38
「え……」
思いがけない言葉に、鳥羽の頭は一瞬真っ白になった。
「見られたって……」
「ヤろうとしてるところだよ。まあまだ脱いでもなかったけど」
これはもしかして……、Tが失敗談として語った、あの時のことか?
「……それで、どうしたの」
「おばちゃんに覗き見されてることに気づいたのはおれだけだったし、おばちゃんはおれと目が合ってすぐどっか行ったし、別に、どうもしなかった。ただヤらずにすぐ帰っただけ。あいつに話すのも、なんか面倒くさかったし」
鳥羽は言葉を失った。楽しく聞いた失敗談の裏で、まさか、そんなことが。
Hは面倒くさかったからと口では言っているが、Tに話さずにその場を去ったのは、よほどパニックに陥っていたからだろう。
黙っている鳥羽をよそに、Hは淡々と話し続ける。
「そんでさ、おれ兄ちゃんと姉ちゃんがいるんだけど、兄ちゃんはおれが男と付き合ってること知らなくて、姉ちゃんは知ってるのよ。で、おばちゃんに見られたってことで落ち込んでたら、姉ちゃんが気づいて、話聞いてくれて。でもそれを兄ちゃんに聞かれちゃってたみたいでさあ」
鳥羽は再び、はっとする。兄ちゃんというのは、あの時、うぐいすドーナツに乗り込んできてTに凄んでいた……。
「兄ちゃん、おれがあいつに会いに行くところ見計らって、後つけてきたんだよ。そんで、待ち合わせしてた店――、うぐいすドーナツって知ってる? あのうぐいす駅前にあるドーナツ屋。そう、あそこ。あそこにまで乗り込んできてさ、おまえらのこと認めないとかなんとか言い出して」
やはり、鳥羽が修羅場に巻き込まれるところをすんでで回避した、あの時のことだ。
つくづく、回避できてよかった。Hの兄にまで顔を覚えられたら、もううぐいすには住んでいられなかったかもしれない。
まったく、運がいいのか、悪いのか。……いや、基本的には悪いのだけれど。
「その時に兄ちゃん、あいつに、おばちゃんに見られたってこと暴露しやがってさあ。めっちゃムカつかない?」
鳥羽は曖昧に頷きつつ、顔を引きつらせる。鳥羽が逃げたあのあとに、そんな、さらなる修羅が……。
「そういうわけで、あれからろくに兄ちゃんと話してないんだよね。姉ちゃんは気遣ってくれるけど、それもなんか鬱陶しいし、親もなんか、何かが起こってることだけは気づいてて、様子窺ってくる感じがうざいし」
Hはそこで、大きく息をついた。
「だから、なんかもう、遠く行きたいなーって」
そして、鳥羽を見てから少し笑う。
「そう思ってたところに、おにいさんと出くわした、というわけでした」
今度は鳥羽が、ため息をつく。なるほど、そういうわけで、今、こんなことになっているのか。
まったく、本当に……、何という運の悪さだろう。
「あいつと、連絡はとってるのか」
「えー……、一回、話し合いたいってライン来たけど、スルーした」
「いや、話し合えよ」
「だって向こう受験勉強中だし。それに、なに話し合うの? おばちゃんの記憶消す方法?」
「そうじゃなくて、どうやって親を説得するかとか」
「めんど」
「でも話し合わないと――」
「うるさいなあ!」
また、タオルが飛んできた。続いて、黒い布も。
Hのパンツだった。鳥羽は悲鳴を上げて、パンツを投げ返した。
「なんだよ、汚いものみたいに」
「いや、汚いだろ!」
Hは鳥羽を睨み、パンツを椅子の背にかけ直しながら、いいんだよ、と呟いた。
「もう、いいんだよ。別れるから」
「でも……」
「いやいや」Hは手を振って、笑う。「別れるしかないって。親に見られてたって兄ちゃんに聞かされた時、あいつ、どんな顔してたと思う? もう固まっちゃってさ、なーんも言わないの。それにさ、覗き見された時、おれすげえ怖かったんだから。ドアの隙間に、目だよ? ホラーかよ、って」
前にあいつとやったホラーゲームで、そんなシーンあったわ、とHは笑った。
「まあ、あれがいわゆる、世間の目ってやつなわけじゃん。おれ、このままだと、あんな目で見られながら生きるんだなって。きっついなーって。それにもし、自分の親に、あんな目で見られたらって思ったら、もう」
Hは、震えあがる仕草をした。顔は笑っている。
「あいつが、ドアに背中向けてて良かった」
それきり黙った。
黙ったまま、Hの足が、もぞもぞと動いた。今度は、カーペットをたぐり寄せるように、足の指を開いたり閉じたりを繰り返している。
やがて、鼻をすする音が聞こえた。
鳥羽は持ったままだったタオルを、Hが座る椅子の背にかけ直すと、テーブルの上に置いていたドライヤーを再度手にとった。Hの背後にまわり、電源を入れる。
ドライヤーの音で、Hが立てる音も、声も、かき消された。ぐしゃぐしゃと乱暴に髪をかきまわして乾かしてやりながら、鳥羽は、Hの震えるうなじの金髪に、ただ視線を落としていた。
Hが落ち着いた頃を見計らって、ドライヤーを止めた。
「おまえ、髪、黒いほうがいいぞ」
うるさい、とHは掠れた声で言った。
その後、二人はテレビを見ながら、どれそれの番組が面白いだの面白くないだのというくだらない会話をした。やがて揃ってあくびをした頃に、寝る時は薄明かりか真っ暗、どっちがいいかという話をして、結局Hの所望により入口のドア付近の明かりだけ付けて、寝ることにした。
ベッドに潜りこむ前に、Hは窓のカーテンを少しめくり、外を覗いた。
「雪、まだ降ってる。積もるかな」
「さあ」鳥羽は適当に答えた。
「ホワイト・クリスマスだね」
鳥羽は答えなかった。掛け布団とシーツが擦れあう音がした。それが静まったと思ったら、Hが、明るい声で言った。
「おにいさん、パンツの替え、持ってきてたの?」
「持ってない。同じの、履いてる」
「きったね」
しばらくして、寝息が聞こえてきた。
その静かな呼吸を聞きながら、闇の中、鳥羽は、とりとめもなく考えた。しかし、疲れた体が、まもなくまぶたを降ろさせた。
目を覚ますと、Hはすでに起きていて、身支度を終えていた。
「……帰るのか」
鳥羽の嗄れた声に、Hは靴を履きながら、うん、と頷いた。
「ひとりで、大丈夫か」
「たぶん」
「金は、あるか」
「もらったのが、まだ」
Hはジーパンの、財布が入っているあたりを握りしめた。
「ごめんなさい、お金、返せないと思う」
「……いいよ、もう」
「返す機会があれば、絶対返します。……何年か後に、体ででも」
「なんでだよ。というか、何年か後ってなんなんだ」
「当分は、恋愛する気はないから」
「………」
「でも、次の次くらいの相手としてなら、おにいさん、ありだと思ってるんだよ。優しいし、チョロいし」
鳥羽はベッドに倒れこんで寝直す。すると背後から、Hが近寄ってくる気配があった。
「ありがとうございました」
鳥羽は寝たまま、振り向かなかった。
「赤の他人なのに、こんなに、良くしてくれて」
「……ストーカーとちゃうぞ」
Hは少し笑ったようだった。
その後、部屋のドアが開き、そして閉まる音が聞こえた。
鳥羽は、なにかの間違いでHの戻ってくる足音が聞こえるのではないかと、しばらくじっと息を潜めていた。しかしふたたびドアが開くことはなかった。大きく息をついた。
昨夜、眠る直前に、明日は、Hがたこ焼きが食べたいとか、通天閣にのぼりたいとかいう要求をぎゃあぎゃあと言い出す、そんな、てんやわんやな朝を迎えることを想像していた。
しかし朝は、思いのほか静かにやってきて、そしてもはや、通り過ぎてしまった。
振り回すだけ振り回して、言いたいだけ言って、帰っていきやがった。
「カウンセラーとちゃうんやから」
鳥羽はひとり呟いた。いや、カウンセラーですらない。だって金をもらうどころか、とられた。ため息をつきながら、のそのそと起き出す。
……もし、たこ焼きが食べたいとか、通天閣にのぼりたいとか言われたら、その要望を越えるような、本格的な大阪観光に連れていってやろうと思ってたのに。
窓の外を見ると、雪などかけらも積もっていなかった。




