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うぐいす駅にて  作者: ロブチカコ
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プロローグ

 遠く、電車の走る音がした。追いかけるように、夜のにおいが頬をよぎる。


 振り返ると、戸が閉まりきっていないのだった。隙間から、つめたい春先の風が迷いこんできている。


 ……あいつ、ちゃんと閉めろよな。


 苛つきながら、とりあえず持っていたビールジョッキふたつを客のテーブルに運ぶ。

 料理の注文をとってから、さて扉を閉めようと振り向き、動きを止めた。


 開いた戸の隙間から、知らない男が首を生やしていた。


 男は店の奥を覗きこむように、きょろきょろと小刻みに首を動かしている。席が空いているか確認しているのか? いや、そんなことは、店内を一目見ればわかることだ。


 誰かを捜している?


 そういう、少し変な感じを持ちつつも、男に近づき、声をかけた。


「どうぞ、空いてますよ」


 すると、首はいったん引っこもうとして、側頭部を激しく戸の縁にぶつけた。みじかい叫び声と、引き戸にはめられた磨りガラスが立てた派手な音で、他の客が一斉にふりかえる。男の姿は外に消えた。


 少しの間のあと、引き戸が静かに滑り、男は、ぶつけた頭を手でおさえながら入ってきた。


「……大丈夫ですか?」

 手で顔を隠すようにしながら、彼は頷いた。

「おひとり様ですか?」

 また、頷く。頷きながらも、まだ目をきょろきょろと辺りに走らせている。


 こちらにどうぞ、と二度言って、やっと周囲に気を取られている男をカウンター席に座らせた。座ってからも落ち着きなく、尻をもぞもぞと動かしている。


 男は、三十歳前後くらいに見えた。垂れ目で、少し気弱そうな、ぼんやりとした印象の顔立ちを、黒縁眼鏡で補っている。首から下は、スーツ姿だったが、鞄を持っていない。


 土曜の夜でもあるし、どういう仕事をしているのだろう、と顔を盗み見ていると、眼鏡の奥の目もとが少し赤いことに気がついた。すでに別の店で飲んできたらしい。

 出張でホテルに泊まっていて、飲みに出かけたといったところか。酔っているのなら、少々挙動がおかしくても、仕方がない。


 しかし、カウンター越しにビールを出したとき、男がまた、なにかを探すように店内を見まわしているのは、やはり気になった。ジョッキを置いた音に気がついて、とりあえずビールに口をつけはしたが、それでも落ち着きなく背後のテーブル席を気にしている。


 テーブル席にいるのは、近所に住む中年夫婦と、近くの大学の学生らしい男ふたり、その二組だけで、他に客はいない。


 なにがそんなに気になるのか……。


「あの」

 急に、男がこちらに向きなおった。ぎくりとしたが、男は盗み見られていたことには気づかず、目や顎やらで、背後の席を示した。

「あの、男ふたりのお客さん、ついさっき、入ってきはりましたか」

 西のほうの言葉で、男は言った。


 男が指す、大学生ふたりを見て、はあ、と頷く。彼らに最初のビールを出したところで、男が店を覗いていることに気づいたのだから、ついさっき、ということになるだろう。


「そうですか。……あの奥に、個室あったりしますか」


 今度は、店の奥の扉を指さす。扉の向こうは居住スペースで、風呂と洗面所と、二階への階段しかない言うと、男はまた残念そうな顔をして、ビールを舐めた。


 そして急に、髪をぐしゃぐしゃに掻きまわしたと思うと、あああ、と声をあげて仰け反るように椅子の背にもたれかかった。

「なんや、もう」

「すみません、個室、なくて」

「あ、違います。個室に入りたいわけじゃなくて……」

 男は苦笑いでそう言い、しかし言葉尻はあやふやにした。


 この客は、なにがしたいのか。好奇心はあったが、客から話さない限りは、聞かない主義でやっていた。相手が話し好きだったりすると、煽っても面倒なことになるだけだ。


 大鍋からモツの味噌煮込みをよそい、それと大盛りの白飯と温泉玉子、枝豆を盆に乗せて、男が気にしていた大学生たちのもとへ運んだ。

 その間、思わず大学生たちを観察してしまったが、男が気にするような、これといった特徴はない。

 片方がかなり背が高いが、他人が気にすることとも思えない。そもそも、このふたりは店のメニューを気に入ってくれているらしく、親しく言葉を交わしたことはないものの、顔を覚えるくらいには、ふたり揃ってちょくちょく来店していた。自分にとって怪しいのは、男のほうだった。


 振り返ると、男がまた、ふたりを見ているのを目撃してしまう。これだけあからさまだと、無視もしづらい。カウンターの中に戻って、

「知り合いなんですか?」

と聞いてみた。しかし、

「いや、知り合いでは、全然、ないです。ていうか、あれ……」

 男は歯切れが悪い。そして、からだを捻って、まだ大学生たちを見ている。大学生たちは、白飯に玉子をかけ、その上にモツ煮込みをのせて、かきこんでいる。


「あのひとたちが食べてるやつ……」

「食べますか?」


 卓上のメニューをひっくり返して、裏面を見せる。オススメの食べかたとして、「玉子かけモツ煮込み丼」と、丸みを帯びた可愛らしいイラストつきで紹介していた。


 じゃあこれひとつ、と注文したあとも、メニューを眺めていた男が、あ、と声を上げる。


「お店の名前、ほんまは、スモール・マウンテンなんですね」

 メニューの隅に、Small Mountainと店名を書いていた。

「外の店の看板、SとMだけになってるの、あれ、やばいでしょ。SとMだけがドーンって。『SM』ってなんの店や!って、ぼく、入るのためらいましたもん」

「すいません、親の代からやってるんもんで、ぼろくて」


 他の小文字の部分は、長年のうちに、少しずつぽろぽろと取れていってしまった。残っていた最後の小文字であるmが取れたのは、ちょうど、自分がこの店で夜間の営業を始めた頃のことだ。


「はよ、直さな」

「実はあれ、学生にうけてるみたいで。この間、大学生が『SMの店行こう』って話してるの聞こえて、もう少し、そのままにしておこうかと」

「それ、ほんまにこの店のこと?」

「たぶん」


 そう言いながら、看板をそのままにしている理由は、実際のところ別にあった。父が、「うちに節目が来るたびに看板の文字がとれる。文字がなくなっていくのは、家族の歴史そのものだ」などと、感慨深げに言って、修復に乗り気でないからだ。単に、金を使いたくないだけなのだろうと踏んではいるが。


 会話をしている間に、モツ煮込みと白飯、温泉玉子をカウンターに並べる。男は大学生たちと同じように、白飯に玉子とモツ煮込みをのせて、ひとくち食べた。


「うん、うまい。……これ、この店ではこうやって食べるもんなんですか?」

「決まってるわけではないですけど。このあたりは学生が多いんで、夜も、安い大盛りのメニューがあったほうがいいと思って」


 男は黙って、ふたくち、みくちと食べ、

「ありえるなあ、近所やもんなあ」と、ぶつぶつ呟いた。なんのことかはわからないが、男の口調は、もはや、話を聞いてほしそうな色を隠しきれていなかった。


「なんか、探偵みたいっすね」


 バーで飲む容疑者と、それを追いかけて店に入ってきて、こっそりとカウンター席から様子を窺う探偵。映画やドラマで使い古されたそのシチュエーションを思い浮かべたのだった。

 実際目の前にいる男は、ウイスキーではなく茶碗と箸を手にしているし、その容貌にはハードボイルドのかけらもなかったが。


「あほな」男は笑った。

「だって、あのふたりのお客さんのこと見過ぎだし、なんか意味深なこと呟いてるし。だから身辺調査でもしてるのかな、と」

「いやいや……」

「尾行でもしてきたんじゃないんですか」


 にやにやと冗談を言っていると、思いがけず、男は神妙に呟いた。


「尾行ではなくて……、追いかけてきたっていうか」

「えっ、まじですか。なんで、また」


 男は、迷い、考えるように黙りこんだ。少し真剣味を帯びた表情で、じっとモツ煮込みを見つたあと、「ぼくね」と話しはじめた。


「ぼくね、四年前くらいに、『うぐいす』に住んでたんですよ。ここよりもうちょっと、駅に近いところに。住んでたのは一年だけですけどね。こっちのほうはあんまり来たことなくて、この店も知らんかったんですけど。……その、ここ住んでたときに」


 男が言葉を切る。なんと言うか迷ったらしく、本人も首を傾げながら、言った。


「変な出会いがあって」

「変な?」

「そう。出会って、友達になったわけでもなく、ただ巻きこまれたというか。とりあえず、変な関わりあいかたをした奴らがいたんです。ええと……、そいつらを仮に、Hと、Tとしときます」

「仮に」

「まあ、一応。名前言うのもアレなんで。ふたりとも、当時、高校生でした。ぼくは、社会人三年目で」


 そこまで言ったとき、男は手を引っかけてビールジョッキを倒した。さいわい、割れなかったが、ビールは派手にこぼれた。


「ああ、ああ」


 かかった、と男が立ち上がる。スーツのズボンに、大きな染みができていた。

 とりあえず男にふきんを渡し、カウンターにこぼれたところにも幾つかふきんを投げ置いて、床をふくために雑巾を持ってカウンターを出る。男は、おしぼりとふきんで交互にズボンを叩きながら、すいません、すいません、と恐縮していた。


「それより、服、だいじょうぶですか」

「どうやろう……。ビールって染みになりますか」

「乾けば、目立たないと思いますけど」

「匂いは残りませんかね。ああ、明日、どうしよう……」


 こちらがカウンターと床を拭き終わった頃には、男はズボンの染みを諦めたらしく、ぼんやりと情けない顔で、肩を落としていた。


「ぼくはね、間が悪いんです。そういう呪いにかかってるんちゃうかって思うくらい」

「……これは、間が悪いっていう問題なんでしょうか」


 男は、恨めしそうにこちらを見た。


「そりゃ、ぼくがどんくさいのが、いちばんの問題かもしれませんけどね。でも、そのどんくさいところをね、ここぞというときに、いちばん、発揮してしまうんです」

「はあ」

「ほかにも、変な偶然に出会ったり、まさかこのタイミングでっていうことが起こったり。で、だいたい、それが悪いほうに転ぶんです。この前だって、この大事なときに……」


 男はなにか言いかけて、やめた。大きくため息をつく。


「HとTと関わったときは、ぼくのその不運の呪いが最大限に発揮されてたんちゃうかっていうくらい、トラブルの連続でした。まあ、いまとなっては、ほぼ笑い話で、いい思い出と言えばそうかもしれませんけど。……あのふたりにとっては、どうか知らんけど」


 ふいに、男の顔から落胆が消えて、その目に、遠く、懐かしむような色が映った。


「あいつらと最初に出会ったのも、いまくらいの季節でしたでした。春の、うぐいす駅で」


 あ、この話、もしかして長くなるんじゃないか。明後日の方向を眺めている男の顔を見て、いやな予感がした。

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