16.「大好きだよ」
「つむぎぃ、そろそろ起きな講義間に合わへんで」
あぁ……。
どれだけ大きな音よりも、効き目の良い目覚まし。澪の声の録音を目覚ましとして使わせてもらおうか――と考えられるくらいには、慣れてきたようである。
瞼を持ち上げて上体を起こすと、当然のように澪の部屋だ。今回は、わざわざ澪がとんとんとして起こしてくれたようだった。息遣いが感じられるような距離に彼女の姿があった。
前までなら、この距離の澪を目にするとうっかり見蕩れていただろうけれど――さすがに、そこまでの余裕は持てていない。
「澪……」
「もぉ、寝すぎな? 全然起きひんねんから」
「澪……あぁ……」
「な、なんやねん……!?」
私のよく知る優しい澪だと分かって思わず綻んでしまった私に、彼女特有の少し大げさな反応を見せてくれた。口元が緩むだけならまだしも、緩い涙腺がまた涙を分泌しようとするものだから、私は一度俯いてしまった。
澪の部屋で起きた時点でおかしいけれど、彼女が優しい世界線というだけでとてつもなく嬉しかった。
「え、紬希どうしたん!? 起こされたのそんな嫌やったか!?」
「ちが、違う……よ……」
「え、じゃあ嫌な夢でも見たん? 起きていきなり泣かれたら、さすがにどうしたらいいか分からへんって……」
「ごめんなさ」
「だぅ!」
「っ!?」
澪が叫ぶ――私の口癖を、矯正するために。私が、澪と交わした取り決め。
だめ、だめだめ。泣いてる場合じゃない。嬉し泣きなんて、そんな悠長なことをしていられる状況じゃない。念のため、確認しておかないと。
気力で頭をもたげると、心配そうな澪の顔。
「ねぇ、澪……」
「うん……なに?」
「私と澪って、どういう関係?」
「え? ……え、どしたん、急に」
「いいから、答えてほしい」
「いや、どういう関係って言われても……」
期待のような、緊張のような、どうとも形容しづらい高鳴りを胸に、私は澪の答えを前のめりで待った。私の目力か何かに気圧され気味の澪が、次いで口を開く。
「普通に……友達、やろ」
「…………」
とも、だち――……。
胸の高鳴りは。
痛みよりも辛い、締め付けに変わった。
友達。
セフレなんかよりよっぽど良い関係性だ。セフレでは芽生え得ない、友情という繋がりがあるのだから。
けれど、傲慢な私は、愛情が欲しいと考えてしまった。友情という輝かしいものが、私にとっては、愛情の下位互換にしか見えなかった。
そんな心中が態度に漏れ出たようで、澪は焦りの表情を浮かべた。
「え、あ、ごめん、親友って言ってほしかった!? ごめん、親友! 別に後付けじゃなくて、ほんまに親友って意味で友達って言ってん!」
「親友……?」
「そう、親友! ビーエフエフ!」
ビーエフエフとは、ベスト・フレンド・フォーエヴァーの頭文字を取った言葉で、英語圏で用いられる言い回しだ。もちろんこの言葉は深い友情を示す高尚なものなのだけれど、今の私には、永遠に愛情には昇華し得ないと言い切られた気分だった。
このログでは、私と澪は恋人ではない。
なんで。
澪がレズビアンじゃないということ? いや、いくらログが狂ってしまったとしても、そんな根本的なところから書き換わるなんてことはさすがに考えられない。じゃあ、互いに同性愛者でありながら、ただの友達止まり――出会って二年目に突入しておいて? 進展が遅いならまだしも、澪が私を恋愛対象として見てくれていない世界線だったら――……。
不安。焦燥。絶望。
傍から見れば、友達なだけいいじゃないかと言いたいところかもしれないけれど。私にとって――そしてログが乱れる前の澪にとっては、友情と愛情の違いはどう頑張っても見過ごせるものではないのだ。
私の顔色を窺う澪に、ぼやける視界を向けた。
「澪、ごめん。それじゃ満足できない」
「え、……なんか、ごめん。そんな、泣くほど不満なこと言っちゃって」
「ううん。澪は悪くないよ。悪いのは私」
澪に言っているようで、本当は自分に言いつけたくて。
「私のせいで、こんなことになっちゃったんだよ」
「えっと、……ごめん、どういう、」
「澪、」
いつの間にか、我慢も空しく涙が頬を伝い落ちてしまっていた。今の澪がどんな顔をしているのか、涙越しでは見えない。まるでログのサムネイルのように。
見えなくて、よかった。
お人好しな澪の申し訳なさそうな表情でも見ようものなら、いよいよ、私は自分を許せなくなってしまっていたに違いない。自殺とはよく言ったもので――自分を殺したくて、堪らなくなっていたに、違いない。
「大好きだよ」
突然友達から愛の告白をされた澪は、返す言葉を決めあぐねて硬直してしまって。
そんな彼女がとてつもなく愛らしく、一瞬理性を手離して唇が重なるまで、ものの数秒もいらなかった。
綿のように柔らかくて心地よい澪の唇。私の大好きなそれ。
だけど――今の彼女は混乱に固まってしまっているから甘受してくれているだけで、そこに愛なんてものはないのだ。ただただ、暴走した私が友達の唇を奪っただけ。相手の気持ちなんて考えずに、私利私欲の限りを尽くした暴挙。この澪は、最悪トラウマを抱える羽目になるかもしれない。
こんなに辛い思いをしているのだから、これくらいいいだろうと。
私はやっぱり、自分が大好きな愚か者。
「――ロード」