レムリという少女
翌朝は冷え込んだ。
しかし夜通し歩いていたルクトに、疲れの色などは全く見えなかった。
ただただ、同じ歩調で歩き続ける。まるで追い立てられるかのように。
すっかり日も昇った頃。
初めてルクトは立ち止まり、小さく息をついた。そして空を仰ぎ見る。
他に行き交う者さえいない街道で、その影はポツンと儚げだった。
どのくらいの間、そうやって佇んでいただろうか。やがてルクトは、
意を決したように足を踏み出し…
「ねえ、ちょっといいかな。」
背後から投げられたその言葉に、踏み出しかけていた足が止まった。
女性の声だった。
答える代わりに、ルクトはゆっくりと振り返って相手に目を向ける。
そこに立っていたのは、自分と同い年くらいの少女だった。
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あえて何も答えず、ルクトはじっと相手の姿を観察した。
肩より少し上で切り揃えられた、明るい茶色の髪。
動きやすそうな皮の軽装で、申し訳程度のダガーを腰に携えている。
冒険者と呼べなくもない出で立ちではあるものの、違和感の塊だった。
「ねえ。」
「…?」
「いきなり睨まないでよ。」
言われて初めて、ルクトは相手を無遠慮に睨んでいた事に気づいた。
あわてて視線を逸らした瞬間、不意に違和感の正体に思い当たる。
そうか…
「…お前、昨夜のあの店にいたよな?確か窓際の席に…」
口に出した事により、その心当たりは確信へと変わった。
そうだ、間違いない。
誰もが尖った視線を投げる中、この女だけはこっちを見ていなかった。
あんな状況だったからこそ、はっきりと憶えているのかも知れない。
しかしルクトのそんな思考は、続く少女の言葉によって断ち切られた。
「へえ、ちゃんと気づいてたんだ。さすがは勇者パーティーの一員。」
「………」
「あ、ゴメン。もうあのパーティーの一員じゃなくなったんだよね。」
今度は明確な意思を持って、ルクトは目の前の少女を睨みつけた。
不愉快な出来事をことさらに思い出させるその存在が、煩わしかった。
しかしルクトが鋭い視線を向けている理由は、怒りだけではなかった。
少女が警戒すべき相手であるという思いが、確かに胸の中にあった。
どうしてこいつはここにいる。
俺に用があるってのは分かってる。どうしてというのは理由じゃない。
どうやってここにいるのか、手段の話だ。
俺は一晩中、ずっと休まずに歩いていたはずだ。それもかなり速足で。
この女はそんな俺に、馬にもライドラグンにも乗らずついて来たのか。
息も切らさず、何よりこんな場所で俺に気づかれる事もなく。
見た目どおりの相手ではない。それは明らかだ。
何も言わず、ルクトは相手をじっと凝視していた。
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「…それにしても、アレはちょっとヒドイよねえ。いくら何でもさ。」
張り詰めた沈黙を破ったのは、少女のそんな言葉だった。
あまりにも何気ないその口調に、ルクトは思わず素で問い返す。
「アレって何だよ?」
「ルクト君だっけ?君に対しての、あの勇者たちの言い草よ。」
「……」
ある意味当然の話題でありながら、なぜかルクトはそれを振られるとは
まったく考えていなかった。無警戒な心に、嫌な思い出が鮮明に蘇る。
「そりゃ不機嫌にもなるよね。うんうん、分かる分かる。」
「余計なお世話だ。」
苛立つルクトの口調は、今まで以上に刺々しいものになりつつあった。
「俺が不機嫌だと分かってるなら、今その話を蒸し返すな。」
「いやあ、ちょっと心配になってさ。」
「何がだよ。」
「もしかして君、このまま魔王の元に殴り込む気じゃないかってね。」
「………」
返す言葉に詰まってしまったルクトの顔を見て、少女は納得顔で頷く。
「あーやっぱりね。とりあえず今はやめようよ。無駄死にするよ?」
「何でお前に言い切れるんだよ。」
「やっぱり否定しないんだ。この先って確か、アステアだもんね。」
「何で俺が無駄死にするって言い切れるんだよ!!」
何かの限界を超えてしまったのか、そこで初めてルクトは声を荒げた。
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「うん、そうでなきゃ。」
怒鳴りつけられた少女は、それでもいたって平然としていた。
「腹が立ってるんなら、吐き出した方がいい。大声も出した方がいい。
君の怒りがどれほど真っ当なものかは、ちゃんと分かってるからさ。」
「…俺は……」
後の言葉が続かないルクトを見つめていた少女が、不意に背を向ける。
そしてそのままの姿勢で言った。
「泣きやんだら言って。あたしは、こうして待ってるからさ。」
「………」
あまりにも無防備な少女の背中が、不意に歪んだ。
自分の流す涙のせいだと気づくまでに、数秒を要した。
棒立ちになったまま俯き、ルクトはぽろぽろと涙を流していた。
お世辞にも早起きとは言えない鳥の声が、ようやく聞こえ始める。
朝の光の中に、2人は佇んでいた。
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数分後。
「…悪かったな。」
「いやいや、謝る事なんてないよ。少なくともあたしには、ね。」
乱暴に涙を拭ったルクトのひと言を受け、少女がくるりと向き直る。
「で、ちょっとは落ち着いた?」
「ああ。」
「とりあえず、アステア行きは保留…って事でいいかな?」
「とりあえずはな。」
「よかった!」
ニッと笑う少女に、ルクトはなおも怪訝そうな表情で問いかける。
「どうしてそんなに俺を止める?」
「言ったじゃない、無駄死にするだけだって。」
「…だから、どうしてそこまで断言できるんだよ。」
先ほどと同じ問答になってきているものの、ルクトは今は冷静だった。
その問いに、少女は肩をすくめる。
「いや、断言とまでは行かないよ。…そんな気がするってだけ。」
「おちょくってんのか?」
「そうじゃない。」
それまでにこにこしていた少女が、そこで初めて表情を引き締めた。
気配が変わったのを感じ、ルクトも少し構える。
「むしろあたしも知りたいのよ。」
「何をだよ。」
「あなたが、どれだけ強いかを。」
「…?」
「じゃあちょっと、あたしのお願いを聞いてくれないかな。」
そう言った少女は少し頭を傾けて、ルクトの顔をじっと見据える。
「…いいだろう。」
「聞いてくれる?」
「まず話を聞く。」
「うん、それで構わないから。」
「とりあえずお前、名前は?」
「レムリって呼んでくれればいいよ。」
「分かった。」
視線を見返してそう答えたルクトの声に、もう迷いの響きはなかった。
「じゃあ聞こう、レムリ。」