21.「行ってくる――」(1/5)
*
「……!?」
性欲に衝き動かされる獣を制する鞭さながらに襲った、落下感。
あまりの不意打ちに息が止まるほど肝が冷えたけれど、その感覚自体は、私にとってはあまりにも慣れ親しんだものだった。特にこの頃、飽きるほど経験している。
それを裏付けるかのように、瞼が上がっている感覚に反して、視界には何も映っていなかった。
「何これ、ログハウス……?」
まだ唇に残る感覚が、今となっては違和感にしか思えなくなっていて、思わず手で拭ってしまった。それでも感覚は残るけれど、少しは収まったようだ。
この暗闇は、そしてこの正真正銘の無音空間は、間違いなくログハウスだった。
ただ、私は自分の意思でここに飛び込んだ覚えはない。だとしたら、誤作動? それとも、彼女――私の真心が、何らかの力で無理やり呼び寄せた?
「…………いや、」
どちらも違う。次第にその結論の確信が強まる。
根拠は、目や耳と違ってまだ役割を失っていない、肌だ。全身の肌が、ぴりぴりと違和感を唱えていた。
「間違いなくログハウスなのに……。知らない場所にしか思えない」
そう、知らない場所。私はここを、知っているはずで、知らない。
行ったことのない場所を知っているように感じる現象をデジャヴと言うが、それとは逆に、見知った場所を未体験かのように感じる現象をジャメヴと言う。デジャヴに比べて知名度も共感度も劣るその概念だが――今、まさにジャメヴが起きていた。
ふ、と。
さらに違和感。いや、何かの気配。
「っ……」
茫――。
突然視界の一角で光源が現われて、私は構えた。
案の定、その光源は灯籠に灯った青い炎だ。しかし、私の知るそれよりも、炎の勢いが数段弱い。あまりにもか細くて、照明として使うにはあまりにも不適正な光度。風前の灯火という言葉がまさに似つかわしいそれ。
そもそも私は、ログインの宣告をしていない――。
弱い炎でも私の知る機能はきちんと果たすようで、一拍して宙に無数の四角形が照らし出された。
「え――?」
疑問の声が、無の空間にぽつりと溶け出す。
私が目にしたそれは、確かにログの一覧ではあったのだけれど。
そのほとんどが白一色で塗り潰されたジャンクログで、残ったサムネイルも明らかに私の知るものとは異なって。
そして何より――。
四角形が成す帯が、右側に伸びていない。
ただ炎の光を青く照り返すだけの空きスロットが、向かって右側に、数えられるほどしかない。いつもなら、どれだけスクロールしても果てが見えないくらい列を成しているのに。
これは。この事実は、一体何を示しているのだろうか。
「……ていうか、これ、」
どうやらいつもと同じ操作法が適用されているようで、左――つまり過去へとログを遡っているときに、ふと気がついた。
あり得ない量のジャンクログに紛れる、サムネイルが表示されたログ。やはりかなりの強度のぼかしが入ったようなそれは、光景として見るにはあまりに不鮮明で。
だけど。
その画の雰囲気くらいなら、見て感じ取れる。
「私……?」
次のログ、次のログ。
ジャンクログを除いたうちの約半数に、私のように見える人影がある。大体サムネイルの中心辺りに位置して、まるで、私と話している最中かのような。そう思って見てみれば、背景も、寮の部屋や大学の内装など、見知った場所に似ているようにも感じられる。
次第に、息が荒れてきた。
理解のキャパシティを超え得る事実が、目の前に擱座していることに気がついてしまって。脳を正常に保とうとする、本能が敷く最高潮の警戒。
まさか。
そんなことが、あり得るのか。
「ここ……澪の、」
『澪の、ログハウス』
「っ……!」
不意打ちで胸を跳ねさせる、全方位から響く声音。
何度も何度も呼びかけて、終いに応えてくれなかった声だ。普段は骨伝導も通して聴いているから少し違うけれど、それでも間違いなく私のものだと言えるそれ。
真心。
心が荒んでいたときに出てきてくれなかったことへの怒りは、再会の歓楽に取って代わられた。
「また、話せた……!」
『そ、そんな嬉しそうにしないでよ……』
「嬉しいに決まってるよ……!」
『ぅん……』
いかな本音を操る存在とはいえ、その本質が私である以上、こういうときに歯切れのよい返事は期待できない。なるほど、こんな気っ風では、頼りがいを見出すことは至難の業かもしれない。澪の気持ちが、分かってしまった気がする。
澪のことを思い浮かべたのがトリガーとなり、目下の問題が思考の最上層に返り咲いた。下層へ追いやられた再会の愉悦を惜しみながら、私は宙へと言葉を投げる。
「ねぇ、ここってやっぱり、澪のログハウスなの?」
『うん、そうだね』
「やけに……言い切るね」
『私がきっぱり断言できるのは、あなたが確信を持っている表れだよ』
――彼女は、私の知ることしか知らない。
諄いようだけれど、彼女と関わると、決まってそのフレーズが脳裏に蘇る。そして、彼女と関わるときには、この事実を常に念頭に置いておかなければならない。
彼女彼女と指しておいて。
実際は、私自身と話しているのだ。彼女の態度は、私の心理状態の具現化である。
「澪のログハウスって、……どういうこと? この能力って、私だけが扱えたわけじゃないの……?」
『いや、その認識は間違ってないよ。……人生をセーブして、ロードする。そんな芸当は、世界を探しても過去を探しても、あなたにしか成し得ないと思う』
まるで教えを受けているかのように言われるけれど、その知識の出所は私の脳のはずだ。なら、私はどうして、言われる前に気づいていない?
そんな疑問も彼女へと伝わるのか、ふ、と軽い笑いが聞こえた。
『人間の脳って、不思議な作りだよね。脳が知っていることと、自意識が認識していることが、全く別の話なんだもん。ジョハリの窓……とは、また違うか』
ジョハリの窓については、私もきちんと知っている。心理学の分野だ。
人間の“気づき”を体系化した概念。自己の中には「開放の窓」「盲点の窓」「秘密の窓」「未知の窓」があるとされており、順に「自分も他者も知っている自己」「自分は気づいていないが他者は知っている自己」「自分は知っているが他人は知らない自己」「自分も他人も知らない自己」を指している。
これはあくまで社会的な文脈におけるモデルのため、確かに今挙げるのは適切とは言えないが、彼女が言わんとしたことは理解できた。さっきまでの認識と矛盾するけれど、仮に真心を他人だと見做せば、まさに盲点の窓が今の議題だと言えるだろう。
『とにかく、あなたが知らないと思っていることでも、私が知っている以上あなたも知っているって話』
「うん……よく、分かるよ」
私の知ることしか知らない彼女。
つまり、彼女の知ることは例外なく私も知っているという、逆命題。
『ねぇ、私、この能力の本当の仕組みが分かっちゃった』