14.「…………遺、書?」
「だい、じょうぶです、はい――……」
意識を戻された、答え合わせ。
絶対にあり得ないけど万が一澪だったらどうしよう、と思っていたが、澪とは反対側の隣人が心配してくれていたようだった。目を覚ました時には救急車を呼ばれる寸前で、必死に大丈夫だと説得して、無事大事にならずに済んだ。
謝辞を伝え、私は自室へと帰った。
ばたん――と、戸が外界を遮断する音。
隣人との会話で最後の気力を使い果たした私は、玄関でそのまま頽れた。もう、何もかも空っぽだった。
ひやりと冷たい床の感触が、スカートを超えて肌に伝わる。その冷感はすぐに体の中を駆け抜けて、心まで凍り付かせるようである。
ぶぅーん、という冷蔵庫の音と、ぽたぽた、という蛇口から滴る水滴の音。私の中だけでなく、この部屋までが空っぽだと云いたげなその音色が、私の心をさらに冷やしていく。徐々に、しかし、着実に。
いつしかそんな音たちも聞こえなくなって、自分が呼吸をしているのかも分からなくなって、ただただ過ぎていく時間の中に居座った。
「――ふふ、」
突如、誰かの声。
不意打ちの声音に心臓が跳ねたけれど、後になって考え直してみると、他でもない自分の声だった。何も考えていなかったはずなのに、口が勝手に笑声を放った。
「ふふ、ははは……」
その笑いが、まるでじわりとインクが染みていくかのように伝播して、口角を上げて目尻を下げた。挙句そのインクは心までをも黒く染め上げて、私は訳も分からず楽しくなった。
楽しい。愉しい。はは。
「あっはは、あふふ、へへ」
肩が揺れるほどの大笑いに成長して、暫く私は高笑いを続けた。どれくらいの大きさの声で笑っているかも分からないけれど、もしかすると外の人に聞かれているかもしれない。そう思うと余計に可笑しくなって、さらに笑いが加速した。
笑いが加速して――隣人の前で止まっていた涙が、また、零れ出た。
笑って泣いて、破顔してしゃくりあげて、気色悪いことこの上ない。私だったら、こんな人とは関わりたくないと思った。
「ふっつうに、過ごしてただけなのに――」
やっと言葉という言葉が出たけれど、これも私の意思というわけではなかった。取り憑かれているようだとさえ感じる。
「急に澪が死んじゃうしさ。それも自殺って」
意味のない、嘲笑のようなものが語尾に続く。
「せっかく助けようと思ってやり直して。身体にガタが来ても、何度も何度もロードして、諦めなかったのに。その結果が、この地獄だよ」
澪の死を避けようと奔走した結果得られたものが、澪からの罵倒。人の言葉かと疑いたくなるほどの、この上ない罵詈讒謗。
ついさっき浴びるように聞いた彼女からの謗りを頭で反芻しながら、私は――。
それを、手に、握りしめていた。
「唯一の頼みの綱がロードだったのに、ログがバグって過去がハチャメチャ? もう、笑うしかないよね。こんなの、地獄じゃないと説明つかないって。はは、あーもう面白いったらない」
やはり、全ての感情を統べ括ると、面白いに帰着する。悲劇を通り越すと、喜劇になるのだろうか。
自分の口から出た言葉を耳が拾うごとに、私の手が動く。はじめは金縛りを解くような速度で歩を進めていた手が、今では猛然と宙を進んでいる。
玄関入ってすぐのところにキッチンを備え付けた、設計者が悪い。キッチンのすぐに手に取れる場所に包丁を置いた、私が悪い。首に刃を当てて引くだけで死ぬように人間を設計した、神が悪い。
ひやり。
冷たさに熱を奪われた感覚か、当てたはずみで少し切れてしまった感覚か、判断がつかない。それに、どっちでもよかった。
「もう、無理だよ、こんなの。どうしようもないじゃんか――」
へへ、と、相変わらず中身のない笑いを漏らして。大きく息を吸って、ぐ、と力を入れる。
いける。やれる。
いち、にの、さ――。
「…………」
……いち、にの、さん。
「…………」
……やっぱり、ちらつく。
家族の顔。澪の顔。
ちらちらと脳裏に過って、最期の思い切りを邪魔してくる。
「遺書――……」
そうだ、遺書。遺書を書かないと。
便箋は――ない。代わりになる紙も、思い当たらない。
パソコンの文書ソフトで書こう。それなら書く労力も少なくて済むし、字が汚くなることもない。私は澪と違って、字が綺麗ではないから。
まず、家族に謝らないと。彼らからしたら何の脈絡もなく娘が死んでしまうのだから、ごめんなさいと、きちんと謝ろう。それだけでは足りない。これまで育ててくれたことへと感謝も綴らないと。ありがとう――と。
私関係の身辺整理についても書いておいた方がいいかもしれない。どの私物は捨ててくれてもよくて、どの私物はできれば残しておいて欲しいか。人間関係も、友達に何か訊かれたらどう答えておいて欲しいかを書いておこう。できるだけ、私の死に係るごたごたの負担を小さくしておかないと申し訳ない。
あぁ、それから、どうしてこんな最期になってしまったかを書いておかないといけないじゃないか。死因ではなく、死の経緯。これまでは黙っていたけれど、セーブとロードの力について打ち明けよう――どうせ信じてくれないだろうけれど。レズビアンであることは既に言ってあるが、澪と付き合っていることは恥ずかしくて断言できていない。だから、澪と付き合っていたことを書いて、澪が自殺したことも書いて、それを避けるために何度も何度もやり直したことを書こう。それでも駄目だったことを書けば、きっと私の死に同情してくれて――……。
「…………遺、書?」
ぴたり、と。
加速度的に速まっていた死へのカウントダウンが、止まった。
私は――遺書に、書こうとした。自殺に至った経緯を。
まるで、タネ明かしでもするかのように。探偵ドラマの、謎の答え合わせのように。
だったら――。
「澪の、遺書は……?」
タネ明かし。答え合わせ。
そんなものが与えられるわけがないと――向こうから寄ってくるわけがないと、すっかり思い込んで。私は、骨を粉にして身を砕いて、自力で掴み取ろうと走り回っていた。
どうして?
今となっては、心底不思議でたまらない。一番はじめに、そこをあたるべきだったんじゃないのか? 犠牲とリスクを払うのは、そのあとじゃなかったのか?
計、四回。
私は、澪の死身を目にしている。ロードして少し流れを変えるたびに結末を確認しなければならなかったから、不本意にも回数を重ねる羽目になった。
その四度全てにおいて、私は澪の死を目の当たりにすることでいっぱいいっぱいになってしまって、周囲に意識を配る余裕は露ほどもなかった。もし遺書が堂々と置いてあったとしても、当時の私はちっとも気がついていないはずだ。
見に、行かなければ。
自分の死の淵で不意に差した光明。もちろん、それが希望の光なのかどうかも分からないけれど、確認しないまま諦められるはずもない。
「でも――澪との関係があまりにも違うこの世界線だと、遺書があったとしても当てにならないよね……」
この関係性でも澪が自殺をしてしまったとして、遺書を書いた場合、私への罵詈雑言で埋め尽くされている可能性がある。いっそ、ただのセフレである私のことなんて、一文字も触れてくれないかもしれない。
同じログをロードしても、その時によって澪との関係性が変わった。つまり、ロードを繰り返していれば、ログが狂ってしまう前の澪に戻る可能性は大いにある。
やるしかない。自刃なんてしている場合ではないのだ。
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私は、首筋に包丁が触れているなんていう物騒な現実から、逃げ出した。
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※今話の挿絵は、pixivに掲載しております。
https://www.pixiv.net/artworks/109063642