00.「……ごめんなさい、言いつけは守れない」(2/2)
呟いた。力強く。
おかしい――なぜだか私はそう直感していた。
夜の十一時に人の部屋のドアをノックして、返事がない。これにおかしいと思っている私の方がおかしいというのが客観的な評価だろうが、それを踏まえても私は自分の直感に自信があった。
この感覚は、今に始まったことではないのだ。
この一週間ほど、ずっと思っていた。おかしい――と。
何か、普通ではない胸騒ぎが刻々と育っていた。とにかく頭に引っかかって、歯がゆくて、じれったくて、もどかしかった。
「っ……」
取っ手に手をかけると、その感触が、鍵がかかっていないことを教えてくれた。途端、一週間以上培い続けていた違和感が、かちり、と形を持つ。違和感が、紛れのない違和となった。
とく、とく。
自分の拍動が、妙なくらい自覚できる。徐々に鼓動が早く、強くなっている。耳の奥が脈動しているとまで思えた。
澪の部屋に入るのに、これほどまでに緊張したのは初めてだ。
この緊張には、違和感の知覚とは別に、もうひとつ理由がある。一週間にもわたってその違和感を溜め込み続ける羽目になったのと、ちょうど同じ理由。
――この社会で、あたし達みたいな奴らはさ。どう頑張ってもただの負け組で、異端児で。出来損ないや。
それと一緒に、私の頭の中をぐるぐると揺さぶって掻き乱すトドメの言の葉。私を縛り上げて圧し殺す、呪詛と言ってもいいようなそれ。
死ぬまで、あたしのこと思い浮かべもせんといて――反吐が出る。
「はぁ――……」
大きく溜め息をついて、固唾を呑み込む。手に無駄な力が籠った。
澪は、天地がひっくり返ってもそんなことを言う人物ではない。たとえ冗談であっても、何かの台本であっても、銃を突きつけられていても。絶対に口にすることはないと、神掛けて断言することができた。
今ここで扉を開けることが、その確信を証明する唯一の方法だ。
「澪、……ごめんなさい、言いつけは守れない」
一遍に空気を肺へと溜め込んで、取っ手を握る右手に力を籠める。全身全霊を懸けるつもりで、腕を引き寄せた。
案の定、錠は下ろされていなかった。腕を引く力が伝わるまま、扉が開いた。
正面玄関で管理人に部外者が篩われる寮――その五階とはいえ、一人暮らしの女子大生にあるまじき不注意。
また、胸の違和感が影を濃くしていく。
「澪?」
中を覗いてみると、先ほどの私の部屋と同様、完全に消灯されていて真っ暗だった。私の後ろから射す廊下の淡い明かりでは、下駄箱の周辺くらいしか、はっきりとは視認できない。
たいてい私とメッセージのやり取りをして起きている時間だが――やはり、寝ていたのだろうか。
「澪――?」
ここまで来たらもう遅いが、寝ているところにずかずか入るのは申し訳ないので、せめて呼びかけて先に起こそうと試みた。扉を隔てていたさっきまでとは違って、今回の呼びかけは寝ていても気づくものだったはずだ。
しかし、返事は返って来なかった。
……それどころか、そもそも人がいる気配がなかった。冷たい静寂の空間。
留守?
いや、その可能性は低い。
確かにこの寮は門限を設けてはいないが、これまで澪が夜に出かけることなんてなかった。そもそも、若い女性が夜に単身出かけるなど、それなりの理由がなければ憚られる行為だ。
「……?」
一歩、中へ踏み込むと、鼻の奥に妙な感覚。それが臭いの知覚だったことに気づいたのは、もう一歩を踏み出した時だった。
変な臭い。それほど強くはないが、これまでに嗅いだことのないものだ。近い臭いを引き出してくるなら、……生ごみ?
今年は六月でもかなり暑い。部屋を閉め切って生ごみの処理を少し怠れば、腐臭は容易に発生するだろう。実際、この寮の部屋は扉から近い位置にキッチンが据え付けられている。
だけど――規則正しい生活を送る澪が、ごみの処理を疎かにするとは考えにくかった。
「澪、電気つけるよ」
念のため部屋の奥へ一言飛ばして、玄関の照明を点けた。間取りは全ての部屋で共通だから、暗闇であってもスイッチの位置は分かる。
再び網膜を刺激する痛みが一瞬訪れて、それをやり過ごして奥へと視線と向けた。
玄関とリビングの電灯は別だが、玄関の照明を点ければリビングも薄っすらと視認できる。ここから見て突き当りにあたる、ベランダに続く大きな窓、も――……。
「えぁ――……!?」
これまで生きてきた二十年間で初めて聞く、自分の変な声。素っ頓狂なんてものでは済まされない、あまりにも気色の悪い声だ。
目線が――動かない。見てはいけないものを見てしまった感覚が襲い掛かっても、そこから目を離せない。まるで吸い込まれるように、意思に反して焦点がそこへと向けられる。
そうこうしている間にも、知覚してはいけない視覚情報が止め処なく脳へと流れ込んできていた。
「はぁ、はぁっ……!」
胸を圧し潰されたように、息ができない。
開ききった瞼が降りなくなった。目の前が真っ暗になって、四肢の先まで固まってしまう。訳の分からない涙が滲み出た。
とうとうこの時、実に二百時間以上にわたって私の頭に棲み付いていた呪いの言葉が、あっさりと消え失せた。意思に反してこびり付く呪詛すらをも無力化するほど、頭が真っ白になっていた。何も考えられない――どころか、何かを考えようとする気さえも根から枯れ落ちている。
気づけば、私はその場に頽れていた。一瞬床が温かく感じた気がした――ひょっとすると、今私は他人の部屋で最悪な粗相までしているかもしれない。もう、身体の状態が、自分でもからっきし認知できていなかった。
「う、おぇ――……!」
挙句、口から。
上からも下からも、無様に全てが垂れ流しだった。
正気を保たんとする人間の本能が、切れかけようとしている。生命の尊厳を守る最後の砦が、崩落に差し掛かっていた。
壊れかけの意識の中、私――東仙紬希の、なけなしの細い思考が走った。
私を呪縛し続けた澪の言葉。
澪がそんなことを言うはずがないと、私は信じていた。神掛けて断言できるとまで思っていた。
――だったら。
だったらどうして、もっと早くにこうして部屋を訪れなかったんだ。
信じていた? そんなもの、後付けじゃないか。行動が起こせなかったのなら、そんな言葉は全く意味を成さないじゃないか。ただの逃げのセリフじゃないか。
それに、今思えば簡単なことだったんだ。
馬鹿みたいに打ちのめされていなければ、すぐに思い至ったこと。自分の辛さにかまけていたから、気づけなかったこと。
どうして、どうして……!
どうして気づけなかったんだ、澪の言いつけの真意に――!
「………………戻ら、ないと」
自分の口から出たその言葉が、いやにはっきりと耳を貫いた。
「戻ら、ないと。最後に会ったあの時に――……」
沈黙を抱えるこの部屋に、私の声が溶け込む。
ただただ、何度も口を動かし続けた。壊れた機械のように、自分に言い聞かせるように。戻らないと、戻らないと――と。
戻る。
私はその言葉の意味を、痛いほど分かっている。それが何を示しているのかを。
私にとって、最も重要な言葉。
この時のため――というのは、一人部屋で用無しとなっている二本目の鍵ではなく、この能力に充てるべき言い回しだったのだ。
「ごめんなさい……。ごめん、なさい、澪――……」
あぁ。
直そうと思って大学入学以降封じていた口癖が、ここに来て一気に溢れ出してしまった。あまり口にしすぎると、オオカミ少年的に言葉の中身が薄れてしまうからと堰き止めていた言葉。まるでダムが決壊したかのように、謝罪の言葉が止まらなくなってしまった。
虚ろに詫び言を連ねる私の目が捉えていた光景。私の心をトドメとばかりに追い込んで、思考回路を焼き切るのに十分すぎるそれ。人が受容できない衝撃をもたらす現実。
――私の恋人は、大窓のクレセント錠から吊った縄を首にかけて、動かなくなっていた。
*
※今話の挿絵の高画質版は、pixivに掲載しております。
https://www.pixiv.net/artworks/108404961
《あとがき》
はじめまして、乙糸旬です。
【序幕】に目を通していただき、本当にありがとうございます。
こちらの作品は、完結までの全60話を毎日20時に投稿していく予定です。
1話2,000~4,000字のため、スキマ時間にさくっとお読みいただけるかと思います。
全部で16枚のモノクロ挿絵も用意しておりますので、そちらもお楽しみいただけると嬉しいです。
(イラストは、公開されたものからpixivにまとめていきます)
また、僕のTwitterを覗いていただくと、今後作品についてのツイートがあるかもしれません……。
スッ( -ω-)_(https://twitter.com/ShunOtsushi)
次話から始まる【一幕】からが実質的な本編となりますので、引き続きお読みいただけると幸いです。
よろしくお願いします。