Y委員会とY号計画
1951年10月31日、吉田茂内閣の直属機関としてY委員会が設置された。同委員会は海軍の再軍備に関する検討委員会であり、1952年4月までその活動をつづけた。その後海上警備隊が発足し、同委員会は海上警備隊総監部に活動の軸足を移し、さらなる再軍備や空母の再取得などに関する研究をつづけた。
1954年、海上自衛隊が発足するとY委員会は海上自衛幹部学校で活動を開始。その後、60年代前半に60年安保や安保闘争時の治安維持に関する研究に幅を広げ、防衛大学校内での研究活動が主体となり、再軍備や憲法9条の撤廃による国防軍の設置などに関する研究は活動としては小さくなっていったものの、キューバ危機など国際情勢の悪化を受け、Y委員会内に設置された桜会により細々と行われていた。
Y委員会は防衛大内で様々な研究を行っていったことからある種幹部自衛官の登竜門の様相を呈しており、秘密組織というよりはある種戦術研究部門のようなものであった。
70年代後半から80年代前半にかけてソ連のアフガニスタン侵攻により冷戦が激化すると、桜会も活動を活発化し、極秘に再軍備計画Y号、通称Y号計画を発案するに至った。本計画では一部に米軍による東京占領も念頭に置かれるなどかなり特殊な計画であり、心情的に支持されないままではあるものの、最終手段であるとして一応の検討はなされたのち、Y委員会の保管庫へ封印されたまま、現代までこっそりその存在だけは引き継がれていった。