10.「ごめんね、澪……」(2/2)
診断書ごと押し退けて、目的のものにありつく。
青のフォントで大きく“内用薬”と書かれた薬袋。表には澪の名前と服用ルールくらいしか書いていないが、何の薬かは容易に想像がつく――抗うつ剤だ。二十八日分と、それなりの量が処方されているようである。
自殺を図っての大量摂取を防ぐため、そして定期的に来院してもらうために、三十日分以上を一度に処方することは避けられていると聞いたことがある。それが正しければ、ほとんど上限量だ。
背後からの衝撃――を受ける前に。
「ロード!」
ロードしてから澪に邪魔されるまでの間隔は、そろそろ体が覚えてきている。どうせやり直すとはいえ、無駄に痛い思いをするのは回避したい。
例によって澪を押し退け、引き出しへ。
診断書と薬袋を脇に追いやると、おそらく最後の手掛かりであろう物品。
これは……錠剤の瓶だ。さっきの薬袋は処方薬だったが、これは市販のもの。ざっとラベルに目を通したところ、おそらく睡眠薬のようだった。
睡眠薬――。
これほど、一般的かつ恐ろしい薬はない。鬱症状で眠れなくて購入したのか、あるいは。
現代の睡眠薬は、大量に服薬しても死に至らない作りになっているらしく、これが直接的に澪の命を絶つ刃にはならない。ただ、……実際にこれで死ねるかどうかなんて、全く関係がない。大切なのは、澪がどちらの目的でこれを買ったのか、だ。
「ロード」
違和感を覚えたのはこの引き出しだけで、その探索は終わったのだけれど。
こんな事実をひとつでも見てしまったら、他の引き出しを調べるなという方が無理な話である。悪く言うつもりはないが、澪が私に対して隠し事をするということが明るみに出てしまったのだ。いよいよ、自分の目しか信じられない。
いつものタイミングで澪を押し退け、今まで調べていた引き出し以外の引き出しを片っ端から乱暴に開けていく。
今回は、中を探るまでする必要はなかった。どの引き出しもそれほどたくさん入っているわけではなく、ぱっと一瞥しただけで今必要のないものばかりだということが見て取れる。
次々と開けていく流れで、件の引き出しにも手をかけた。一瞬の躊躇いの末、私はどうしてか、もう一度そこを開けていた。事実を認めることが苦手な私の脳に、最後に証拠を見せつけてやろうとでも思ったのかもしれない。
「やめてよ紬希!」
後ろから首根っこを掴まれて、引き出しから離された。
今回掴みかかって来なかったのは、単なる小さなノイズだろう。実際、ロードのたびに私の行動は変わっている。私がどの引き出しから開けて何を見るかによって澪の言動が多少変わるくらいは、別段不思議なことではない。
この時点で、計六回の引き出しの探索。これ以上めぼしいものはない。
デスクから引き離されたままの勢いで、私はベッドに身を投げた。階下の部屋に響くから本来ならタブーだが、今はそんなところに気を配れない。何ならロードすることになるから問題なかった。
「ぅ……」
仰向けに脱力した私の上に、間髪入れず澪が覆いかぶさった。
馬乗りの比喩ではなく、本当に、私の上でうつ伏せになった。さっきまでの攻撃性が記憶に新しくて、今彼女が何をしているのかが分からない。
「……澪、」
「なんでなん!」
私の胸元に顔を埋めたまま、叫ぶ。声の振動と吐息の温かさが、服を跨いで伝わってくる。
「なんでそんなことするん……! あれだけは紬希に見せたくなかったのに!」
私の脇腹あたりの服をぎゅっと握りしめて、声を震わせながら訴えてくる。息の温かさに紛れているが、涙が滲む感覚もある気がした。
あれだけは――。
あれとは、どれだろう。鬱病の診断書か、抗うつ剤か、睡眠薬か。まぁ、さしずめ鬱病に罹患しているという事実そのものだろう。
それだけは、私に見せたくなかった。……鬱の相談相手に、私は相応しくない。鬱の辛さを捌けないことよりも、私に相談することを厭ったのだ。
「ごめんね、澪……」
図らずも、澪の頭に手を置いてしまった。彼女の息遣いが変わる。
「なんやねん……意味分からへん……」
子ども扱いしているようで、振りほどかれるかと思ったけれど。嫌じゃないのか、気力がないのか、無抵抗で私の手を受け容れた。
気力の有無の話をするなら――私こそ、力尽きていた。
数秒周期での、五回に及ぶ連続ロード。
引き出しを漁っているときは興奮状態だったが、今ではアドレナリンの補正も解けてきて、身体の不調が順を追って意識に上って来ている。澪の頭まで手を持っていけたことが不思議なくらいの脱力感はもちろん、頭痛に目眩に、吐気に眠気と、不調の出血大サービスだ。繋いだ意識は、まさに糸で喩えたいくらいである。
人間の活動の負担を請け負うのは、どんな活動であっても最後は脳だ。負担のしわ寄せがそのまま脳の皺として表出しているのではないかと思ったことさえある。特に私の場合、意識自体を操作するような荒業を繰り返しているのだから、脳への負担は計り知れない。不調がない方がおかしいのだ。
「ねぇ、澪。ひとつだけ聞いてもいい……?」
物的証拠を集められた今、さらに得られる情報があるとすれば澪の言葉だ。
これほど掻き乱したまま進めるのは現実的ではないため、そろそろロードで戻るところだが――それまでにどうしても知っておきたいことがあった。
「なに……」
澪の返事に言葉を返そうとして、眠気の波に攫われた。既のところで意識を引き戻したが、一瞬完全に飛んでいた。限界も限界だ。
「私って、どうして……」
さらに襲い来る、眠気の奔流。普通の眠気ではあり得ない周期の波。
澪への問いを、私は一生懸命口にしているつもりだったが。もしかすると、辛うじて口が動いているだけかもしれなかった。
「澪の相談相手に、なれないの、かな――……」
言い切るという、ほんの目の前の課題を終えたことに安堵してしまって。
答えを聞かなければならないのに、私は意識を保つことができなかった。
「それは――」
最後に、澪の声が聞こえた気がした。
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※今話の挿絵は、pixivに掲載しております。
https://www.pixiv.net/artworks/108896654