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別に期待などしていない。
あれ以来、鳥羽は、あのぶつかってきた派遣社員の女性――ここでは便宜上、ポニーさんと呼ぶことにする。彼女のヘアスタイルは、いつもポニーテールだったので――と、同じ車両に乗り合わせることはなかった。どうやら、真面目なことに、普段は随分と早く出勤しているらしく、あの日がたまたま遅かっただけらしい。
それを知っても、ふーん、と思うだけだ。期待なんかしていないのだから。一緒に通勤したいなんて、思っているわけもないし。
だから、別に、ポニーさんのことはどうでもいいのだ。
問題は……、あの、やたらといちゃついていた、男子高校生二人組である。
彼らはポニーさんと違って、あの日以降、ほぼ毎朝、鳥羽と同じ電車、同じ車両に乗りこんできているのである。
しかも、鳥羽が自然体で電車を待ち、乗ると、結構な確率で彼らの近くに立ったり座ったりすることが、やたらと多い。
最初は、うわあ、またこいつらか、と思っていた。だが数日経つと、鳥羽はそれを利用して……、彼らを観察し出していた。
面白半分だった。怖いもの見たさというやつでもある。男同士で過度にじゃれあうのを、気分の良いものではないと思いつつも、視界の端で追ってしまうのだ。
弁解しておくと、追いかけたり、後をつけてまで、彼らを見ていたわけではない。朦朧と気分の悪い朝を紛らす、ちょっとしたスパイスとして、観察対象にしていただけだった。
しかし、観察という名目で、会話を盗み聞きしているうちに、彼らの名前を知ることになったのもまた、事実である。名前と言っても、あだ名のような、彼らが互いに呼ぶ呼び名だ。ここでは便宜上、背の低いほうを『H』、高いほうを『T』としておく。
彼らのやりとりを見ていて、鳥羽はにやっと笑ってしまうようなこともあれば、眉をしかめるような嫌悪感をもつこともあった。そして、理解を超えた行動に、しばし呆然となることも、あった。
鳥羽は、それを求めていた、とも言える。最初に、ふたりの抱きあう姿を見たときのような、唖然とする、もしくは悪態をつきたくなるほどの、衝撃とも言える刺激がほしくて、彼らを観察しているようなものだったのだから。
そして、ふたりを初めて見た日からこの二ヶ月弱の間、彼らは、何度か鳥羽の求めるその衝撃を与えてくれた。鳥羽のまぶたを痙攣させたそれらの出来事のなかから、いくつかを挙げてみる。
まずひとつめは、彼らを初めて目撃してから、一週間ほど経ったある日の出来事である。Tがスマホを操作しながら、
「いい曲見つけたんだ。聴いてみて」
と言って、Hにイヤホンを手渡した。そしてしばらく、音楽に集中するHの横顔をおとなしく眺めていた。
だが、なにを思ったのか、Tはふいに手を伸ばし、Tから見て反対側にある、遠いほうのHの耳から、片方のイヤホンを抜きとった。
Tはそのイヤホンを自分の耳にはめ、Hが睨むのも構わずに、音楽にあわせて首を振っていたが、Hがフイと顔を背けると、再びイヤホンを外し、手探りでHの耳に戻そうとした。
「やめろ」
HはTの手を払いのけたが、Tは諦めずに、Hの体を抱きこむようにしながら、彼の耳を狙った。攻防は、しばらく続いた。Hはくすぐったさに笑いそうになりながら、Tの手からついにイヤホンをたたき落とした。
鳥羽はというと、そのとき、ふたりの前の座席に座っていた。そして突如としてはじまった、普通のカップルでも人前でやらないようなやりとりに当てられて、固まっていた。地蔵となった鳥羽の前を、Tの手から落ちたイヤホンがスイングした。
また、春の日差しが暑いほどだったある日も、彼らは攻防戦を繰り広げていた。ホームで電車を待っているとき、なにを思ったか、突然TがHの頭を、子どもにやるように、ぽんぽんと撫でた。Hが仰け反ってよけようとするが、Tの手が追いかける。それで、TがHの頭を狙う、Hが振り払う、のやりあいになった。
「おまえ、なにがしたいんだよ」
Hが抗議すると、Tは唇をとがらせた。
「だって、家で兄ちゃんにやられてたじゃん。おとなしく」
「なにが?」
「これ」
そう言って、TはHの頭を撫でた。直後、はっと気づいたHに払いのけられて、まるで映像がループするように、また攻防戦がはじまった。
「おい、やめ」
言いかけたHの語尾が、Tの体に飲みこまれた。TがHの首筋に鼻をうずめたところで、鳥羽は目を逸らした。
また、ある涼しい初夏の日、彼らは喧嘩をしていた。鳥羽が駅に着いたとき、ふたりはすでにホームで電車を待っていた。ひと目で、おかしいとわかる空気をまとっていた。
前を向いて微動だにしないHの顔を、なんとも言えない悲しげな目で、Tが覗きこんでいる。
Tは、Hのシャツや鞄を引っ張りながら、
「なあ、ごめんって」と言った。
哀れな犬のようにHの周りをうろうろしながら、「ごめん」「機嫌なおして」を連呼する。しかし、Hは無視を続ける。
なにがあったんだろう、と、他人事なのにやきもきしながら横目で見守る鳥羽の視線の先で、Hの右側と左側を行き来していたTだったが、突然、
「あ、鳥肌」
と、Hの二の腕を見て言った。
六月に入ってから、彼らはブレザーを脱いで、半袖のカッターシャツに衣替えしていた。Hはその上にニットのベストを着ていたが、肉の少なそうな彼には、今日のような涼しい日は寒いのかもしれない。
TはHの二の腕をさすった。しかし、振り払われる。
Tはそれで、すっかりしょげてしまったらしく、半歩後ろに下がっておとなしくなった。スマホをとりだして、いじり始めた。
するとそこで、Hがちらりと斜め後ろのTを振り返ったのを、鳥羽は見逃さなかった。明らかに、Tがなにも言ってこなくなったのを気にしていた。
Tがスマホに気をとられていることに気づいたHは、急に、Tの脇腹をこぶしで殴った。
「なんか、おごれ」
驚いた顔で、殴られた脇腹をおさえていたTだったが、やがて、許しが出たのだと悟ったらしかった。みるみる、顔が締まりなく緩んだ。
喧嘩の原因は、鳥羽にはわからない。が、きっとくだらないことに違いない。また変なものを見せられた、はらはらして損をしたと、鳥羽は目をうつろにさせた。
このほか、小さなものも含めれば、ふたりの戯れは数えきれないほどあった。たいてい、Tがちょっかいをかけて、Hが嫌がる、という構図だった。ただ、そのHも、ほんとうには嫌がっていないと思われる節があった。
彼らの関係を、鳥羽が疑っていなかったと言えば、嘘になる。いや、きっと、最初にふたりを見たあのときから、もしかして、という思いは頭をかすめていたのだ。
興味を持つようなことじゃない、と自分に言い聞かせても、やはり、駅で彼らの姿を見かけると、目で追わずにいられなかったのは、彼らの言動に刺激を求めると同時に、もしかしたら、という疑いに、決定的な証拠を見つけたいという、探偵ごっこをするような気持ちもあったかもしれない。事実が、どっちに転ぶとしても。
そうは言っても、やはり、男同士で好きあうなどというのは、どこか、現実という地面から浮いたような、頼りない話だと思っていた。仲がよくて、ちょっとばかりスキンシップが多い。同性間でも、独占欲や嫉妬はあるし、思春期なら、なおさらだ。そんな友人関係は、いくらでもあるじゃないか。
疑いながらも、自分が想像するような関係性、つまり恋愛感情は、ふたりの間にはほぼ『ない』と、そう思っていた。そのとおりであれば、ふたりの関係は羨ましかった。自分の数少ない友人たちを思い浮かべてみても、どの顔とも、HとTのようにふざけあったことはない。
刺激と、嫌悪感と、微笑ましさと羨望、そして少しの疑惑。さまざまな感情とともに、鳥羽はふたりを見ていた。
しかし――、その少しだったはずの疑惑が、膨れあがる出来事があった。




