや……消えちゃ嫌だよ、待って、」
『最期の最期で、臆病なところ見せないでよ』
「でも……」
『私はもう、あなたの背中を押すことはできない。気づいていない知識に誘導してあげることもできない。……これからは、自分の足だけを恃みに進んで、自分の知識だけに従って決断してもらわないといけない。臆病になんて、なってる暇ないよ』
「…………」
私が澪を追い続けられたのは、まず間違いなく、彼女の言葉に勇気づけられたからだ。隙あらば自己嫌悪に陥る私を、無理やりにでも衝き動かしてくれた。澪へと、手を届かせてくれた。
そこまでしてくれた彼女の幕引きに至ってなお、心配をさせるのか。澪に劣らぬ大恩を、ここに来て仇で返すのか。
そんな私を、私は好きでいられるだろうか。
「……自分の、足だけじゃない。自分の知識だけじゃない」
『…………』
「澪と、一緒だから。これまで澪に助けられたぶん、今度は私が助けてあげて――でもやっぱり、助けてもらうこともあって。そうして、二人で歩いていくし、二人で決断する。……もう、あなたにも、澪にも、任せない」
『……成長、したね』
その声は、ひどく、弱くて。
ゆっくり、けれど確実に消えゆくその眼差しから、私は目を離さない。いつものようには、俯かない。現実から、目を逸らさない。
たとえ付け焼き刃であっても、強くなった自分を見せたい。
「ありがとう、卑怯な私に活を入れてくれて。ありがとう、臆病な私に発破をかけてくれて。ありがとう、私を成長させてくれて。……大好きだよ」
『……自分を好きになってくれて、ありがとう』
次の言葉が最後になることが、分かってしまった。
『おかげで、私はあなたを好きなまま逝けるよ』
最後の笑みは、それはもう、言うまでもなく最高で。自分だと思えないくらいに可愛くて。神々しくて。美しくて。
消え入る最期まで、彼女は絶世の美女であり続けた。
「ありがとう……。ほんとに、ありがとう……」
私の口癖が、ごめんなさいから、ありがとうに変わりそうだった。
彼女が消えて、私が涙を流して、それからいくらか時が流れて。
視界とともに思考が強力な白に支配されて、私はこの天国を後にした。
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※今話の挿絵は、pixivに掲載しております。
https://www.pixiv.net/artworks/109769806