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映画とシュルレアリスム   アド・キルー著 1969年刊行  を  読み解く  愛と反抗こそが映画のシュルレアリスムなのだ。  アド・キルーの衝撃的な映画評論

作者: 舜風人

映画は面白い。(たまに面白くないのもあるが、、、)

殆どの映画は面白い

いわゆる駄作だって、、どっかきっと数か所はキラッとしたところが必ずある。



だが?


映画について書かれた本は面白くない、

100パーセントつまらないと決まっている、

面白い映画評論なんて皆無なのだ。


なぜ?なのか?


それは活字で映画を語ろうとするからだ。



映画とは言うまでもなく映像が主体である。


音響(言語)もあるけどそれはあとからとってつけただけのもの、


「映画は映像芸術である。」


まあ、、芸術というのもおこがましいが。



映画なんて所詮は見せるもの、つまり見世物小屋の次元でしかないのだから。



どう見せるか、


面白がらせるか。


こわがらせるか


わくわくさせるか。


それだけといってしまってもいいのだ。


それが本当の映画の本質だ。(と私は思う)


movie とは  「動くもの」、、という語源である。


要するに映画なんてものは面白そうな画像がシャカシャカと動いてりゃあ。。それでいいんだよ。


まあ。見世物と同レベルだね。



さて


そうした映画なるものを


活字で語ろうったって


所詮無理、


見世物小屋の面白さをこうこうしかじかと語っても、、なんだ面白くない、というわけだ、


見世物小屋は実際に見なければその興奮・スリル・仰天はわからないのと一緒だ。



さて、ここから


映画の本を少しだけ擁護する。


私が今まで読んだ映画の本で


これは面白いと思ったものがいくつかある、


まず


「ジョルジュ・サドウールの世界映画史」


これは面白いという表現よりも、感服した。


次が


シュルレアリスムの立場から偏愛的に映画へのオマージュをささげた


アド・キルーの「映画とシュルレアリスム」1961年刊行


これは文句なしに面白かった。


というか映画への目を開かれた本だった。


映画ってこういう見方もあったんだと


目からうろこが落ちた。


私の知る限り

この二つの本以外にこれといって面白い映画の本はない、


資料とか映画史とか、名鑑とか映画事典とか、は私もたくさん持っているが、、それは


あくまで資料であって映画の評論ではない。


だって

映画評論なんてつまらないに決まってるんだ。


そんな本を高い金払って、買って読むくらいなら


さっさと実際に映画を見たほうがずっとましだろう。


でも、しいてあげれば



以下の本はどれも偏愛的に映画を語っていて相当楽しめる本だ。

多少は?面白かったといっておこうか?



「やぶにらみ世界娯楽映画史」.児玉数夫  教養文庫



「映画の快楽」   角川文庫



「お楽しみはこれからだ」  椎名誠



「カルト映画館」永井よしのり  教養文庫



私は、この「カルト映画館」は3冊持っているが


ホラー映画、SF映画、ミステリー映画、



どれも偏愛的に映画を語っていて相当楽しめる本だ。

以上の本はどれもすごい偏愛的に映画を自分目線で語っているからそれなりに楽しめる本となっている。


だがいわゆる一般的な映画評論といえば、、、


「私は公平ですよ。不偏不党ですよ」的な、、、

中立性確保??でOKというようなそんな評論ばっかり。



「お前ほんとにほれ込んだ偏愛的な映画ってないのかよ?」

と突っ込みたくなるような、、、

そんな、、、

そういう無味乾燥ないわゆる公平な??映画評論ばかりだ。

映画なんてものは、ほれ込んでこそ、なんぼ、だろ?

中立性なんていう、バカもほどほどにしていただきたい。


政治的公平性とか

学問的な

科学的な公正性、、それならば必要だろうが、、


そもそも、、映画なんて、芸術気取りもけっこうだが、、本質は、、ただの見世物じゃないか?

そんな物、、好きか、、嫌いか、、そのどっちしかないんだよ、

それが映画の本質なんだよ。




ところで、、、


映画の本質。映画史、映画理論、映像論、シナリオ論、エイゼンシュテイン、カメラ万年筆派、

ニューシネマ、ネオリアリスモ、ヌーベルバーグ、ドイツ表現主義、


それらを論じた本は世の中には山ほどある、


しかし、それらの映画(実作品)は今見てもそれなりに面白いが

それらを評論した本は、全く面白くないのが現実である。


ヌーベルバーグの映画は今見てもかなり?面白いが、ヌーベルバーグ論の本は全くと言ってほど面白くはない。


それは「言葉で映像を語れない」というもどかしさを脱しきれないからなのだろうか?

それともそもそも「映画を活字で解析」しようなんて無理だったのだろうか?


わたしもおよそ映画の本は、数え切れないくらい今まで読んできたが、

読んで「映画の楽しみ」がわかったという本には、先ほど挙げたような

5本の指以下しか出合ったことがない。


映画のエスプリというか、映画魂?というか、映画愛?そういうものがわかっていてしかも映画評論家で

ありうるという二律背反が難しすぎるということであろうか?

自称?映画評論家気取りの?無味乾燥なただ事項の羅列だけの映画評論ばっかりだ。


さて今までそうした難問である、二律背反をクリアしえたと、わたしが思う本がいくつかある。


まさに稀有な類まれな本

私が勝手に名付けた【映画王国の守護霊?)そんな本である。



まずこれは純粋に学術的な本であるが

サドウールの「世界映画史」である。


これでわたしは映画なるものの深みと、歴史を知ったというまさにわたしのバイブルだった。

当時、今から50年前、もちろんDVDやビデオあるわけでなし、ネット映画があるはずもなく

これ(サドウールの本)だけが世界の映画の全貌を知りうる唯一の本だったのである。


わたしはその収載された、スチール写真に「神を見た」?ものである。


マリー・ダンカンがおぼれた青年を裸身でくるんで暖める伝説の名シーン。

フランク・ボーゼイジ監督の「河」


いじらしいリリアン・ギッシュが唇に人差し指を当てるシーン、

「東への道」ウエイダウン・トウ・イースト


そんなスチール写真に飽かず眺めいって、、、

「この映画を全部見られたらなあ。」

ただ、空想するしかなかった時代である。


実作を見る方法が皆無なのである。


今ネット動画サイトで簡単にこういう古典名画がいともたやすく見られるなんて

正にドリームなのだ。

そう

今という時代は

夢のような時代なのである。


さて、、、、、50年前に帰りますが。。。

そうしてサドウールの映画史を夜ごと昼ごと耽読した少年は

ある日ふと立ち寄った田舎街に一軒しかない本屋で


痩せ枯れた吸血鬼が断末魔のスチール写真の上巻と(吸血鬼ノスフェラチュ)

女が大理石像の足指に口づけするスチール写真の下巻の(黄金時代、ブニュエル監督)

そんな表紙の変な?映画の2冊本を目にする。

それがなにあろう、


第2のショック、



アド・キルーの「映画とシュルレアリスム」美術出版社刊、((注)1)という本との出会いだった。

これはまさにショックだった、


映画とはこう見るものなのか、

映画ってこういう驚異と反抗と狂気の愛の吐露だったのか

こんなカルトな映画の世界があったのか。


わたしはなけなしのこずかいをはたいて買い、家に帰ると取り付かれたように読みふけった。


そしてそこで、

「ピーターイベットソン」を知り、邦題「永遠に愛せよ」ヘンリーハサウエイ監督

という狂気の愛の神髄を知り


「黄金時代」という狂気の愛を知り、ルイスブニュエル監督


「マスクの後ろの顔」(日本未公開)という仮面の男を知り、ピーター・ローレ主演

the face bihind the mask



「ジャネットエームズの犯罪」(日本未公開)というニューロサスペンスを知り、

the guilt of janet ames


「吸血鬼ノスフェラチュ」という究極の恐怖のシンフォニーを知り、


日本人探偵「ミスター・モト」(日本未公開)という異次元のデテクティヴ(探偵)を知り、

ピーター・ローレ主演。

            


最新のSF映画も面食らってしまうほどのファンタジーの神髄のG・メリエスの真の偉大さを知り、


ドイツ表現主義映画という狂気と破たんと異界とを知り


フリッツ・ラング監督という映画の革命児をを知り、


「ザロッフ伯爵の狩猟」最も危険なゲーム 邦題(猟奇島)という人間狩り映画の元祖を知り


トッド・ブラウニング監督というまさに異端の映画監督を知り、


ハリー・ラングドンの永遠の無邪気な天使の夢想を知り


ルイーズ・ブルックス、愛称「ルル」のスレンダーな美しさを知り 、、、、


そしてすべての時代を通じての映画の真の偉大さを知ったのだった。



、、といってももちろん、当時これらの映画を実見することなど不可能でした。

50年前、、DVDもない、。ビデオもない、ユーチューブもない

これらの映画を見ることなどまったく不可能だったのです。


ところが今ならググれば、なんと動画サイトで、実見することも可能なんですよね。

正にドリームです。こんな時代が来るなんて当時思いもしなかったです。



さて、、、この本は聖書に次いで、、わたしの第2のバイブルとなったのだった。

そしてもちろん、今でも映画のバイブルである。


私の持ってるのは「映画とシュルレアリスム」1968年の美術出版社の2冊本ですが、


1997年フィルムアート社から1冊本で改訳出版されました。


タイトルが


「映画 (の)シュルレアリスム」


と変わりました。


その、改訳版の紹介文がまた、良いですね?以下引用


『「愛」と「反抗」の映画1000本を舌鋒するどく、縦横無尽に語り尽くす神話的名著、30年ぶりに改訳・新装刊。』引用終わり


神話的名著?


そうです、まさにそのとおりですよ。この本は。


結局わたしにとって映画の本でわたしに目を開かせてくれたのは以上の、この二つの本しかないと言って良いだろう。




ああ。もうひとつあった。

最近出された本だが、(と言っても平成2年であるが)


角川文庫の「映画の快楽」ジャンル別洋画ベスト700である。


これは面白い、

今でも時々出して愛読している本である。

この本は題名のとおりガイドブックであるが


その辺の凡百の映画ガイドではない、

個性豊かな執筆者たちが独断と偏見で選んだカルトでコアな映画ばかりだからだ。


この本を読むと映画が見たくてうずうずしてくること請け合いである。


反対に毒にも薬にもならないような当たり障りのない映画ばかり集めて、さあどう?というような

「名画100選」だとか、そんなガイドブックならうんざりしてしまうだけなのである。

最近の映画のガイドブックというとそんな本ばかりですよね?


でもこの本は違いますよ


「映画の快楽」(ジャンル別洋画ベスト700)角川文庫。


これは目からうろこを請合いです。

残念ながら絶版ですが、





さて


前置きやら

横道やらに

ながながと

それてしまったが、、、


この「映画とシュルレアリスム」という本は

シュルレアリスムの観点から、映画評論を展開したものである。

私はこの本で映画という、玉手箱の魅力を知らしめられたといってよい。

映画評論に星の数ほどあれど、この本以上のものはありえない。

メリエスがこんなに、脅威に満ちていて、いまだ鑑賞に耐えうるとは。

いや、そんなものじゃない、最新のSFX,CG映画よりも格段に驚異に満ちているかを私は思いい知らされたのだ。

さらにはいわゆるB級映画にもなんと素晴らしいショットがあるかを。

批評家に無視された、映画の中に、こんな素晴らしい愛を夢を語っていたものがあったことをこの本で初めて知ったわけだ。

私にとって目からうろこが落ちた映画評論の本ではあった。


映画史に乗っている映画だけが映画じゃないこと。

いやむしろ、ご大層な映画史の本が無視しているような映画にこそ真に映画スピリットを体現している映画があるってことを教えてくれた私のバイブルである。


驚異、夢、幽霊、愛、エロス、冒険、怪物、そこには映画の驚異がある。


ダグラス・フェアバンクスの冒険のだいご味

 

ポーリンの活劇  パール・ホワイトの大活躍


フーディーニの魔術の驚異


ミスター・モト 日本人密偵の渋い魅力と違和感


フーマンチュー、悪の帝王の暗躍


「ジュデックス」の驚異と 「怪盗ジゴマ」の英姿。


メトロポリスはいまだにSF映画の金字塔。これを超えるSF映画はない。


「カリガリ博士」が幾何模様の回廊を今もさまよう、、。


「プラーグの大学生」は自分の影を撃ち抜く


「巨人ゴーレム」は愛の成就のため今夜再生するのだ。



「T博士の5000の指」(未公開) 5000の指で弾くピアノとは?


「キングコング」はフェイ・レイへの愛のために自ら滅びるのだ。


「透明人間」のオドロキ。


「縮む人間」の矮小と孤独


ミイラ ドラキュラ フランケンシュタイン  ホラー映画の三人衆


「ハエ男の恐怖」 「モロー博士の島」  マッドドクターは今夜もまた怪実験に励むのだ。



「顔のない眼」ジョルジュ・フランジュ監督の詩的恐怖映画の世界 白いハトと白い仮面


「来るべき世界」1939年イギリス映画


 「フラッシュゴードン」 自由奔放な空想科学の世界


エディカンター バスターキートン wcフィールズ マルクス兄弟 ハリーランドン

コメデイ映画はこんなに自由で奇想天外だった。


ピーター・イベットソン(邦題。永遠に愛せよ)

、ジェニーの肖像、

夜のマルグリット (未公開)

永遠の愛。狂鬼の愛は時空を超えても成就されねばならない。



マレーネ・ディートリッヒ

グレタ・ガルボ

メイ・ウエスト、

ルイーズ・ブルックス、

キム・ノヴァク 

妖艶なる蠱惑の、、 魅惑の美女サイレンたち



尼僧ヨアンナ、天はアリソン氏を知りたもう。(邦題、白い砂)

神への愛と恋愛の相克尼僧は破滅と神の愛に引き裂かれる。



ミケランジェロアントニオーニの愛の不毛と孤独の世界


そして、ルイス・ブニュエルの世界 アンダルシアの犬、黄金時代の愛。


映画の驚異と可能性、不条理、反抗、そして愛、


私はこの本で衝撃的にそれらを教えられた。



(注)上記の映画たちは、ググれば動画が見られる場合もありますのでググってみてくださいませ。



結局この衝撃的な映画評論について私があれこれと述べ立ててみても所詮は

蟷螂の斧でしかないのであり


実際にあなたに読んでもらうしかこの衝撃は伝わらないのである。


というわけで。。私の駄弁?はもう終わりにして


最後に目次だけでも転載しておいて


本日はこれまでとしたい。ぜひ実読くださいませ。



「映画とシュルレアリスム」上下2冊本  美術出版社1969年


注1

「映画のシュルレアリスム」1997年 フィルムアート社から1巻本として再刊されています。











目次


はじめに

第一章「真実の生」への入口

わかりきっているが欠くことのできない説明

顕在的内容―潜在的内容

「消えた最後の聖油入れ」

可能性と失効

にもかかわらず

第二章 結晶体の面

テクニックとフォルム

客観的であるべきか?

印象主義から抽象へ

動画と動画的音響の領域で

無限小と濡れたやわらかい世界

第三章 他の場所マイユール

ドキュメンタリー―短編映画

エキゾティシズムからポエジーへ

「他の場所」とは、またここのことだ

ルイ・ブイヤード

連続映画と冒険活劇

第四章 不可能

幻想―驚異

ジョルジュ・メリエス

メリエスから表現主義へ

幽霊と夢

怪物と恐怖

驚異は大衆的だ

なぜ、いけないか?

描かれた存在

第五章 愛

映画の女

ジョセフ・フォン・スタンバーグとマレーネ神話

エロティシズム

恋愛映画

第六章 反抗

伝統的道徳と訣別するために

革命-偉大なロシア映画

ポーランド

絶対的反抗の詩人たち

戦後の不安

二人の反抗的笑いの天才

第七章 シュルレアリスムの周辺で

未来派とダダ

ダダからシュルレアリスムへ

シユルレアリストたちと映画

並行して

新しい感受性のほうへ

第八章 ルイス・ブニュエル

アンダルシアの犬

黄金時代

糧なき土地ロス・ウルデス

忘れられた人々

昇天峠

メキシコ映画

フランス映画

偉大な平静さ

ビリディアナ

皆殺しの天使

一 革命

二 無神論

三 愛 

四 ユーモア、シュルレアリスム

ルイス・ブニュエル、あるいは「一切は絶対的に実現(演出)可能だ」

第九章 映画的スペクタクルの彼方に

映画と私

幻の映画と崇高な映画

シュルレアリスム的批評

シュルレアリスム的実験

明日


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