13.「この、役立たず……っ!」(1/2)
*
「なぁ……はよ起きーや」
私は――冷やつく胸の感覚で目を覚ます羽目になった。間違いなく、人生で最悪の寝覚めだと断言できてしまう。
当然のように、澪の声がする。身体を固まらせながらも目を開けた私には、また、澪の部屋が知覚できた。天井や壁の具合は全部屋共通でも、肌に触れるシーツや布団の感触、それ以前に部屋が擁する雰囲気が全然違う。香りも、温度も。
声のもとへと目をやると、今度はクッションではなく、ライティングデスクに腰を下ろしている澪がいた。頬杖をついて、机に置いたスマホをぼんやりとスクロールしている。
「…………澪、」
「なに」
もう、この時点で、言いようのない嫌悪感があった。
彼女の言葉に、びっしりと巻き付いた棘を感じる。声音はもちろん、文字通り私に目もくれずスマホばかり触っているのもそうだ。まるで他人のような――いっそ犬猿の仲のような、気まずさすら超えた冷たくて痛い空気。
信じられない以上に。
既に逃げ出したかった。
「…………」
「何なん、なんか言いーや」
しびれを切らしてこちらに向けた目は、あまりにも鋭い光を孕んでいた。剣呑な刃を突きつけられたかに感じたくらいである。
「ぁ……ごめんなさい……」
要件も言い訳も押し退けて出た口癖に、澪が返したのは指摘ではなく――舌打ち。露骨に眉間にしわを寄せて、含めるどころか棘をそのまま飛ばすような舌打ちだった。
いらいらと溜め息を吐きながら、澪はこちらに椅子を回して乱暴に足を組む。無関心から攻撃態勢に移ったことが、怖いくらいに分かってしまった。
「あのさ、そうやってすぐ謝んの止めてって言わへんかったっけ?」
「ぁ、ごめ――あ、」
「そうやってウジウジしてんのも普通に鬱陶しいしさ。もう、ほんまにいらいらすんねんけど」
「っ……」
なんだ、これ。何この地獄。なんでこんなことに。
心臓の辺りが、きゅぅと縛り上げられるように痛んで、途端に息がしづらくなった。耳もぼーっとして、鼻の奥に刺されたような不快感が走る。
俯いたところで、言葉は聞こえてくる。
「いつまでそこ居んの。ぐーたらぐーたら寝まくって、あたしが起きても起きひんし。さっさと帰ってくれへん?」
「やめ――」
「やめてはこっちやねんけど。そうやってしどろもどろになってんの、聞いてるのが時間の無駄。何回も言わへんかったっけ、」
そして、言った。
すっかり何もできなくなった私に、これでもかとトドメを刺す一言を。
「あたしらはただのセフレ――性欲処理だけの関係やって」
……………。
え。
……セフレ? 性欲、処理?
一瞬、言葉の意味さえ分からなくなってしまった。私は今、何を告げられた?
息が詰まるのを超えて、自分の息が不規則に荒くなっていくのが分かる。口元で空気が擦れる音を立てながら、私の身体は必死に酸素を循環し続けた。視界がぼやけて、ピントが合わない。合わせ方も分からない。
ただの性欲処理だけの関係――それはつまり、欲の溜まった夜に行為に及ぶためだけの間柄で、そのためにしか会わないということだ。仲のいい会話なんて以ての外で、事が済めば全くの他人。今の澪が、まさにそんな態度を取っているように。
本当に、何が起きている? いつも通りロードをしただけで、どうしてこんな地獄に行き着いたの?
「え――……」
「は、何」
「……ゎ、私たちって、付き合ってるんじゃ、」
「うーわ、それマジで言ってる?」
早くも、はっきりさせておきたいがために問うたことを後悔した。
「まだそんなつもりやったん? めちゃめちゃ迷惑やねんけど。ちゃんと別れたつもりやってんけど、それってあたしの勘違いやったん? 愛は無くなったけど、せっかく性欲が女に向く女同士やからセフレにしよって、ちゃんと言ったやんな? んで紬希もそれに賛同したやんな? ……今さら何なん、ほんまに」
最高潮に達した怒りが、彼女を乱暴に衝き動かす。
何の躊躇もなく、言葉のナイフで私をズタズタに引き裂いていく。何度も何度も、一度つけた傷跡も抉り返して。
「やめ、て――……」
ふ、ふ――と、嗚咽のなり損ないが漏れ出る口を、必死に手で押さえた。けれど、そんな程度では収まらず、嗚咽とともに涙まで流れ出してしまう。今の澪に弱さを見せると突かれそうだから、泣きたくないのに、止まってくれない。
まるで悲劇のヒロインでも気取っているかのような、悲愴でうざったい泣き姿。
澪の、喉を無理やり押し通したような荒い溜め息が返って来た。
「もう、いい。ほんまにもういい。呆れた」
「ぁ、ごめ、」
「うるさいなぁ!!」
「ひっ……」
澪の怒号。私が叫ぶのも珍しいけれど、澪がここまで感情を放出するのも相当珍しい。少なくとも、私は初めて経験した。
「出ていけ。もうセフレも解消。……一生関わってこんといて」
ち、ち、ち、――アナログ時計の音。部屋が違っても、無機質な音は私を追い込む。
本当に、もう、何もできなくなって。
荒い足取りの澪に腕を掴まれ、部屋の外へと無理やり押し出されてしまった。
ばぁん、と、必要を遥かに超える力で玄関の戸を閉められた私は、廊下に座り込んで茫然としていた。茫然としたまま、泣いた。
五階の他の入居者が使う通路だということも気に留めず、私は虚無のまま涙を流し続けた。すぐ隣に自分の部屋があるけれど、そこまで足を進めることすら敵わなかった。
――一生関わってこんといて。
似たようなセリフを言われたことあるよなぁ、と、涙の裏でやけに冷静な思考が巡った。もちろん、澪の自殺の原因を探るために、何度も電話口で聞かされたあのセリフのことだ。
あの時は。
死ぬまで、という、枕詞のふりをしたメッセージ――と私が解釈した――があったのだけれど。今回は、言葉の上でも、そもそも言い方でも、そういう希望や抜け道は存在しない。そんなものに縋りつこうとする方が、心底馬鹿である。
「なんで、こんなことに……」
本当に、ただそれしか言えなかった。いつもどおりログをロードしただけなのに、記憶にない地獄に迷い込んでしまった。現実感がなさ過ぎてかえって現実味を感じるような、常軌を逸した大地獄。
分からない。私には、理解できない。
――いや。
そう結論付けるには、行程を一段階飛ばしている。
嗚咽を漏らし続ける醜態から逃げるように、私の意識はこの場から逃げ出した。