09.「死なへんための拠り所」(1/2)
「――いつぶりやったっけ、部屋来んの」
澪が鍵を回して、開錠の音。
「確かに、最近私の部屋に来るほうが多かったもんね。でも……一週間ちょっとぶりくらいじゃない?」
「そっか。行き来しすぎて、一週間ご無沙汰なだけでめっちゃ久々に思うわ」
「ね」
本当に一週間くらいで合っているのかは分からない。
何せ、今日はフロントラインから十二日も前のこと。ロードを繰り返しているから、私の精神が経験している時間はその倍以上。そこからさらに遡って何日前に部屋を訪れたかなど、さすがに会話のテンポの中で正確に思い出すことはできない。
ドアを押し開けた澪が、こちらを振り向いて「入れ」と目で云う。
「はい、おこしやす」
「え、京都人の部屋に入るのは怖いからそれ禁句じゃなかったっけ」
「ん? ……そんなこと言ったっけ」
「……あ、」
気づいた――遅きに失したが。
初めての確固たるミス。時間遡行の、最も典型的で最も危険な罠。
京都人の件は、澪の誕生日での会話だ。私にとっては肌に馴染んだ話題だが、澪にとってはまだ出てもいない話題。それも、いっそ全く心当たりのない話なら誤魔化し方も雑でよかったものを、彼女の好みを見透かしたような物言いだ――とんだ大ミスである。
ロードし直そうか、と考えが過ったが。
ログハウスでの、金縛りかと思うほどの倦怠感を忘れたわけではない。その症状に危機感を覚えてこれまでより思い切ってアプローチしているのに、その最中にさらにロードしては本末転倒もいいところだ。
少なくとも今は、好き放題にロードできるわけではない――展開は大胆でも言動は慎重であるべきだと、改めて心に刻んだ。
「ごめん、これネットで見た偏見だ。特に関西人は身近だから、京都人のことを恐れているっていう記事があってさ……」
恐ろしいほど苦し紛れの言い逃れ。別に京都の人に何の恨みもないのに。
「あながち偏見じゃないかもしれへんけどな。実際、あたし京都人に怖いイメージあるし」
「え、やっぱりそういうものなんだ」
にしても偏見であることに変わりはないだろう。私は関西人ではないが、京都の人というだけで怖がるのは些か時代遅れ感が否めない。澪が京都人にそうしたイメージがあると知っていたから、この場に限っては偏見にならないだろうと仕掛けただけだ。
「ま、あたしだけかもしれへんけどな――」
言いつつ、彼女は玄関の照明を点けて靴を脱ぐ。上がって、と読み取れる目遣いを受けて、私もお邪魔した。
内側から玄関の錠を下ろして振り返ると、……部屋の雰囲気にただならぬ違和感を感じ取った。はじめは、軽く覚悟していたとおり、例の光景がフラッシュバックしたのかと思ったが――……。
「え……なんかすごく、綺麗になってない?」
部屋が、綺麗。
片づけられている、整頓されている……というより。物が少ない? 少なくとも、前回訪れたときよりも家具などが減っていた。何がなくなったかなどは分からないが、確実に。
これは。
「…………そう、ちょっと気合入れて大掃除してん」
「あぁ……なるほど、」
馬鹿みたいに分かりやすい嘘。澪らしくない間があったじゃないか。
幸か不幸か――今日の朝、調べていたのだ。起きてから澪と会うまでに時間があったから、つい。【自殺 サイン】なんて、最高に不謹慎なワードを。
政府機関や、自殺予防を目的とした一般社団法人など、いくつか信用に足る記事がヒットした。めぼしいところからいくつか閲覧してみて、それらに共通する項目のひとつ。
――身辺整理を始める。
つまり、断捨離。その対象は、物はもちろん、人も。後々面倒が残らないように、所有物を処分したり、手続きを済ませたり、人間関係を清算したり。自殺に係る用語というわけではないが、その予兆としてあまりにも分かりやすい例だ。澪のように、準備を伴う非衝動的な場合は特に。
ごめんなさい、と。声にはならなかったが、口の中では確かに言っていた。
「で? 今日はやけに部屋来たがってたな。なんか話あるん?」
「話……は、ある」
話は、ある。けれど、何の話かは私も分かっていない。
昼の完璧主義の話の続きか、ロード前の生きる意味の話の続きか、盗聴によって得たカミングアウトの話か。そのどれもが彼女の最期に繋がっている気がして――というより実際に繋がっていて――俎上に載せるべき話が定まらない。だからこそ、話すだけなら私の部屋でも済むところを、何か発見があるかもしれない澪の部屋にしたのだけれど。
煮え切らない私に、澪が肩を竦める。
「真面目な話? やったらちょっと肝座らせなあかんけど」
「じゃあ、肝、座らせてほしい」
「……ほいほい」
荷物を定位置に片付ける澪の傍ら、私はいつもの大きなクッションに腰を落ち着けた。
この寮の部屋は、備え付けの家具としてはライティングデスクと椅子、ベッド、クローゼットのみだ。冷蔵庫やその他個人の生活様式に要否が依存する家具は、もちろん自分で揃えなければならない。裏を返せば、同じ間取りで同じ家具がスタートであっても、入居者によってインテリアに幅が出るということだ。
年中対応のカーペットの上に大きめのセンターテーブルを置いただけの私の部屋に対して、澪の部屋はもふもふのカーペットに洒落た小さなセンターテーブル、一度座ると立つのが億劫になる大きなクッションというラインナップ。私がお邪魔するときは、いつもこのクッションの座を譲ってくれる。澪はライティングデスクとセットの野暮ったい椅子を使う。
例によって今日も澪はその椅子に座り、デスクに頬杖をついてこちらに目をやる。
「体も肝も座ったで。聞かせてくんしゃい」
おどけた態度の澪に、私は俯く。話題探しに沈思する目的もあったが、何より部屋のとある一角と澪とを同じ視界に入れたくなかった。あまりに明瞭なフラッシュバックが、私を壊してしまいそうだったから。
「実は……私も何を話したらいいのか決まってなくて」
一拍。
「あたしは決まってる」
「…………え、」
なんやねんそれ、という突っ込みでも来るのかと思っていたから、反応が鈍ってしまった。心づもりできていないと差し込めないような即答。私から部屋に押し入っておいて話題が決まらないという複雑な状態を、完全に見透かされていたようである。彼女が鋭いことを忘れていた。
「紬希、なんか変」
言って、眇めた双眸。目を合わせられない。
「自分でも様子変なん分かってるんちゃうん――なんか明らかに悩み事あるやろ。何ならこっちから部屋押し入ったろか思ってたのに、逆にやけに部屋来たがるし。かと思ったら何話したらいいか分からへんとさ。ワット・ア・ストレンジ・ガール、って感じやで」
責められているつもりはないのに、言葉の連投に完全に気圧されていた。
改めて客観的な評価を聞かされると、自分がどれくらいストレンジガールに見えていたかが想像以上に伝わってくる。それはそうだ。何も知らない平和ボケした東仙紬希と、恋人の死を二重三重に目の当たりにした東仙紬希が、全く同じように映るはずがない。違う世界線とまではいかずとも、違う環境の人物だ。
「…………私の悩みは、」
絞り出すような声。また俯いてしまったが、澪の柔らかい眼差しが当てられていることは感じられた。
きっと彼女は、私がどれだけ言い淀んでも、呆れも苛立ちもしない。……見せていないだけかも、しれないけれど。
「澪の悩みが、分からない、ことだよ……」
「……え、どういうこと?」
明らかに彼女の気構えが崩れた。
言葉を選んだつもり。それでも、この段階では少し洞観しすぎた言い回しだっただろう。ただでさえ澪は、誰が見ても分かるような悩み方は最期までしなかったのだ。現時点では、澪の悩みを示唆するヒントはひとつも出ていないと言っても過言ではない。
澪が私の悩みを看破したのは、客観性と明白性のある言動を根拠としてのものだ。ただ、私が彼女の悩みを言い当てたのは、未来の事象に基づく業。不意打ちのレベルが違う。
「澪こそ、悩んでるでしょ。それも思いっきり」
「……なんでそう思ったん」
結末を見たから、とは言えるはずもない。
「これという根拠はないよ。……私が澪の恋人だから、かな」
「女の勘……でもないか。恋人の勘?」
「そんなところ」
科学的根拠がなさ過ぎて、かえって切り捨てることもできない理屈――勘。
一応女の勘には、脳梁の太さに対応して女性の方が観察力が高いという論もあるようだが、恋人の勘となるとそれはもう奇跡を操るに近い。奇跡は、起きることを証明するよりも、起きないことを証明するほうが骨が折れるだろう――いわゆる悪魔の証明というやつだ。
実際は女の勘でも恋人の勘でも何でもないけれど、澪には秘密である。
澪が逡巡する時間――そして私も言葉を探している時間が、沈黙とともに流れる。普段は多少無言が続いたところでお互いスマホでも触ってやり過ごせるのだが、今回はそう簡単な話ではなかった。澪は突然自分の深層を突かれ、私は私で澪の出方を窺わないと進退窮まっている状態だ。
ふと、彼女が立ち上がる。口を閉じたままベッドへと向かい、仰向けに寝転んだ。
「……そりゃあるわ、悩みくらい。でもまさかバレてるとはなぁ……上手くやってるつもりやってんけど」