01.「紬希――別れよう」(2/3)
「紬希ってそんな食べるん!?」
澪が大声で驚嘆しながら、どん、と両手を机に突いて乗り出した。
その拍子に、彼女の腕がチューハイ缶を弾く。まだ中身も十分に入っていることもあって、すぐに倒れるほどの衝撃ではなかったが、運が悪かった――というか場所が悪かった。
机の端に置かれていた缶は、そのまま床のカーペットへ向かってダイブした。
「――ッ!」
反射で衝き動かされた澪の注意が、ようやく缶へと向いた頃。
明らかに反射反応よりも早く動き始めていた私の手が、カーペットに触れる寸前の高度で、缶を握りしめていた。傾いた状態で落ちていた缶をキャッチと同時に立て直して、中の液体を一滴たりとも零していない。
お気に入りの質素なカーペットは、綺麗なまま守られた。
「な、…………ナイス、キャッチ」
上の空のような声音で、澪から称賛を受けた。
それから、私がゆっくりと缶を机に戻すまで、何とも言えない沈黙が続いた。缶が机に触れる音を皮切りに、澪が調子を取り戻す。
「え待って今のどういうこと紬希ってアメコミのヒロインとかやったりするん!?」
「あ、いや、えっと……」
跳ね上がるような勢いで捲し立てられて、ただでさえどう誤魔化そうかと思案していた私は答えに躓いた。私がもごもごしている間、澪は缶が落ちる様を手動で再現して、既のところでキャッチする動作を何度も繰り返している。
こういう類のスーパープレイは、“すごい”を超えると“怪しい”に変わる。
「え、こんなん、落ちるって分かってないとキャッチできひんくない?」
立て続けにギリギリ図星なところを突かれて、遂に返答を見失ってしまった。
そう、事前に落ちると分かっていないと、こんな御業は成せない。言うまでもなく、缶は澪側にあったのだ。澪が反応してキャッチするならまだしも、私では到底間に合わない。
私は、この出来事をあらかじめ分かっていた――否、知っていた。もっと厳密に言い直せば、一度経験したイベントだった。
今、確信に変わった。
やっぱり、私はこの過去――この記憶に、戻ってきている。人生の最前線ではない。
……だとすると、案の定。
ここに戻る前の記憶が飛んでいる――……。
「……紬希?」
「あ、うん、何でもないよ……!?」
気づいたら、記憶を遡ろうとして意識を外界に向け忘れていた。訝しげな表情の澪がこちらを眺めている。
乾杯に反応できなかったことに続いて、普通ではあり得ないスーパープレイ。変な沈黙。さすがに、自分でも怪しさを否めない。
誕生日パーティーだというのに、どこか変な空気。
しまった、戻ってやり直そうかな……?
「……てかさ、」
強硬手段に走ろうかと気持ちが揺れかけていたところで、澪の一声。訝しげ……というより、心配そうな面持ちに変わっている。
「紬希今日元気ないよな、たぶん」
「え……?」
あまりにも予想外の話題転換に、呆けた声が出た。
五回くらいキャッチのイメージトレーニングをしていた缶を机に――今度は落ちないように内側の方に――置いて、手元の割箸を手に取った。缶の話題は一瞬で過去のものになったのだろうか。
ぱき、と綺麗に割箸を二分して、寿司の列の中から特別脂の乗った大トロを掴んだ。
「はい、あーん」
「え、」
垂れないように少しだけ醤油をつけたそれを、私の口元へ伸ばしてきた。
不躾にも思わず身を引いてしまったけれど――ネタの表面が艶やかに光を反射して、唾を嚥下するくらいに食欲を掻き立てる。こと刺身となると、私は食欲を抑えられない。
そんな私を、澪はどこか得意そうな顔で眺めている。
「いいから、とりあえず食べて」
「う、うん……」
「あーんして」
「あーん……」
宙で待ち構える寿司を自分の口から迎えに行って、舌に乗せた。
得てして金欠の大学生が頼んでいるのだから、もちろん一皿百円が基本の回転寿司の出前である。回らない寿司屋に行き慣れている人からしたら、到底満足できるようなものではないのかもしれないけれど――素人の私の舌は快感に踊り狂いそうだった。
いくら百円均一の回転寿司屋でも、大トロとなると少なくとも他のネタの三倍は値が張る。それだけ投資した甲斐もあって、トロの濃厚な舌触りは言いようのない幸福感をもたらしてくれた。澪にあーんされたこともあって、余計に幸せだった。
「……どう? 美味しい?」
「うん、最高」
きっと、だらしなく蕩けた表情で返事をしていることだろう。そう思うと恥ずかしいけれど、澪を相手にすると嫌でも素の自分を引き出されてしまうのは今に始まったことではない。
さっき私が言ったセリフと丸っきり被っているのは、澪のことだからどうせわざとだろう。先輩面をした私への、些細な意趣返しだ。
「なぁ、お酒ってさ、嫌なこととか忘れさせてくれんねやろ?」
「え、まぁ……強いお酒ならそれもできるだろうけど、さすがにこんなチューハイだと――」
「いや、ええねん。これ以上しょーもないことで変な空気なるの嫌やから、お酒のせいにして色々考えるのやめるわ」
どこか神妙に言い放って、澪は点心セットに箸を伸ばした。餃子はもちろん、焼売や小籠包、春巻、肉まんなどのレギュラーメニューが揃っている。中華が嫌いという人はあまり聞いたことがないけれど、どうやら苦手ではなさそうで安心した。
小ぶりな焼売を取った澪が、口に入れる前に言葉を続ける。
「今日は楽しむために紬希の部屋来たんやし」
「お……おこしやす」
「ナイストライやけど――京都人の部屋にお邪魔するの怖すぎるからそれ禁句で頼むわ」
「えぇ禁句!? 思わぬ罠が……」
せっかく“おいでやす”よりも“おこしやす”の方が歓迎の意味が強いというところまで調べていたのに……。まさか、澪が京都人に対して苦手意識があったとは。
ともかく。
澪がいきなりこんなことを言い出した真意。
変な空気にしたくないというのも本心だろうが、それよりも、私について追及したくなかったのだ。缶をキャッチして挙動不審になったり、どこか元気がないように――曖昧な記憶への気がかりが滲み出ていたようだ――見えたりした私に、何か言いづらい事情を抱えているのだろうと察して。
少々無理やりな方向転換だとは思うが、そうした気遣いをしてくれるところが、私が澪を放したくないと思える要素である。出会った当初から、とにかく彼女は優しくて、いつも私のことを思いやってくれていた。普段の快活な様子とのギャップにも胸を衝かれる。
私の手元を一瞥して、再び澪の目がこちらを向く。
「紬希まだ割箸割ってすらないやん。冷めるで、食べや」
「うん。……いただきます」
手を合わせて、箸を割って料理へと伸ばした。
食べ合わせも何もあったものではないマルチジャンルの料理を、二人で食べ進める。途中でどうでもいい話も挟みながら、互いにお酒を飲み干すまで、一時間弱。
一息ついて時計を見れば、二十時に差し掛かろうとする頃だった。
結局、澪が善戦して四割くらい食べてくれたので、無事食卓の上に残飯が並ぶことはなかった。
ピザの箱だの寿司のトレーだのと大量に出たゴミをなんとかひとつのゴミ袋に詰め込んだ頃には、二人とも心地よい満腹感に加えてほんのりと酔いが回っていた。澪の三パーセントに対して私も四パーセントの弱いお酒だったので、酔うといっても若干眠気に綻ばされるくらいだ。
それでも、気分が良いに変わりはない。
……気づけば、私の服が少し開けていた。
※今話の挿絵は、pixivに掲載しております。
https://www.pixiv.net/artworks/108457863