あなたが救われますように
君のその選択を止めることができないのなら。
君を救わせてくれないのなら。
それならばいっそ、僕に君を殺させてくれ。
お願いだ。他の誰でもなく、僕に君を殺させてくれないか。
******
「桜が見たい」
車の助手席に座った紗良が不意にそう言った。色付いた木々が次第に葉を散らし、人々を芸術やらスポーツやらに勤しませた秋が終わりに近づいた日のことだった。
「そんなん春に言えよ。紅葉でも見とけば?」
僕がそう言うと、紗良は不貞腐れたように黙った。去年の秋にも同じような問答があったような気もする。
運転中の僕は紗良の方を見るわけにはいかない。目的地に着くまでに機嫌を直してくれればいいなと思ってため息を吐いた。彼女の不機嫌は前触れなくやってくるものだから面倒くさい。
僕の愛車であるシルバーのセダンは山道をすいすいと登った。どうやら風が吹きはじめたらしく、フロントガラスの向こう側で落ち葉が巻き上げられていた。
その光景は、見る人が見れば精霊のワルツのように感じるのだろうが、僕には死人が現世に這いあがろうとしているように見えた。息の吸いづらい車内の雰囲気に影響されているのだろうか。我ながら捻くれた見方をしているなと呆れながら踊る枯れ葉をつぶして進んだ。
今日の外出はマイナーなカフェ巡りを趣味とする彼女の提案だった。山小屋カフェに行かないか、と。
僕はコーヒーや紅茶に詳しくないし、正直に言えば都内のカフェで十分なのではないかと思う。車を運転できない彼女が僕を誘ったのは、僕の車をあてにしたからではないかとも思う。ただ、そんなものは最近連絡が途絶えがちな彼女からの誘いを断る理由にはならない。彼女はカフェを、僕はドライブを楽しめば問題はないと思った。
カーナビが左折を知らせる。ハンドルをきった僕の視界の端に、ペットボトルをもてあそぶ紗良が映った。
「いらっしゃいませ。二名さまですね」
そこは山小屋というよりも、フィンランドやノルウェーなんかにありそうな、家庭的であたたかみのある小さな家だった。暖炉で揺れる火が、紗良と僕の間にあったどうにもできない緊張感をほぐしていく。
「来てよかったでしょ」
まだ席にも着いていないというのに、紗良はそう言って僕を見た。どうやら僕が乗り気でなかったことを見抜いていたらしい。曖昧に「まあ、そうだね」と答えると「だってさ、駅前のスタバでいいじゃんって思ってたでしょ?」と得意顔で返された。
重厚な作りの木製テーブルには、長年使われてきたことがうかがえる細かな傷と、それに相応しい威厳があった。ソファー席に案内された僕らの間に置かれたそのテーブルを、紗良は指で撫でた。
「隠れ家カフェの代表格って感じだよね、ここ。雰囲気いいしさぁー」
彼女の顔が哀愁に満ちて見えた。そんな顔を初めて見た僕はどうしていいかわからずに、彼女の表情から逃げるように店員を呼んでオーダーをした。カフェオレとモンブランを二つずつ。店員がカウンターの奥へ引っ込む頃には彼女の顔は晴れていて、店内の様子をカメラに収めていた。
窓の外に、待ちぼうけをくらうセダンが見えた。ボンネットの上に赤い葉を一枚乗せている。その葉に、なぜだか紗良のさっきの表情が重ねられた。
******
紗良と出かけた日にわずかに残っていた木々の葉は、もうほとんど落ちきっていた。
その日は特に何があるわけでもなく、家で暇を持て余していた。
ぼんやりと山小屋カフェに行った日のことを思い出しては、カフェのサービスというものにはその場の雰囲気も含まれているのだと考えていた。カフェというものの魅力を感じ始め、紗良のカフェ巡りに付き合うのもいいものかもしれないと思いながら、紗良に何かメールを送ろうとスマートフォンを手に取った。
そんな時のことだった。
そう、それは、あまりにも突然だった。
「もしもし、山崎宏輝さんでお間違いないでしょうか」
登録されていない電話番号からの電話。セールスや詐欺かと思ったが、その場合僕の名前を知っているはずがない。
「はい、山崎ですが」
「大和田総合病院の田中と申します。佐藤紗良さんのお知り合いでいらっしゃいますか」
「はい、そうですが」
「失礼ながらご関係をお伺いしてもよろしいでしょうか」
電話から聞こえる若い女の声は冷静を装っていたが、確かな焦りを帯びていた。嫌な予感がする。次の言葉が簡単に予想できる。
「佐藤紗良さんが事故に合われました。どなたとも連絡がとれないため佐藤さんの携帯電話の連絡先にありました山崎さんへ連絡をしたしだいです。つきましては——」
事故。それも、紗良本人ではなく病院からの連絡。紗良は今、どういう状態なのか。どうしても最悪のケースを想像してしまう。
電話が終わるよりも早く、僕は車に乗り込んだ。
「山崎です。紗良は——佐藤紗良は今どういう状態なんでしょうか」
電話で応対してくれた田中という看護師は、困ったような顔をした。異常に冷え切った頭で緊急の対処に慣れていない新人なのだろうと考えた。
「先生からお話があります」
部屋に通された僕は、紗良の手術を担当したという医者から詳しく説明を受けた。
自動車と接触して全身を強打した。臓器の損傷は軽度だったために回復可能だが、脳の新皮質の損傷が激しいため、断定はできないものの高次脳機能障害が残る恐れがある。
そういう内容だった。
紗良には両親がいないらしい。一年以上の付き合いをして、僕はそれすらも知らなかった。そういえば彼女から家族の話を聞いたことはなかった。
紗良は喫茶店を開きたかったらしい。カフェ巡りはそのための下調べも兼ねていたのだ。
紗良は思い出して欲しかったらしい。記念日もろくに覚えていない僕に、桜の下で出会った日を。秋になって舞うイチョウをその桜に見立ててふざけた日を。
紗良の鞄に入っていたという分厚い日記。僕がいつもうまく言葉をかけられないのと同じように、彼女も口下手だった。日記には彼女が言語化できなかった思いがつまっていた。
「喫茶店開いたら、宏輝に絶対絶対一番のお客さんになってもらいたい! けど、きっと興味ないだろうなぁ」
「宏輝が何考えてんのかわかんない。わたしといるの楽しくないのかな」
「自由が丘のシフォンケーキ屋がすごすぎる……。ふわってしてるのにしゅわっと溶ける! これなら宏輝もおいしさがわかるかも‼︎」
言ってくれなくちゃわからない。ああ、でも、それは僕も同じか。
僕は彼女のことをあまりにも知らなすぎた。知ろうとしなさすぎた。その方が楽だと考えていた。
紗良が目覚めたら、まずは日記を盗み見たことを謝ろう。それから、山小屋カフェを気に入ったと伝えよう。
紗良の寝顔は穏やかで、それだけが救いだった。
******
その後、僕と紗良が喫茶店の話をすることはなかった。
目覚めた紗良は、変わり果ててしまっていたのだ。
「今日は体調どう?」
返事はない。僕の方を見ることもしない。紗良の視線は窓の外で走りまわる子どもたちに注がれていた。
「自由が丘行ってきたから、シフォンケーキ買ってきてみた。食べれそうだったら食べ——」
僕の言葉は紗良の叫ぶような怒声に遮られた。
「こっちにこないで! はやくでていって!」
頭を抱えて繰り返し叫び続ける彼女の背中をさする。
「やめて! でていってってば!」
過呼吸になりかけた彼女にゆっくり息を吐いてと呼びかける。彼女が落ち着くのをひたすら待った。
やがて呼吸を荒くしながら紗良は大人しくなった。毎日これの繰り返しだった。静かになった彼女は、大抵黙りこくった。稀に僕が持ってきたものを食べたり、一言二言話したりする日もある。
典型的な高次脳機能障害の症状だと医者は言っていた。情緒の不安定さに加え、数字や文字がわからなくなったりと、日常生活の様々な場面に不便を与えた。
紗良自身が一番辛いことは理解していた。その一方で、自分以外に紗良の生活を助けてくれる人物がいない事実と、その負担の大きさは僕を苦しめた。
でも、それ以上に僕を苦しめるのは、紗良が生きることを諦めていることだった。
紗良は頻繁にアパートの屋上のフェンスを越えようとする。ベランダから身を乗り出そうとする。お菓子作りを始めたかと思えば上手くいかずに自分自身にナイフを向ける。
食べることも拒み始めている。
「もう、嫌だ……」
紗良がそう言うのを何度も聞いた。何度も、何度も。
紗良の心はもうほとんど息をしていない。
僕には彼女を救う術がなかった。
******
紗良は栄養失調で病院に運び込まれた。点滴の輸液が静かに落ちていく。沙良は目覚めた時に絶望するだろう。
まだ生きている、と。
そうして再び命を絶とうとするだろう。
君のその選択を止めることができないのなら。
君を救わせてくれないのなら。
それならばいっそ、僕に君を殺させてくれ。
完全に狂っている。そんなことはわかっている。でも、
お願いだ。他の誰でもなく、僕に君を殺させてくれないか。
鞄から包丁を取り出す。
僕は紗良の胸に、包丁を突き刺した。
******
高速で遡られていく記憶。一つ、また一つとその時を鮮やかに蘇らせ、消していく。
素敵なものでもなんでもない。それでも、重要だったに違いない。
あなたに会うために必要な一つだったに違いない。
「紗良、ごめんね。ごめんなさいね」
女の人は小さな子どもをきつく抱きしめて涙を流した。ごめんなさい。ごめんなさい。小さな子どもは女の人の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。大丈夫だよ。紗良がついてるよ!」
次の日に子どもが知ったのは、死んだ人はもう戻ってこないということ。救急車のサイレンの音があまりに悲しみを帯びていること。病院の消毒液のにおいが無慈悲であること。
小さな子どもは古い喫茶店の中に一人で座っていた。栃の木の一枚板のテーブルはそっと子どもにぬくもりを与える。子どもは母親がカウンターの向こう側からココアを持って出てくるのを待っていた。
ドアベルがカランコロンと愛らしい音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
経営難に苦しんだ喫茶店のたった一人の愛娘は、ぱっと立ち上がって笑顔で声を上げる。母はまだ帰ってこない、それまでお客さんをおもてなししてあげよう。子どもはそう考えていた。
「紗良ちゃん、おばちゃんはお客さんじゃないのよ」
子どもの姿に涙を堪えたその人は、子どもにそっと手を差し伸べた。
その喫茶店はしばらく経ってゲームセンターに変わった。
子どもがそれを見ることになったのは、もみじとイチョウが地面を染め上げる季節のことだった。
消毒液の匂いと鉄のような生々しい匂いが病室に蔓延している。閉じられた目の端から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。