00.「……ごめんなさい、言いつけは守れない」(1/2)
この社会で、あたし達みたいな奴らはさ。
どう頑張ってもただの負け組で、異端児で。
出来損ないや――……。
もういいよ――と呆れ返っても、その言葉は頭の中を走り回って止まらない。
気分が悪い。吐気がする。
照明も点けず、カーテンも開けず――そんな部屋の暗さと陰鬱さが、芽吹いた負の感情に水をやる。鬱々とした感情の芽は、むしろ日の光が届かない場所で良く育っていく。
入居当初は、それこそ花でも飾ろうかと夢を膨らませるほどに素敵だったこの寮室も、今となっては冷たくじめじめとした牢獄のように感じてしまう。私の胸中に根を張る憂さが、だからカビか何かに思えて仕方がない。
「安眠、百会などのツボをマッサージしましょう。眠る前に温かい飲み物を飲みましょう。筋弛緩体操をしましょう。落ち着く音楽を流しましょう――」
ほぼ唯一の光源と言えるスマホの画面――そこに表示されている文字を、掠れた声で読み上げていく。
ベッドの上でひたすら眠気を呼び続けた果てに、“寝る方法”なんてワードで検索して一番上に出てきたウェブページだ。気持ちよさそうな寝姿の美女をアイキャッチ写真にして、効率的に入眠するための方法が列挙されている。
「どうしても眠れないときは、無理に眠ろうとせず、ゆったり本でも読んでみましょう――……」
ページの下端まで読み終えて、ブラウザごと落として画面を切った。
ひとつ嘆息して、腕を下ろす勢いのままスマホをベッドに投げ出す。空中に挙げて血圧が下がっていた右腕に、じわぁ、と血液が流れ込んでくる感覚。気持ちの悪い生暖かさが腕を燻ぶった。
この大学寮は一人に一室与えられるため、自分が黙れば静寂だ。だが、完全な無音になるわけではない。
冷蔵庫が稼働する重低音。換気扇が回る微かな音。締めの甘い蛇口から水滴が落ちる音に、時折壁の軋む音。
冷たく無機質に流れゆくその音たちは、ほんの僅かに――しかし着実に、私の心を追い詰めていく。
大きな気がかりがひとつでもあると、脳はそれに掛かりっきりになる。ましてや、そこに恋なんてものが絡んでいようものなら、いよいよ周りが見えなくなってしまう。恋は盲目――とは、よく言ったものだ。
「…………澪、」
ぽつり、と。
まさにその気がかりの元凶を、独り言ちた。
澪――八百坂澪。私の恋人の名だ。
この一週間と少し、私の思考は澪のことで埋め尽くされている。大学で講義の席に着いたときも、好みの料理を口にしているときも、こうして睡魔を待ち望んでいるときも。本当に、何をしていてもそれを思考回路から追い出すことができなかった。
「……私の根負け」
眠りに就けるか、寝るのを諦めるか。
いつしか勝負のような認識でいたが、それに即せば、私の根負けだった。
「ん……」
ベッドから起き出し、部屋の照明を点け、ライティングデスクの置き時計を手に取った。暗闇に慣れていた目が照明に灼かれる痛みに耐えながら、画面の表示を捉える。
【六月三日 二十三時】
私は少し目を丸くした。てっきり、もっと夜更けになっているとばかり。
……思い返せば、そもそも何時からベッドに臥していたかさえ覚えていなかった。
この程度で音漏れはまずあり得ないが、夜だからと極力音を殺しながら時計を机に戻して、一考する。
「十一時なら、まだ大丈夫かも……」
口にしてからもう一度考えて、自分の体を見下ろした。
幸い、外に出ても問題のない服装をしている。最後に着替えたときの記憶も曖昧だから、今の服装がパジャマかどうかさえ認識できていなかったのだ。
パジャマだったらもう一度床に就き直していたかもしれないが――ともかく、念のためスマホだけポケットに入れてから、玄関へと静かに足を進めた。ワンルームだから、小さな玄関もどきが、すぐそこにあるだけだけれど。
下駄箱の上に無造作に置いてある、この大学寮の名と部屋番号が記された鍵を手に取った――ふたつ。
片方は、もちろんこの部屋の玄関の鍵。自分が出たあとに戸締りするための。そしてもうひとつは、隣の部屋の鍵だ。
「まるで、この時のためみたいだね……」
この寮は一人部屋だというのに、なぜか旅館のように部屋ごとに二本の鍵が用意されている。システムの意味が分からず管理人に尋ねたこともあったが、同じく理由は知らないとのことだった。なんでも外注の管理会社の方たちで、しかも昨年度に担当者を交代したばかりらしいから仕方がない。
防犯道具である鍵も、意味もなく二本あるとむしろ安全性を欠く。だから住人は基本的に一本を備え付けの金庫に仕舞い込んでいるのだが――どうせならと、私たちはそれを交換したのだった。
ドアを開けると、そこは広々とした廊下だ。
部屋の並ぶ通路を、部屋から出て左へと少し進んだ先。
私の部屋は五一○号室――隣のここは、五一一号室。五階の角部屋。
この扉の向こうにいるのは、件の八百坂澪である。
いくらなんでもこんな時間から部屋を移動したことはないが、普段ならメッセージアプリでのやり取りはそれなりにしている時間だ。起きている可能性の方が高い。
こん、こん。
角部屋な上に隣は自分の部屋だが、念のため周囲に気を遣って小さめにノックした。
「…………」
少し待っても、返事はない。
音を抑えたとはいえ、中にいるなら十分に聞こえる強さだったはずだ。寝ているか、あるいは風呂にでも入っているか。まぁ、常識的に考えれば、こんな時間にノックをしても返事がない方が普通である。
もう一度ノックをしたが、相変わらず返事はない。
「澪……?」
呼びかけてみても、沈黙が続いただけだった。
……普通なら、諦めて帰るだろう。私だって、いつもならここで退いているはずだ。
「………………おかしい」
※今話の表紙・挿絵の高画質版は、pixivに掲載しております。
https://www.pixiv.net/artworks/108378192