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それが――、雨のよく降った、今朝のことだった。
梅雨も終盤に差し掛かり、じっとりと湿った空気が地面や壁のいたるところまで染みこんだ朝だった。
角をまがって駅が見えたときにはもう、いつもより人が多く、駅にたかっているような様子で、いやな予感がした。近づくと、案の定、ひっきりなしにアナウンスが流れている。人身事故発生のため――、ただいま、運転を――
これからどれくらい、この状態が続くのか。別の路線の駅まで歩くか、それともタクシーを拾うか……。いや、さいわい、きょうの午前はアポは入っていないから、タクシーを使ってまで出勤はしなくていいだろう。じゃあ、待つか、それとも歩くか……。
「うおー、まじか」
背後で、声がした。Tの声だった。続いて、
「えー、どうすんの、これ」
Hの声。真後ろに、二人がいるのだ。
鳥羽は思わず、自身のことではなく、二人の会話に集中してしまった。
HとTは、鳥羽と同じく、歩くか待つかで少しは議論したものの、すぐに、歩くのは面倒ということで待つ体勢に入ったようだった。
しばらく、沈黙があった。辟易しきっているのだろう、と思いきや、
「このまま、電車来なかったらいいのに……」
Hが、ぼそりと言うのが聞こえた。
Tが聞き返す。「なに? なんて?」
「え? 電車、来なくていいって。一時間目、世界史だから、さぼれてちょうどいいし」
「ああ、そういう……、なんだ……」
「おまえは? 一時間目、なに?」
Hが、あくび混じりに聞き返す。
「おれ? 体育」
あれ、という顔を、HがTに向ける気配がする。「体育、いつも楽しみにしてるじゃん」
「いや、たまにはね、こんなハプニングも悪くないな、と」
鳥羽は、体育はどちらかと言えば苦手だった。運動も得意とは言えなかったが、普段交流のない生徒とチームを組まされたりするのが、いちばんいやだった。なまじ、背が高いほうだったから、戦力になるのを期待されるのも苦痛だった。同じ垂れ目でも、Tと自分では、こんなところも違う……。
とりあえず、その会話を聞いた鳥羽は、結局ふたりは三年生になったときのクラス替えで、別々のクラスになってしまったんだなと、またどうでもいいことを知ってしまった。
「なあ……、うぐいすドーナツで、時間つぶさない?」
Tが言った。うぐいすドーナツというのは、駅前のロータリー内にある、前面がすべてガラス張りのおしゃれなドーナツショップである。おしゃれすぎて、店内にいるのが女子だらけすぎて、鳥羽は入ったことがない。
「え……、でも、店にいる間に電車動いたら、どうすんの」
「スマホでチェックしとけば大丈夫だって。遅くなっても、人いっぱいで乗れませんでしたーって言えばいいし」
「まあ、そうか」
「な、行こ! やったー、朝の学生デートって感じじゃね?」
「……なに言ってんの」
しかし、ふたりがいざその場を離れようとしたとき、アナウンスの内容が変わった。
『安全確認が終了しましたので、ただいまより、運転を再開いたします』
「えー、なんなんだよー……」
Tの明るいバカづらが、途端に垂れ下がるのが見えるようだった。
それから五分ほど待って、電車はやってきた。乗りこむときにHとTを見失い、そこからさらに五分待たされて、ようやく発車する。会社に間にあうか微妙なところだが、不覚にもHとTの会話に気をとられて、電話をしそびれていた。仕方なく、メールを打った。
ひと駅止まるごとに、普段より多い乗客が、さらに増えていく。ぎゅうぎゅうと、太ったおっさんの尻に押される。誰かの傘にスーツを濡らされるが、避けようがない。梅雨の湿った空気が、乗客の体温に蒸されて、このうえなく不快にまとわりついた。
乗り換えの多い駅で、半数ほど降りたと思ったら、それよりも多い人数が乗りこんできて、鳥羽は、奥のドアに額を押しつけるかたちになった。
汚いガラスに顔がつくのはいやだ。鳥羽は精いっぱい、ドアの窓から顔をはなしながら、不自然に首をねじまげる。
このとき、鳥羽は得意の、不幸な偶然を拾うという所業をやってしまった。首をまげて顔を向けた先、鳥羽の隣に、同じドアに背を押しつけているHと、その前に、ドア横の手すりをつかんで立っているTがいた。
ここまで間近でふたりを見るのは初めてだった。いままでの盗み見、盗み聞きはばれていないはずだったが、後ろめたさに逃げたくなる。しかし、身動きすらろくにできない。
「大丈夫?」
押されてよろめいたTに、Hが声をかけた。
「大丈夫。……だけど、ちょっと、傘持って」
HがTの傘を受けとる。鞄は足もとで、二人の足で挟み込むようにして積んである。
傘を渡して空いた手を、TはHの頭の横についた。
ちょうど、Tの腕と体で囲まれるかたちになったHは、動揺して見えた。隣で、鳥羽も動揺していた。それは、その体勢は、なんだかとても気まずいやつだぞ。いわゆる、壁ドン的な……。
電車が動きだす。すし詰めの人の塊が、一同に揺れ動く。鳥羽が呻きを堪えたのと同時に、Hの両脇についたTの腕に、力がはいったのが見てとれた。
Hは、目の前にあるTの肩を見つめ、胸に二本の傘を抱えたまま、かたまっていた。瞬きだけをしきりに繰り返し、息をひそめているのが、鳥羽にもわかる。
Tは腕を突っ張ったまま、いつになく神妙な顔で、窓の外のほの明るい灰色の景色を見ていた。電車が揺れるたびに、半袖の腕に筋肉が盛りあがった。
ふたりの体と体、そのわずかな隙間に、湿った熱がうまれていた。梅雨の蒸し暑さのせいではない、乗客たちの体温のせいでもない、その異質な熱を、Hの横顔は明らかに意識していた。電車の揺れで、幾度も、TのシャツがHの唇にふれかけた。
盗み見していることに気づかれてはいけないと思っているのに、鳥羽はちらちらと、何度もふたりを見ずにはいられなかった。Tの腕に阻まれながら、見え隠れするHの目が、伏せられる。せわしなく瞬く。
そして、苦しそうに、閉じられた。
「うぐいすドーナツさ、また、行こうよ」
「え?」ふいに降ってきたTの声に、Hはかすれた声を出した。
「あそこのドーナツ、おまえ好きじゃん」
「ああ、うん」
「それ食って、映画とか、買い物とか、行こう」
「うん」
「あと、カラオケ」
「……うん」
ぼそぼそと、小さく話すTの声は、いつもより低い。
囁きの会話は、断続的に続いた。それを聞きながら、鳥羽はすでに視線をはずし、窓の外を流れていく雨の街に目を向けていた。
これ以上は見てはいけない、と思った。
幸運にも、その次の駅で乗客は少し減った。鳥羽は人を押しのけて、HとTの姿も見えない、声も聞こえない位置まで移動した。




