とにかく一息
雲は多いながら、空は晴れていた。
風を切る音以外、特に聞こえてくる声や音などもない。
つい先程まで激闘が繰り広げられていたとは、信じられなかった。
しかし、屋根に掴まるルクトは少し表情を厳しくする。
「…まずいですね。」
「どうした?」
御者台に掴まるプローノの問いに、屋根板を軽く叩いて答える。
「この馬車、そろそろ限界が近い。このままだと空中分解しますよ。」
『…何かおっしゃいましたー?』
「あ、いえ何でもないです。」
ノックして呼びかけられたと、中の王女に勘違いされたらしい。
事情を説明してパニックになっても困るので、ルクトは言葉を濁した。
「合流地点までは持たないか。」
「どっちみち、グルークが降りても問題ない場所でないと。」
「そうだな。」
同意したプローノが、正面に視線を向けて続ける。
「どこへ向かっている?」
「ウルト山のふもとの森です。」
「当てがあるんだな。」
「一応は。」
「よし。なら任せる。とにかく今は王女を安全に降ろすのが優先だ。」
『分かりました。』
ルクトの代わりにアミリアスがそう答え、魔石がかすかに光る。
それと同時に、高度が下がってきたのが体感できた。
「降りるのー?」
グルークの首の上にまたがっていたガンダルクが、こちらに振り返って
のんきな声を上げる。
「やっとですか…」
ラジュールも、心底ホッとしたかのような声を上げる。
それを目にしたルクトとプローノもまた、同時に小さな息をつく。
ようやく騒ぎも一段落らしかった。
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巨体の割に、グルークは何をしても意外と繊細である。
山のふもとの森にぽっかりと空いた平地に、音もなくゆっくりと降下。
ずっと掴んでいた馬車を、これまたゆっくりと降ろす。さほどの衝撃も
音もなかったものの、掴まっているルクトたちは致命的な構造の歪みを
感じ取っていた。それぞれが素早く飛び降り、プローノが戸を開ける。
「メリゼ王女!」
「あ、はい。…着きました?」
「とにかく早く降りてください。」
「えっ?」
「降りましょう!」
ここに至るまでに、さすがに侍女も意識を取り戻していたらしい。
彼女に急かされ、王女もあたふたと手荷物を持って馬車の外に出る。
2人が何とか草の上へと降り立ち、距離を取った直後。
ガタッ!!
鈍い音を立てた馬車が、内側に倒れ込むようにその形を失って崩れた。
主を運ぶという責務をギリギリまで全うしたその姿に、見守るルクトは
小さな敬礼を送る。隣に立っていたガンダルクも、同じ敬礼を送った。
「「……はぁ。」」
ほぼ同じ声を上げた王女と侍女が、並んでへなへなと腰を抜かした。
ここに至るまでの2人の不安と恐怖を察したルクトたちは、あえて何も
言おうとはしなかった。
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しばし、呆けたような時が流れた。
やがて気を取り直したらしい王女が立ち上がり、パンパンと服を払う。
あらためて、ルクトたちはその顔をはっきりと目の当たりにした。
メグラン王国唯一の王女、メリゼ。
名前だけ知っていたものの、実際に会うのはルクトも初めてだった。
背はガンダルクよりわずかに高く、何とも年齢を推測しにくい顔立ち。
若い娘のようでもある一方、子供がいると言われても信じられる。
浮世離れしているものの、何となく親しみの湧く等身大の美人だった。
主が立ったのを見て、侍女も慌てて立ち上がる。こちらは王女とは逆に
かなり小柄だった。娘と言われても納得してしまいかねない姿である。
黒髪を短く切り揃えており、簡素な服にいまだ返り血が付着している。
無理もない事とは言え、何もかもが違和感の塊のような少女だった。
そんな2人が、あらためてプローノやルクトたちに向き直る。
「この度は助けて頂き、感謝の言葉もありません。」
「…ありがとうございます。」
「いえ、ご無事で何よりです。」
答えたルクトに目を向けた王女が、遠慮がちに問いかける。
「それで、あなたのお名前は…」
「ルクト・ゼリアスと申します。」
「ルクトさまですね。それ…」
続けてガンダルクに向きそうだった視線が、ふと上を見据えて止まる。
彼女に倣い視線を上に向けた傍らの侍女も、同じように動きを止めた。
何を見ているかは、確認しなくても察する事ができた。
やがて2人の口が、揃ってポカンと開けられる。
そんな2人に、黒い影が落ちた。
ずっとそこにいたグルークの顔が、触れそうなほど近くに降りてくる。
まじまじと見つめる巨大な眼球に、2人の姿が丸く映り込んでいた。
数秒の沈黙ののち。
くわーっと大きな欠伸をしながら、グルークが頭を元の位置まで戻す。
おそらくは歯並びまで見たであろうメリゼと侍女は、固まっていた。
「……」
「し、失礼しました。あの…」
「いえいえ、お気になさらず。」
気まずそうに声をかけるルクトに、王女はにこやかに笑いかける。
その言葉に、ルクトも少し笑った。
「あ、じゃあ今後の事について…」
「ちょっと待ってください。」
笑顔のまま、メリゼは傍らの侍女の肩をトントンと叩いて声をかける。
「ねえ。」
「は、はい?」
「荷物持って、ちょっと来て。」
「はい?」
「…着替えるから…」
消え入りそうな声でそれだけ言ったメリゼが、半ば引きずるようにして
侍女と共に少し離れた場所の木陰に移動した。
さすがについて行けないルクトたち一同が、怪訝そうに見守る。
「どうしたんだろ?」
「おかしいですね、今になって。」
「もしや、怪我でもしたのか?」
「いや違うって。」
ひそひそと言葉を交わすルクトたち3人に対し、ガンダルクが告げる。
「何が違うんだよ。」
「察しなさいよ。」
「何をだ?」
「下着を濡らしたんでしょ。」
「え…」
今さら何かに思い当たった3人が、ほぼ同時に上に目を向ける。
グルークがもう一度、大きな欠伸をするのが見えた。
「…ああ、うん。」
「なるほど。」
「悪い事したなあ…」
…………
『なるほど失禁ですか。』
「はっきり言うなアミリアス!」
ルクトの怒鳴り声が風に流れる。
束の間の、平和なひと時だった。




