15.「あれですよね、東仙さんですよね」
*
ピーピピ、ピーピピ……。
「っ……!」
私は、飛び起きた。
その弾みで、ベッドのバネが何往復か伸縮する。上下にゆらゆらと揺れながら、少しずつ呼吸を整えていく。ただ、突然頭部の位置が高くなったせいで、それにバネが揺らしたせいで、酷い目眩が頭に充満した。治まるまでの数秒間、私は目頭を押さえて耐えるしかなかった。
けたたましく鳴るアラームを止めたのは、十秒くらい経ってからだ。いつもはすぐに止めるから、聞いたこともないようなパターンの音になっていた。
机の上の時計に手を置いて、つまり立ったままの体勢で、私はどこともつかない空間を眺め続けた。朝の落ち着いた呼吸が、身体の内部を伝って聞こえてくる。
アラームが鳴った時点で、ひとつ、確定していた。聴き馴染んだ音だったのだ。
私の部屋だ。
部屋の中心に質素なカーペットを敷いて、その上にセンターテーブルを置いただけの空間。澪の部屋と比べてしまうと、自分の女子力の低さに震えあがってしまうような、私の別荘。
澪も、いない。いて欲しかったのか、いて欲しくなかったのか、私にも分からないけれど――とにかく、いない。
私の部屋で目覚めることと、澪が一緒でないこと。狂ってしまう前のログと同じ状況に向けて、二段階クリアしたようだった。
「よかっ、」
口をついて溜め息交じりに出かけた言葉を、思わず途中で止めた。
よかった、と言っていいものなのか。
もちろん、澪が別人のように罵詈雑言を浴びせてきたり、私と澪がセフレのなり損ないみたいな関係だったりしないことは、いいことだけれど。元のログと同じということは、澪が命を絶ってしまう問題も、元通り、解決していないということなのだ。
奇跡的に元に戻っていたとしても、よかった、なんて言えたものではない。
「とにかく、このログがどんな状態なのか確定させないと……」
元通りになっていたときのことを考えていたけれど、そもそも元通りになっているかも分かっていない。澪の変わり果てた様子で目を覚まさなかったというだけだ。
澪の部屋を、尋ねよう。
七時にアラームで起きたばかりだから、普通なら今部屋に行くのは早すぎる。澪が相手であっても、失礼なレベルだ。
でも――大学に行く時間まで待つなんて、そんな悠長にしていられなかった。
相手が澪で、誰かにばったり会うには早すぎる時間ということで、パジャマのまま靴を履いて玄関を出た。数歩で澪の部屋の前まで来て、綺麗に二の足を踏んだ。
もう、言うまでもなく、怖いなんてものではない。
ほんのついさっき、澪に最大出力でズタズタに毒づかれて、ここでへたり込んで泣いていたのだ。この戸を叩けばまたその地獄が幕開けるかもしれないという可能性を前に、平然としていられる人間などいないだろう。
「頑張れ、頑張れ私……」
私以外誰にも聞こえないような声で、自己暗示をかける。怖くても、やるしかないのだ。
全ては、澪のため。澪と私の、未来のため。
ゆっくりと、右手を持ち上げて、ドアへと近づける。固まった指を全力で折り曲げて、扉を叩く。
こん、すか、こっ。
「…………」
今のをノックと言っていいものだろうか。
部屋の中の人にも聞こえないような威力しかなかった上に、二回目に至っては手が扉に到達してさえいなかった。図らずも、トイレ用のノックになってしまった。
もちろん、中から返事はない。かえって安堵した。
「ノック、ノック……。この骨を、扉に三回叩きつけて、音を出す……」
緊張と動揺のあまり、あろうことかノックの工程を事細かに確認していた。傍から見れば一周回って可哀そうに思えるであろう極限状態。もう次のノックも失敗する気しかしなかった。
大きく二度深呼吸をして、静かに咳払い。テイクツー。
コン、コッコッ、ココン!
「もう何してんの私……!」
手が痛むほどの力で謎のリズムを刻んでしまった。もう間違いなく中の澪は飛び起きただろうし、きっと私の部屋のふたつ向こうの住人まで起こしてしまっただろう。とびっきりの近所迷惑だ。手の震えのせいだ――私は悪くない。
案の定、戸の向こうでバタバタと音がした。
この寮は、入居者以外はロビーを除いて立ち入り禁止で、保護者でさえ厳として突き返すほどの徹底っぷりだ。宅配業者なんて言うまでもなくその対象で、管理人が受け取っておいてくれる。そのため、いくら朝早くの来訪であっても、危険な人物が押しかけてくることはあり得ない。極めつけに女子の階は男子禁制ということもあり、ラフな格好で対応しても問題ないのだ。
ざ、ざ、と靴を履く音が聞こえた。澪は、もう、扉を隔てたすぐそこだ。
五月、二十二日。いつも通り目覚めて、澪と学食で文句を垂れるだけの一日だったはずなのに、すっかり地獄の入口と化してしまったログ。その地獄は、毎度その様相を変え、私に種々の悲運を押し付けてくる。今回は、一体どんな地獄が出迎えてくれるのだろうか――。
張り詰めていた緊張が、ぐっ、と膨らんだ。息が詰まるくらいに膨れ上がった緊張に、私は溜め息すらできずにその時を迎えることになった。
「はい……」
寝起き特有の酷い掠れを伴う返事。パジャマ姿の澪が、眠そうに目を擦りながら出てきた。
「あ、み、澪……」
私は、うっかりか細い声で答えることになってしまった。そうやってウジウジしてんのも普通に鬱陶しいしさ――という澪の言葉がフラッシュバックして、途端に怖くなってしまった。
ただ、目の前の澪はというと、至って穏やかな様子で私を見ていた。
「あ、えっと……」
「澪、私と澪って、どういう関係……?」
「は、え、どういう……こと、ですか」
…………え。
言葉にできない、動揺があった。
――どういうことですか。
日本語というものは、難しいだけに非常に精緻なもので。敬語が聴き取れた時点で、早くも私と澪の関係性がある程度確定した。嫌な予感がするなんて段階は、言葉の魔法がいとも簡単にスキップしてしまったようである。
困惑の表情を数秒浮かべ続けた澪が、次いでそれを笑みに変えて言う。
「えっとー、あれですよね、東仙さんですよね。お隣の」
「………………は、い」
「すみません、ちょっと状況が掴めてなくて……。挨拶くらいしかしたことないですもんね……?」
信じられないくらい、腰が低い澪。
育ちの良い澪は、なるほど、出会った頃はこんな感じだった。あまりの物腰の柔らかさに、世界の広さまで知らしめられた気分だった記憶がある。愛想の先生だと、澪に言ったことさえあった。
挨拶だけの関係である私に押しかけられて極度の混乱状態にあるだろうに、彼女は人当たりの良い柔らかい笑みだ。朝の七時に尋ねられたことは、もはや迷惑とも思っていないのではないか。
「あ、いえ……」
覚悟していたはずなのに。そこにあるのは地獄かもしれないと、思っていたのに。
今の私は、信じられないくらいにショックを受けていた。
「すみません、人違いでした……」
我ながら、心の裡で笑い飛ばしてしまいたくなる口上だ。
人違いなんてことがあるわけがない。わざわざ部屋に尋ねているのだから。そして、名前まで呼んでしまっているのだから。
案の定、澪はかなり当惑している様子だ。早朝にこんな訳の分からないことをされて嫌な顔ひとつしないのは、澪の愛想の良さが遺憾なく発揮されている証拠である。
「あの……たぶん、何か御用があったんじゃないですかね……? 良かったら、朝早いですけど、上がってもらってお話でも――」
「いや、……すみません、本当に」
底抜けに礼儀知らずな私は、そう言い残して走り出してしまった。とにかくこの場から離れたくて、自分の部屋も通り越して廊下の階段を駆け下りた。
信じられない。こんな怪しい人に気を遣って、部屋に入れてくれようとしたのだ。
さすがの勘の良さで用があったことを見透かして、押しかけられた側の澪が朝の早さを気にして。あの様子だと、お茶にとどまらずちょっとしたお菓子でも用意するつもりだったんじゃないか。
なんて、……良い人なんだ。
「ログイン……!」
まるで自分の不甲斐なさを浮き彫りにされているように感じて、また、逃げの選択に縋りついた。