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うぐいす駅にて  作者: ロブチカコ
6/48

5

「おーい、鳥羽、聞いてんのかよ」


 はっと我に返る。

 

 聴覚が戻れば、薄暗い店内は、がやがやと騒がしかった。目の前にある飲みかけのレモンチューハイのグラスは、びっしりと汗をかいている。

 

「目開けながら寝てただろ」


 きょうは金曜ということもあって、鳥羽の所属する営業チームが、普段世話になっている事務メンバーを呼んで、懇親会が開かれているのだった。最近大きな契約が立て続けに二つ取れた、その祝いの場でもあった。鳥羽は、その契約にはまったく関わっていないけれど。

 

「寝てませんよ。聞いてますよ」


 おざなりに応える。嘘だったが、先輩であるウッチーさんの『オレのすべらない失敗談』は、すでに耳にタコができるほど聞かされている。もはや聞いているのと同等だ。

 

「それでな、その時あっちの部長さんが――」

 再び話し始めたウッチーさんに、オチを知りつつも、周囲の後輩と一緒にうんうんと頷く――動作だけをしながら、鳥羽は心はまた、今朝の満員電車に戻っていった。

 

 あの、Hの顔。Tに守られながら見せた、苦しく、切なそうな、あの表情。

 あいつ――、ほんまに、好きなんやろうか。

 

 仲の良すぎるふたりを見ながら、もしかして、と思ったり、いやまさか、と否定したりを繰り返していたけれど。……あんな顔を見せられて、そんなわけはないとは、もう言えない。

 観察している内に情でも湧いてきたのか、男同士で気持ち悪い、とまでは思わない。だが、だからと言って、特に応援する気にもなれない。

 

 やめておけばいいのに、と思ってしまう。

 

 思春期にありがちな、同性に恋愛感情じみたものを抱く、あれじゃないのか。Hに、早まるな、と言いたくなる。Tも、どういうつもりであんなふうにHに絡んでいるのか知らないが、いい加減にしたほうがいい。

 若いのだから。いま気持ちが盛り上がっているとしても、もう少し待てば、女の子を好きになれるのかもしれないのだから。

 

 ……なんて。

 鳥羽はひとり、ふっと噴き出した。なぜ赤の他人の高校生のことを心配しているんだ、自分は。

 

「おい、なに笑ってんだよ。また聞いてなかっただろ」

「聞いてましたよ。ちょっと、トイレ」


 ウッチーさんの文句を背に、鳥羽は手洗いに向かった。

 ひとりになって、ほっと息をつく。HとTのことを真剣に考えるのはもうやめよう、と自分に言い聞かせた。最初のスタンスに戻るのだ。好奇心、ただそれだけだっただろう。思い出すんだ、男同士なんて気持ち悪いはずだ。……うん、これはやはり言い過ぎだけど、そういう人は、鳥羽の人生には関係のない人々であるのに変わりはないのだから。

 

 また月曜の朝、HとTを見かけるかもしれないけれど、いままでどおりに、面白おかしく観察してやればいい。……もし心がざわついてしまったら、乗る車両を変えたらいいだけの話だ。

 

「そうだ、そうだ」

 便器を叩く水音に紛れて、鳥羽はひとりおどけながら、高い声で呟いた。

 

 するとそこへ、すでに顔を真っ赤にした営業部長が入ってきた。

「お疲れ様です」

「おーす」

 小便器が二つしかないので、自然に鳥羽の横に並んで用を足しはじめた。

 

「おまえ、彼女いるのか」


 あやうく、便器から狙いを外しかけた。

 彼女どころか、数か月前にいろいろあって引っ越しまでしたとは、口が裂けても言えない。

 

「いまは、いません」


 言ってから、いまは、と付けたことを恥ずかしく思った。そんな、いる時はちゃんといるけど、みたいな言いかた。実際には、何年も前、大学時代に半年も満たずに別れた子がいただけなのに。

 

「事務の新しい子、ふたりとも、いい子じゃないか。どっちか、好みじゃないのか」

 部長の不躾な言葉に曖昧に笑って、その場を逃れた。

 

 手洗いを出て、席に戻ろうとすると、ウッチーさんの隣はすでに別の人が座っている。空いている席を、きょろきょろと探し、見つけた、と思った直後、鳥羽は固まった。

 

 空いている席の斜め向かいには、ポニーさんが座っていた。

 

 この会には彼女も呼ばれていたのだ。ただ、互いの席がかなり遠かったので、そこまで意識はしていなかったのだが。……いやだって、意識する必要なんか、ないし。

 

 部長の「好みじゃないのか」の声が頭の中で響いた。振り払う。

 

 それから、ほんの少しの時間迷ったあと、鳥羽は元の席に自分のグラスを取りに行ってから、ポニーさんのいる方へ近づいていった。酔いが気を大きくしてくれていて、助かった。素面の鳥羽にはできない自然な態度で、空席に滑りこむ。

 

「どうもー、おじゃまします」

「あ、どうもー。かんぱーい」

 ポニーさんと、周囲の、これも程よく酔った面々と、グラスを交わす。

 

 隣の席に座っているのが、饒舌な姉御肌の営業事務リーダーだったので、思いがけず安心感のある場だった。しかも彼女は気遣いも完璧で、口数の少ない鳥羽にも話を振ってくれて、自然と溶けこめる。

 

 そうして、しばらく、ただ楽しい宴会が続いた。鳥羽はその間、斜め向かいのポニーさんを盗み見続けた。……いや、視界に自然と、ポニーさんが入っているだけだ。

 

 ただ……、吊り気味の目元が、いまは酒でほの赤く染まって、少しトロンと眠そうなのは、可愛いと言えば可愛い。ダークブラウンのポニーテールは艶やかに流れ、清潔感のある青いブラウスも、好印象であることは確かだ。

 

 見とれていることを否定しながら、鳥羽がポニーさんに見とれている……と、姉御が、鳥羽とポニーさんを指して、

「二人って、話したことある? 仕事では絡みないよね」

と聞いてきた。


「あ、前に一度」

 鳥羽の言葉にポニーさんも頷く。「駅で、私がぶつかっちゃったことがあって」

 

 姉御は、ふーん、と言って、それからなぜか鳥羽が入社する以前の社内恋愛の末に結婚したカップルの話をしたあと、「ちょっと失礼」と手洗いに立っていった。

 

 鳥羽とポニーさんは、ふたり、周囲の会話からとり残された。他の周りの人たちは、それぞれが別の会話に参加している。

 鳥羽は思わず、グラスを掴み、飲んだ。ポニーさんも、そっと梅酒を口に運んでいる。あと数秒で、この沈黙が取り返しのつかないほど気まずくなる、と鳥羽が焦ったそのとき、

 

「ここ、いいお店ですよね。私の歓迎会してもらったのも、このお店だったんですけど」

 そうポニーさんが切り出してくれて、難を逃れた。

「お酒もお料理も、すっごくおいしい」


「あ、そうですか?」鳥羽はぎこちなくと笑った。「実はここ、ぼくが新人で幹事やった時に見つけた店で」

 言ってから、いらないことを言ったかなと思う。しかしポニーさんは笑顔を向けてくれた。

「じゃあ、鳥羽さんが見つけてくださったから、ここに来るのが恒例になってるんですか」

「まあ、そういう面も、なきにしもあらず、かも?」

「ありがとうございますぅ」

「いーえいえ」


 芝居がかった調子で二人でお辞儀しあったあとは、少し、鳥羽の口も軽くなっていた。

 

「あの。あの、パン屋さん」

「え?」ポニーさんがイカの塩辛に手を伸ばしながら、顔をあげた。

「あの、好きだって言ってたパン屋さん」

「あ、はい」

「ぼく、まだ行ったことないんだけど、なにパンがおいしいですか?」


 昼休みにパンを頬張っているポニーさんを盗み見ながら、聞いてみたいなと考えていたことが、いま、役に立った。

 ポニーさんは塩辛を口に運びながら、全部おいしいけど、と前置きして、

 

「最近は、明太子系、かな」

「明太子?」


 クロワッサンだとかデニッシュだとか、おしゃれな単語が出てくると思っていた鳥羽は、少し面食らった。でも、女子は明太子好きだって聞いたことあるぞ、と持ち直す。

 

「どんなのがあるんですか」

「王道では明太フランスとか、明太マヨとか、変わり種では明太コロッケパンとか」

「ほう……」

「どれも、すっごくね、明太子がたくさん入ってるんです。あんなに入ってるの、他のお店で見たことないくらい。お酒にもあうから、たまに持って帰って、家族でお酒飲みながら食べたりするんですよ」


 へえーと聞きながら、鳥羽が気になったのは、ポニーさんは結構酒がいけるクチらしい、ということだった。自分はたくさんは飲めないが、大丈夫だろうか……。って、何の心配だ。

 

 ポニーさんのグラスの中身がほとんどなくなっていることに気づき、鳥羽は急いで自分のチューハイを飲み干し、店員を呼んだ。なんとなく、甘いものだと格好がつかない気がして、ハイボールを頼む。それからポニーさんに注文を促すと、うれしそうに笑ってくれた。

 

「じゃあ、えっと、冷酒ください」

「食べ物は? いいよ、なんでも頼んで」

「じゃあ……、モツ煮込み、どうですか?」


 あ、はい、じゃあモツ煮込みを、と反射的に注文しながら、モツ煮込みってどんな味だっけ、レバーが入ってたらいやだな、と鳥羽は思っていた。自分は、酒のつまみよりも、甘いもののほうが好きだ。

 だが、杞憂だった。運ばれてきたモツ煮込みをおそるおそるつついてみると、存外旨かった。

 

 しかしそれ以上に、肴をポニーさんとふたりでつついている時間は楽しかった。他愛のない話をしながら、モツをぱくりとやって、酒をくいっと飲んで、満足げな笑顔を彼女が見せてくれる。それだけで、鳥羽は腹も胸もいっぱいになった。

 

 ……いやいや、胸がいっぱいって。女性が笑ってくれただけでそんな反応とか、単純か。

 ああ、でも。

 

「ういーっす。あ、また鳥羽か」


 グラス片手にやって来たのは、ウッチーさんだった。ポニーさんとグラスを合わせて、空いている鳥羽の隣に座る。鳥羽は自分でも気づかぬうちに、ため息をついていた。

 

 そして案の定、ウッチーさんの失敗談という名の武勇伝が始まる。しかもまた、鳥羽が聞いたことのある話だ。この人は悪い人ではないけれど、後輩には成功談よりも失敗談を話したほうが慕われる、という上司からのアドバイスを、忠実に、忠実に守り過ぎなのだ。

 

「鳥羽も、この前、やらかしてたよな」


 退屈でぼんやりとしていたところへ、突然矛先を向けられた。どうやら知らぬ間に先輩の武勇伝は一区切りついていたらしい。

 なんのことかと、ぽかんとしていると、先輩はにやにやと話しはじめた。

 

「一緒に出張したときに、こいつと土産物屋入ったんだけど、新幹線の時間が迫ってたんだよ。慌ててお土産買って、小走りで店出ようとしたら、こいつ、店のガラス張ってある部分に気づかなくて、そこに突撃して、ばいーんって、めっちゃ跳ね返されてさ」


 いつの間にか会話に混ざっていた周囲の人々から、笑いが起きる。

 

「大丈夫かって起こして、また走り出したんだけど、後ろから『あっあっ』って声が聞こえてきて、なんだと思って振り返ったら、こいつ、鼻血出して血まみれになってたの」


 周りの笑いのなかで、鳥羽も苦笑いをするしかなかった。鳥羽自身、この話は笑いをとるために友人たちに自分から話したこともあったが、ポニーさんに聞かれるのは、さすがに恥ずかしい。

 

 しかしその直後、鳥羽は固まった。

 確かに聞こえたのだ。笑い声に混じって、ポニーさんが、

 

「えー、可愛いー」


と、言ったのを。

 鳥羽は、ハイボールを一気に煽り、むせた。

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