18.「生きろはトドメやで」(2/2)
「っ……」
「いや、ええよ。それが本音じゃないことは分かってるし」
「…………え?」
いつ澪の怒りが跳ね上がるか恐れていたのに、蓋を開ければごく平穏な声音。
それに、本音じゃないとはどういうことだろう。今私は、昂っていたせいでかなり遠慮もなく思っていたことをぶちまけたはずだけれど。
「生きてれば良いことある? 命を粗末にするな? ……ちゃうやろ? そんな、誰でも思いつくような、誰が考えたかも分からんような気色の悪い文句じゃない。『私を置いて行かないで』、やろ」
「え――……」
あぁ、そういう……ことか。
怯えた子犬のように縮こまっていた心が、時間とともに、本来の状態を取り戻していく感覚。
怒りに乗せて言ってもいいような内容だけれど、今の彼女は、いっそ笑みを浮かべるほどに穏やかだった。私のことをただのセフレだと言い放った澪と同一人物とは、とてもじゃないが思えない。
あろうことか、文字通り決死の想いで首を括ろうとしたところに乗り込んでおいて、そんな調子で言葉をかけてもらえるなんて考えてもみなかった。
「ただ――」
澪が続ける。
逆接に少し身構えたけれど、今の澪から恐ろしい言葉が発せられるとは考えられなくて、肩の力はすぐに抜けた。
「本音ではないにせよ、そういう文言が出てくる紬希に、一個だけ教えたる。……死にたい人にとってな、生きろはトドメやで」
「…………」
見事なまでの不意打ちで、種類の違う恐怖が襲った。
恐ろしい言葉――というのは、あくまで私に害を成す言葉のことであって。それ以外の恐ろしい言葉があることに、気が回っていなかった。
ゆっくりと瞼を伏せた澪が、囁くように続ける。
「死は救済って、別にどっかの宗教に依存した思想じゃないねんか。ほんまに、死に助けられる人はおる。生きることが義務じゃなくて権利なら、それは死ぬ権利があるのと同じやろ?」
頷くことは、できないが。
生存権は、生きるために必要なものを要求する権利だ。それは、なるほど、《《権利》》だと言ってしまっている以上、要求しなくてもよいという捉え方もできる。憲法という最高法規がそう取り決めているのなら、思想じゃないと言えるかもしれない。
人は――少なくとも日本国民は、誰しも死ぬ権利を有している。
「生きること自体が負担に感じる人はおる。死しか逃げ道がない人もおる。……その人の事情も気持ちも知らん奴が、馬鹿の一つ覚えみたいに生きろ生きろ言うなって話や。そっちの方がよっぽど宗教に毒された思想に見えるっちゅうねん」
澪の言葉が少しだけ尖った。
私に言っているのだろうか。それとも、そういうことを言ってくる人が他にもいたということだろうか。どちらにしても、彼女の本心からの言葉に違いはない。
私は、黙って聞いていることしかできなくて。ここで気の利いたことのひとつも出てこないのが、相談相手になれなかった要因なのかな――なんて考えてしまう。
その答え合わせは、存外すぐだった。
「紬希に相談しぃひんかったのは、……それとは別の話やな」
言って、申し訳なさそうに眉を下げた顔をこちらに向けた。続きを聞きたいような、聞きたくないような、そんな何とも言えない表情が返っているに違いない。
「あたし、散歩してくる」
「…………えっ?」
あまりにも文脈から逸脱した話題転換に、腑抜けた声が口から漏れた。
さ、散歩?
きょとんとしているであろう私を置いて、澪は縄を無造作にベッドの上に放り出し、ライティングデスクへと進む。その行き先に視線を移して、思わず目を瞠った。
――遺書。
遺書と聞いてまず思い浮かぶイメージと完全に一致する封筒が、あまりにも堂々と、机の上に置いてあった。全く気がつかなかった。
「前代未聞やな、生きてる状態でこんなもんを手渡しするなんて」
言いながら、澪はそれを手に取って、こちらに向かってくる。
前代未聞どころか、遺した書だから遺書であって、生きて渡せばそもそも定義が崩れる。
探していたものが思いの外あっさりと見つかった動揺を収められていない私は、すれ違いざまに胸に押し付けられた封筒を、落とさないように受け取るので精いっぱいだった。まるで、爆弾でも渡されたかのように必死に抱えた。
ずん、と、紙以上の重みを感じた気がする。
「読み終わったら、煮るなり焼くなり好きにしといて。あたし当分帰ってこーへんし」
「……しないよ、そんなこと」
「そーやろな」
どう受け止めていいか分からない言葉を最後に、澪は本当に部屋を出て行ってしまった。自然と扉が閉まるまで、一歩一歩離れていく彼女の足音を耳で追い続けた。
「…………」
残された私を襲う、これまでとは全く別の種類の虚無。
まさか、探し求めていた遺書を生きた本人から手渡されるなど、誰が考えつくだろうか。こんなにもあっさりと、まるでちょっとした手紙か交換日記でも渡すかのような調子で。
澪は――。
私に相談しなかった事実に言及して、突然これを押しつけてきた。それはつまり、その答えがここに書いてあるということだろう。私が遺書を書こうと思ったときに考えていた、自殺に至った経緯なんかと一緒に。
それから私は、たっぷり数分深呼吸に充てて。
架空の質量を勝手に感じる、表に相変わらずの綺麗な字で“遺書”と記された封筒の、
――封を切った。
*