17.「そんな悪夢みたいなことは起きひん」
こん、こん、こん。
ゆっくり、そしてこれでもかと想いを込めて。今回は、無事ノックに成功した。
ただノックをすることが関門になるなんて、どんな低レベルな戦いをしているのだと突っ込みたくなる。……澪に、突っ込んでほしくなる。
ばたばた――足音。
私の心は、これまでよりも、一枚多く外套を羽織っていた。突然直接的に暴言を吐かれる事態に耐えるための外套の下に、優しい澪が恋人ではないという事態に耐えるための外套を。澪と良好な関係というだけで、綻んではならない。身を滅ぼしたくなければ、最後の最後、本当に全てが確定するまで、心を曝け出してはいけないのだ。
がちゃんと、ドアが開いた。
「はい……って、紬希?」
目を丸くして、私の名を口にする澪。この瞬間、私と赤の他人である可能性はなくなり、そして、険悪な関係である様子もないようだった。
一枚、外套を脱いでもよさそうだ。
「……澪、」
声を出した途端、お馴染みの恐怖が心を握る。問いを投げかけてしまうと、私と澪の関係が確定する――その恐ろしさ。
次の言葉を放つ準備にもたついていると、先行して澪が口を開いた。
「え、とりあえず上がりぃな。そんな薄着で廊下立たせるの嫌やし」
「いや、ごめん、大丈夫、だから」
「大丈夫なわけあるかいな。玄関まででもいいから、とりあえず入りって」
確かに、心に外套を着せるのに手いっぱいで、私本体はといえば薄いパジャマだけだ。
元々押しに弱い軟弱な私は、ぐい、と部屋の中へと引き込まれた。
夏に差し掛かる五月とはいえ、朝から暑いなんてことはない。扉を閉める前でも、部屋の外と中ではそれなりに温度が違った。温かい空気に肌が触れて、少しだけ落ち着けた気がする。
ドアを閉め、降りた沈黙。おそらく澪の方が、何を言い出せばいいか分からないだろう。
「あの……さ、」
「うん、朝からどうしたん」
「私と、澪、……って、」
嘘。
やばい。
何してんの私。
「え、ちょ、泣いてんの!? え、え、え、」
澪の指摘のとおり――私は泣いていた。
本当に、なぜだか分からない。別にこれまでのことを回想していたわけでもなかったし、元通りの澪だと判明したわけでもなかったのに。感情を置き去りに、身体の反応だけが大きく先走った。
いい加減にしろ。この短期間で何度泣いている。
あまりにも軽々しく涙を流す自分に、さすがに嫌気が差してきた。
きっと、外套を羽織ったのが遅すぎたのだ。綺麗で分厚い鎧を今さら着込んだところで、中身は傷だらけというわけだ。歴戦の戦士――ではなく、ただのひ弱な足軽である。
「怖い夢でも見た……?」
「わたし、と、みお、って、」
「う、うん……紬希とあたしがどうしたん?」
命を削るような必死さで言葉を絞り出す私を、澪は宥めながら聞いてくれる。
「友達、なのかな……」
どういう関係――ではなく。
友達なのかな、と。
この期に及んで、私は土壇場で日和るような人間である。自分から先に友達という関係性を提示することで、恋人でなかった場合の保険をかけたのだ。
澪を救う救うと豪語しながら、結局最後は自分の保身に走る、底抜けに卑怯な女。
「え、」
涙で滲んだ心の外套は、いつしか溶け落ちていた。怪我に塗れた中身を守っていたつもりの外套は、コートでも鎧でもなく、はじめからただのティッシュか何かだったようである。
吹けば飛んでしまうような状態になってしまった私は、それでも答えを待つことしかできず。
数秒ののち、澪に抱きしめられたときには、息が止まってしまった。
「やっぱ、なんか嫌な夢でも見たんやんな……」
私にふわりと腕を回して、まるで子どもをあやすように声をかける澪。背中をゆっくりと擦られて、それこそ子どもみたいに、私は泣いた。
「あたしに別れを切り出される夢か? それとも、そもそもあたしに告白を蹴られた夢か? ま、どっちにしてもしんどいよなぁ」
そのセリフは、私が澪の恋人である場合でないと成り立たない。
本来なら、これで恋人であることが確定して、一周目に近い内容の遺書を書いてもらうために、計画を再確認しなければならないのに。泣き止むことに脳のリソースを全て注ぐ低燃費な私は、そんな頭のいいことなんてできる気もしなかった。
「言うまでもないけどさ。告白したのってあたしの方やで? もしあたしと紬希がただの友達に成り下がるんやったら、その発端は紬希がそう切り出してきたときや。紬希があたしを好きでいてくれる限りは、そんな悪夢みたいなことは起きひん」
澪から告白。合っている――一周目と同じだ。
だけど、その時のことを思い出して浸るような余裕もない。
「澪ぉ……」
「うんうん。なんか、あれやんな、多分悪夢だけじゃないよな。なんか泣きたいようなことが色々あったんやろ。……こんな朝っぱらから不躾にノックしてくるぐらいやもんな!」
「ご、ごめんなさい……」
「今回ばっかりは聞き入れといたろ、それ」
朝七時台にノック。ごめんなさいは至って適切だった。
それから私は、馬鹿みたいに泣きじゃくった。
ログが狂ったこの状態で、完全に元通りになることはまずあり得ない。細かく掘り下げればきっとノイズ塗れだろうけれど、私が澪の恋人でいられるというだけで、すっかり安心してしまったのだ。途中で澪に、「泣き虫やなぁ、茶碗蒸しにしたろか!」と訳の分からないことを言われたけれど、訳を分かろうともせず私はひたすら泣き続けた。
……だけど。
愚かにも見ないふりをしている私は、自分の計画を忘れたわけではない。
今の目的は、澪の遺書を確認すること。つまり、澪の自死を、見て見ぬふりをすることに他ならない。ここまで優しくしてくれる澪が、自殺してしまうくらいの苦しみを抱えていることを知っておきながら。
私は。
――彼女を見殺しにする。
*