22.「紬希さんって、呼んでもいいですか……」
*
こん、こん、こん。
やけに丁寧なノックを聞いて、私はスマホをぶん投げた。耐久性を売りにした製品ではないが、上手く布団がキャッチしたから問題ない。
午前十時をまわって少しした頃。アポなしで訪問するのに、最適だと言えるであろう時間帯。やはり、この頃から礼節の神に即位していたようだ。
私は――早鐘を打つ胸に手を当てながら、ドアに向けて一歩一歩と踏みしめた。
「はい……」
「あ、初めまして。私、昨日隣の部屋に越してきた者でして、ご挨拶に伺いました」
「あぁ……」
どさぁ、と、あらゆる感情が雪崩れてくる。
思い込みだろうか、心なしかおぼこさを感じさせる澪。言ってもここより一年後の彼女しか知らないし、その一年で一気に大人びるほどの経験もなかっただろうから、過去に戻ったという自覚が私にそう見せているのだろう。
春らしい淡い色使いの服に、ラフなジーンズ。とても同級生とは思えない、清楚を具現化したかのような姿。
凛と背筋を伸ばして、小さな紙袋を両手で優しく提げている。確か、その中身は――。
「あ、これ、ちょっとした手土産なんですけど、」
「どら焼き……」
「え、……なんで分かったんですか」
記憶を頼りにうっかり中身を言い当ててしまって、澪の驚嘆の目が向けられた。
「あ、いや、この店の名前を知ってまして。実は、両親がどら焼きに目がなくて、美味しい店を巡ってまして……」
「あぁ、なるほど! ここ美味しいですよね、あたしも大好きで……!」
紙袋に印字されていた店名を指して吐いた咄嗟の嘘で、澪は納得してくれたようだった。両親がどら焼きに目がないなんてのは大嘘だったが、この店の名前を知っていることは事実だ。私はこの過去を、一度経験しているのだから。
好みに思わぬ共通点があったからか、澪の言葉遣いが一段階崩れた――一人称ですぐに分かる。赤の他人と話すとき、彼女の一人称は“あたし”ではなく“わたし”になる。
どうぞ、と突き出された紙袋を、そっと受け取った。中の高級感漂う箱を見て、味覚に紐づけられた記憶も蘇る。コンビニのどら焼きくらいしか口にしたことのなかった私は、この美味しさにあまりの衝撃を受けたものだった。
そうだ、とふいに澪が手を叩いた。
「まず自己紹介ですね。今年からここの一年生で、八百坂澪っていいます。文学部です」
「東仙紬希です。私も、文学部の一年です」
「え、一緒ですね! 昨日引っ越してきたばっかりなので、隣が何年生かも分かってなかったんですよ。よかったぁ、学年も学部も同じ人が近くにいて!」
はっきりと分かる澪のテンションの上がり様に、思わず口元が緩んだ。
私と比べれば圧倒的な差をつけてコミュ力で勝る澪でも、さすがに新生活が始まるときは不安なのだろう。私だって、学年も学部も同じ人が隣にいると分かって嬉しかったものだ。
「あの、よかったら仲良くしてほしいです」
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
「あと、履修登録とかも一緒にやりたいです。学部が一緒だから要領も同じだと思うんで!」
こちらこそ、と繰り返そうとして、口を閉ざした。
大学生と言えば、履修登録だ。自分で、何曜日の何時間目に何の講義を入れるかを決める、高校生との最大の違いとなるシステム。二年前期までの計三回の履修登録を済ませた私はもう慣れたものだけれど、一年生の最初の履修登録は全学生が血反吐を吐く思いで取り組むのだ。
こちらこそ、だけでは頼りないだろうし、――大人げないだろう。
「私、従兄弟に履修登録のこと教えてもらって、自分でも結構勉強したから、きっと力になれると思います」
「うっそー……え、めちゃめちゃ頼りになります。無事履修登録を終えられた暁には、それより二段階高級などら焼きを献上致します。ご両親の分も」
「いや、それは申し訳ないです……。従兄弟に言わせれば、履修登録は慣れれば簡単なものらしいから……」
大学が違えば履修登録の方法も違うので、従兄弟が簡単だと言っていた、なんてものはほとんど気休めだけれど。……いや、そもそも従兄弟に教えてもらったことも嘘なんだけれど。
「じゃあ、学食のメニュー端から端まで一気に奢らせてください!」
「絶対に食べきれないよね、それ!?」
私が思わず突っ込むと、澪は爆発する勢いで笑い出した。とは言っても、もちろんというかなんというか、快活さの中に上品さは欠かしていない。恋人フィルターで、澪をあまりに美化しすぎているだろうか。
「…………」
恋人フィルター、か……。
今の私と澪は、まだ恋人じゃない――その事実を意識してしまって、少し悲しくなった。
だけど、今回は訳が違う。ログがバグったあの地獄と違って、この澪とは、これから恋人になれるんだ。そのためにも、できるだけ流れを一周目に近づけつつ、なるべく早く彼女の心を掴まなければ。
いつ彼女のログが切れてしまうか、分からないのだ。
「み、……八百坂さんって、もしかして関西の方ですか?」
「え、はい、そうですそうです。もしかして、イントネーションおかしかったですか?」
「まぁ、おかしいとは思いませんけど、ちょっと、関西弁っぽいなと思いまして。私関東出身なので、なんか目新しい感じです」
「なるほど……敬語使ってる間は関西弁は出ないんですけど、イントネーションはやっぱり気になるんですね。……ていうか、」
すっかり私に慣れてくれた調子の澪が、少し驚いたような様子で続ける。
「関東の方にしては、突っ込み上手じゃないですか? なんか……お笑いとか、好きだったりします?」
「あぁ、それは――」
澪が特訓してくれたから、と口走ってしまいそうになった。
そうだ――本来なら、この時点での私は関西のノリなんて一ミリも理解できない若輩者なのだ。一年ほどの澪のレクチャーを受けたこの身で初対面の彼女に相対するなんて、強くてニューゲームもいいところである。
また嘘を重ねなければならなくなった。
「……関西弁に興味があって、コツとか勉強してた時期があったんですよ。動画サイトとかに結構アップされてたりするので。その影響かも」
「まじか……まさか関西弁のハウツー動画なんてものがあるなんて」
「英語とかのハウツー動画と同じ感じですよ、たぶん」
「ま、まぁ、東北とか九州の方言が話したかったら、確かにそういう動画は必須ですよね。そんな感じか……」
方言なんて、ものによっては半ば別言語のような感覚だ。習得を手助けする動画は、案外需要があるものである。実際、私が観ていた関西弁のハウツー動画なんて、数十万再生されていたくらいだった。
にしても。
これは……澪が関西弁を教えてくれる流れがなくなってしまうのでは? それとも、関西シナジーがあるほうが打ち解けられるだろうか?
なんて難しいんだ恋愛って。一周目の私はよくこんな高嶺の花ととんとん拍子で付き合えたものだ。過去の自分に教えを乞いたい気分である。
あ、と澪の声。
「すみません、他の部屋にも挨拶して周りたいので、今日はこの辺で……」
「あ、はい」
「連絡先だけ交換しといてもいいですか。少なくとも履修登録のときにお邪魔したいので……」
「もちろんです」
手早くメッセージアプリで友達登録を済ませると、澪が頭を下げてきた。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
「あの、最後にいいですか」
「はい……?」
玄関口から一歩下がった澪が、少し言いにくそうに眉を下げる。珍しいな、と思いながらも、一体何を言おうとしているのかと不安になった。
もちろん、そんなものは杞憂だ。ここは地獄ではない。
「紬希さんって、呼んでもいいですか……」
「…………」
…………。
……かわいい!!
恥じらいながら私の名前を口にする澪に、言葉にできないいじらしさを覚えてしまって、表情の管理に苦戦する。この瞬間、私は澪に、惚れ直した。
確かに澪は言っていた。同級生でも、礼儀があるから最初は名字に“さん”付けで呼ぶけれど、本当は心の距離を感じすぎるからそれを好まないのだと。一周目のときも、とにかく下の名前で呼びたがっていた。
「もちろんです……むしろ、その方が嬉しいです。じゃあ、私も下の名前で呼ばせてください」
「はいもうご遠慮なく……!」
分かりやすく嬉しそうにする澪に、私は小さな覚悟を決めた。他の人にとっては覚悟にあたらないような、ほんの小さな、私の決心。
――澪を助けたいのなら、まず、あなたが変わらないと。
私の真心が言った言葉。すなわち、私が私に与えた戒め。澪を助けるのに、自戒のひとつも守れなくてどうする。
「あの、私からもひとつお願い……というか、提案があるんですけど」
「提案?」
「さん付けと敬語も、……次から、止めてみませんか」
言い切った――自分の弱さに邪魔をされつつも、最後まで。
記憶が正しければ、私たちの間から堅苦しさが消えたのは、例によって澪の提案がきっかけだった。今、私が言ったように、彼女が敬語を止めようと切り出してきた覚えがある。
自然に砕いていくことができない、二人そろって不器用な私たち。
そんな私たちを引っ張ってくれていたのは、いつも澪だった。私よりずっと、辛い思いを抱えていたというのに。彼女は私の支えであり続けた。
――今度は、私の番だよ。
いつしか口にした、その言葉。今もう一度、今度は真の覚悟を籠めて。
私が澪を、引っ張る番だ。
「……ぜひ!」
*