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うぐいす駅にて  作者: ロブチカコ
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 しばらく待って、また電車がやって来た。

 この電車でも、始業には間に合うのだ。小心者ゆえ、さっきの電車を見送ったのは、次でも間に合うことがわかっていたからこそできたことだった。

 

 今度こそ乗りこむ。あの人にぶつかられて、逆に少し落ち着いたような心持ちだった。仕事がいやなことに変わりはないけれど、よく考えれば、今すぐ逃げ出したいというほどでもないし。

 

 まあ、これからも、大した結果も残さず、期待もされない日々なんだろうけど。当面は仕方ない。

 あと一年、あと一年営業やって、それでも異動が出なかったら、転職を考えよう。

 

 憂いを減らすためのため息をつく。

 すると、猫と目が合った。


 猫雑誌の吊り広告だった。子猫が、あざといほどの表情でこちらを見つめている。

 

 せめてもの慰みに、猫でも飼おうかなどと、冗談半分に考えてみる。猫は好きだ。ふわふわで柔らかいのはもちろん、気まぐれなところも魅力的だ。犬のような懐きかたはしないだろうが、猫を飼っている知人から、帰宅すると玄関まで出迎えにきてくれると聞いたことがある。従順でなくても、ただ甘えるためだけに懐いてくれるというのは、それはそれでかわいいに違いない。

 

 独身で動物を飼いはじめると結婚が遅れるなんていう噂を聞いたことがあるが……、別に……、うん、構わない。

 

 そもそも、動物を飼って結婚できなくなるということは、パートナーは動物で足りるということなんじゃないのか。可愛い動物で足りるところを、なぜ、女で埋める必要がある。

 鼻で笑ってみる。そうだ、女なんか……。

 

 発車のベルが鳴る。閉まろうとするドアが、変な音を立てた。

 

 本日二度目の衝撃を、鳥羽は体に受けた。

 猫が胸にとびこんできたイメージが、瞬間、頭に浮かんだ。

 

 現実には、鳥羽の胸には、野良猫のように目つきの悪い、しかし猫ではない少年の瞳があった。広告の写真の猫のほうが、まだずっと、まんまるく愛らしい目をしている。でも、鳥羽にとっては、少年の目も結構好みの形だ。いや、女の子であれば、の話だが。

 

『駆けこみ乗車はおやめください』


 アナウンスとともに、ガクンガクンと閉まろうとしたり開いたりしていたドアが、やっと閉じた。

 

 少年は「スイマセン」と小さく無愛想に謝って、鳥羽の脇をすり抜け、離れた。

 

 そしてその後を追う、もうひとり。

 

 男子高校生と思われるその二人組は、発車の揺れによろめきながら、反対側のドアの近くへ移動した。紺のブレザーに、白と深緑の斜めの縞模様のネクタイ、グレーのズボンと、鞄。

 

「痛かったー」

 鳥羽にぶつかってきた背の低いほうではなく、もうひとりの背の高いほうが、しきりに肩をさすっている。鳥羽は、胸に飛びこんできた少年に気をとられて気づかなかったが、背の高いほうは、閉まろうとするドアに挟まれたらしかった。

 

「自業自得だろ」

 背の低いほうが言うと、高いほうが言い返す。

「いや、おれが押さなかったら、おまえが挟まれてたし」

「強く押しすぎだから。人にぶつかったじゃん」

「助けてあげたのに!」

「そもそもおまえが遅刻したせいだろ」

「こんな感じで挟まれた」


 背の高いほうは、そう言って、おかしなポーズをとった。顔まで、大げさに歪めている。


「顔は嘘だろ」

「そっか。こう?」

「いや、真顔じゃないだろ。もうちょっと、焦った感じだと思う」

「こう?」

 高いほうは彼なりの焦りを表現した顔をつくっているようだった。鳥羽の位置からはあまり見えない。

「いや、もっと。もっと焦ってたと思う」

「このくらい?」

「いや、まだ。焦りが届いてこない。おれまで届いてこない」

「くそー」


 ふたりはそうやってしばらく遊んでいたが、それまで無表情だった低いほうが、なにかの拍子に笑った。

 鳥羽は、目をそらした。男を可愛いと思う趣味はない。

 けれど……、きつめの顔をした女の子が笑うと可愛いのは、たまらないよな。うん。

 

 そんなことを考えながら、男子高校生たちの笑い声を聞きつつ、窓の外を眺める。景色は、住宅街からビル群へと変わっていく。建物が途切れて、朝日が目を刺した。

 ひとつ駅に着くごとに、乗客が増えていく。ある駅で、鳥羽の目の前に、タイトスカートに包まれた豊満な尻が現れた。鳥羽はその女性の背後から逃れて奥へと移動した。痴漢と間違われてはたまらない。女は、危ない。

 

 移動した位置は、図らずも、さっきの高校生たちの近くだった。鳥羽はなんとなく、ふたりが視界に入るように立ち、さっきよりはトーンを落としている彼らの会話に聞き耳を立てた。

 

 背の低いほうはドアにもたれ、高いほうはドア横のポールをつかんで、春休みはなにをしていたかという、他愛のない話をしていた。ふたりとも、「部活以外はだらだらしてた」という申告で一致していた。

 

「おれ、本気で、おまえと遊んだとき以外、ちゃんと出かけてない」


 背の低いほうがそう言うと、高いほうがにんまりと笑って、今度新しくできたショッピングモールに行こう、と言った。鳥羽は、その背の高いほうが、自分に負けず劣らずの垂れ目でありつつも、自分のように情けなさのある顔立ちではないことが、なんとなく気にかかった。ただ、背の高さでは自分のほうが勝っている。……と己を慰める。

 

 それから、学校メンドイだの、部活はいつ引退するのかだの(どうやら三年生らしい)と会話が移ってゆくなかで、ふいに背の低いほうが呟いた。

 

「クラス替え、なかったらいいのに」


 高いほうが、低いほうの顔を覗きこむ。

「なに? おれとクラス離れたくない?」

「そんなことは言ってない。幻聴? 病院行く?」

「照れるなよ」

「クラス替えが、単純にめんどくさいだけ」

「おれと同じクラスになれなくてもいいっていうのか!」


 背の高いほうが演技がかって言う。呆れたのか、低いほうは黙って視線を逸らした。

 すると突然、

 

「見捨てないで!」


 高いほうが、低いほうを抱きしめた。

 高いほうの肩にかけた鞄が、がくんと肘までずり落ちる。腰にまでしっかり、その腕がまわされているのを見て、鳥羽は釘づけになった。

 

 低いほうは、一瞬固まってから、相手を押しのけた。

「なにすんだよ」

「さみしくなって」

 本気なのかわからないことを言って、高いほうは、また手を伸ばした。あえなく振り払われた。

 

 それからふたりはまた、とりとめのない会話に戻っていった。担任の教師は誰だったらよくて、誰だったら最悪だとか、夏になったら予備校の夏期講習に行くだとか、行かないとか、そういう話の間に、背の高いほうは、低いほうの肩や腕に、撫でるような微かさでふれていた。頬をつついたときは、小気味よい勢いで振り払われていた。そして鳥羽は、終始、そのふたりのやりとりから意識を離せなかった。

 

 じゃれあいは終わらないまま、やがて学校の最寄りらしき駅で、彼らは電車を降りていった。降りる間際に、背の高いほうが思いついた顔をして、

「誕生日、もうすぐじゃん。なんかほしいものある?」

と言いだし、その話をしながら、降りていった。


 ホームを、肩を寄せあって笑いながら歩くふたりを、走り出した電車の窓から見送りながら、鳥羽は声に出さずに呟いた。

 

 なんなんだあいつら……。

 

 男友達相手に、誕生日プレゼント送る……のは、まあ、いいか。でも、あんなふうに、抱きしめるなんて。

 

 その後数駅を過ぎて、電車を降りてもまだ、鳥羽はあの高校生たちのことを考えていた。自分が高校生だった頃、あんなふうに友人たちとスキンシップをとったりしたことはなかった。やはり、変だ。そう思う心と、あそこまではなくとも、やたら仲がよくて、馬鹿をやりつつじゃれあっていた同級生たちがいた記憶もあるから、そういうノリなのだろう、と考え直したりもした。特にあの背の高いほうは、明るくて、人との距離が近そうなやつだった。たまにいるんだ、ああいうやつが。

 

 しかしそれにしたって、あんなふうに抱きしめたりするのは、やっぱりやりすぎなのではないだろうか。背の低いほうは振り払っていたが、本気でいやではないのだろうか。

 

 まさか、あのふたり……。

 

 そんなことを考えながら、心ここにあらずのまま、改札を出た。駅の隣には、木々に囲まれた小さな神社がある。その入口の前にさしかかったとき、そこから、ひとりの女性が出てきた。ぼんやりしていたのと、植込みで彼女の姿が隠れていたのとで、あやうくぶつかりそうになる。

 

 すみません、と互いに飛びのいたあとで、「あっ」と、同時に声を上げた。

 うぐいす駅で、ぶつかった女性であった。

 

 そして彼女は、四月から鳥羽の職場に入社した、二人の事務担当の派遣社員のうちのひとりでもあった。顔を近くで見たことはなかったが、なんとなく覚えていたのだ。名前は、なんといったか。

 

「先ほどは、すみませんでした」

「いえ、全然」

 微妙な間が流れる。

 

 ここから会社への道のりは五分程度だが、よく知らない相手と並んで歩くには、長い。

 普段の鳥羽であったなら、おざなりの態度で、コソコソと距離をとって離れて歩くことを選んだだろう。しかしこのとき、なんとなく、さっき見た、自分と同じような垂れ目で、けれど自分と違ってあきらかに明度の高い顔が頭に浮かんでいた。

 あんなふうに、とまでは言わないが……。

 

「うぐいすに、住んでるんですか」

 思い切って、切り出した。

「あ、はい」女性は笑顔で答えてくれる。「そちら……、あの……」

「鳥羽です」

「あ、鳥羽さんも、うぐいすですか」

「はい。ついこの間、引っ越してきて」

「ああ、そうなんですね。私は、実家で」

「へえ」

「あ、すいません、私、――」

 女性は慌てて、自分の名を名乗った。

 

 よろしくお願いします、と改めて頭を下げ合って、しかしそのあとの話題が思いつかない。鳥羽が焦りながら数秒黙っていると、

 

「これ」

 女性は、手にぶらさげていた薄いピンク色のビニール袋を掲げて見せた。

「すぐそこにあるパン屋さんなんですけど、ご存知ですか」

「ああ……。行ったことは、ないですけど」

「すごくおいしいんですよ。入社してから結構、通っちゃってるんですけど。さっきの電車に乗らないと、買うの間に合わなくて」


 このとき、鳥羽は初めて相手の顔をまともに見た。女性は、切れ上がった涼しげな目をしていた。

 その目を、彼女は恥ずかしそうに細めた。

 

「ぶつかっちゃって、ごめんなさい」


 神社に植えられた樫の木から、ホー、ケッキョ、ケキョッ、と、へたくそな鳴き声が聞こえた。

 あ、と彼女は樹上を振り仰いだ。

 

「まだうまく鳴けないのかな。可愛いですね」


 鳥羽は彼女の顔を見つめながら、ぼんやりと頷いた。

 

 ぼんやりしたまま、会社に着いて、ぼんやりしたまま、自席に座った。

 パソコンを付けてぼんやりしていると、背後から自分の名を呼ぶ声がした。

「おい鳥羽、この資料、また間違ってるって!」

 明らかに怒っているその声も、今の鳥羽には、なんとなく柔いもので覆われているように聞こえた。

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