その歪みの責任
いじめに関して不謹慎な描写が出ます。苦手な方はご注意ください。
久方ぶりに会ったかつてのクラスメイトが目の前にいる。
だというのに、私は「久しぶり」と声をかけることもせずに呆然とその場に立ち竦んでいた。
当然だ。私は彼へ気さくな言葉をかけられる立場にいないのだから。
「久しぶり」
それを言ったのは彼の方だった。
私は、ドラマや漫画の悪役の心境を知った。主人公に復讐される。彼らはそんな予感に震えながら大抵こう言うのだ。
「な……なんで、ここに……」
例に漏れず発する台詞。
私の顔が青ざめている事は鏡に映さずとも明白だった。手足が震え、汗が滲む。
典型的な小物のような怯えように、彼は満足だろうか。
ーーー
私は、退屈な女子高生だった。
言いたい事を言いたい時に言って、やりたい事をやりたい時にやっても誰も文句を言わなかった。運動神経は悪くなく、成績も悪くない。先生からの信頼もあった。おまけに怖いもの知らずな性格だったためにいつの間にかクラスでのリーダー格になっていた。皆を纏めるのが私の仕事だったし、だからこそ勝手気儘に振る舞えた。
しかしそれは同時に退屈を募らせることにもつながった。自由だからこそ退屈だった。
だから、だ。
理由はそれだけ。
怖いもの知らずなあの頃の私の行動が今の私にはどうしようもなく恐ろしい。
クラスで浮いている男が居た。
一人本を読み、かと言って成績が良いわけでもなく。話しかければおどおどと言葉をつっかえさせる。
きっかけは余りにも些細なことだった。
私と彼がぶつかり、彼が謝らなかった。それだけ。話すことが得意でない彼が謝るタイミングを逃してしまったことは私にもわかっていた。
ただ大義名分が欲しかっただけ、それだけなのだ。
それからは余りにもテンプレートな展開だった。
足をひっかけて笑い、教科書を隠してにやつき、暴力をふるってストレスを発散させた。
それらの全て、私は直接手を下してはいない。でもそうなるように雰囲気で促したのは紛れもなく私だ。
やがて彼から他の人へターゲットが移りそうになった時、私は飽きた。今話題の遊びを皆でしようと提案してそこから興味はそちらへ移った。そうして私のクラスのいじめはクラス以外の誰にも伝わることなく静かに終わったのだ。
ただ一人、全ての被害を一身に受けた彼は、学校を辞める事もなく不気味な沈黙を保っていた。
そのまま何事もなく学校を卒業した私は、ごく普通に苦労し、楽しみを見つけ、そしてごく普通に過去の自分を後悔した。自分の愚かしさにようやく気付いたのだ。
少し話そうか。そうにっこりと笑った彼の言葉を断れる筈がなかった。その権利も無かった。
(バイト先で、会うなんて……)
これが街でばったり、ならば連絡先を教えなければそれでさよなら出来る。きちんと話して、許して貰えるにしろ貰えないにしろ謝って、それで終わりだ。
けれどバイト先だ。
小さな喫茶店のご主人はとても良い人で、数々のバイトで人間関係につまづいて疲労していた私にはやっと見つけた居場所だった。
お金は無いし次のバイトを見つける気力もない。辞めるという選択肢は今の私には無かった。
だからこそ辛い。
あの時の事をどれほど彼が苦にしているか測れないが、もし毎日のように通いつめるほどの恨みならば。
私の居場所は今度こそ無くなる。
震える足に気付いたご主人が心配してくれたが、果たして私は笑えていただろうか。
自業自得、因果応報。
これ程私に当てはまる言葉は無い。
繰り返し小さく呟いて、私は彼に謝る準備をした。
逆切れでもしたら目も当てられない。
制服を着替え店を出ると、私は白い息を吐く彼の元に、徐に歩いて行った。いや、徐に、よりものろのろと、が正解かも知れない。
私の気配を感じたのか、ふと男は目を上げる。
随分と変わったものだ。
地味では無い。かといって派手でも無く、清潔感がある。きっとモテるのだろう。
そう想像するのは、決して余裕だからでは無い。足元から這い上がるどうしようもない不安から逃げるためだ。
男は目を細めた。
笑っているのか、嗤っているのか、それとも怒っているのかわからない表情だ。
いいや、きっと怒っているのだろう。
「じゃあ、行こうか」
どこに、と問うことすら出来ずに私はただ彼の後を付いていく。
「随分と変わったんだね」
感情の見えない声で彼は呟く。
独り言なのか返事を求めているのか判断がつかず、結局私は黙し続けた。
変わったといえば、彼の方だろう。
私と彼が単なるクラスメイトだったら、そんな会話を続けられていたのだろうか。
返事は求められていなかったらしい。それからは彼も何も言わず、ただ沈黙だけが私の頭上にのしかかっていた。
やがて、徐々に人気の無い方へと向かっていく彼に、不安と恐怖が最高潮に達する。
耐えきれなくなり、私は声をあげた。
「あのっ」
彼が振り向く気配がする。
私は顔を伏せた状態のまま、必死で言葉を紡ぐ。
「あ……あの、本当に、ごめんなさい」
私は頭を下げた。
彼は、何も言わない。
それにどうしようもない恐ろしさを感じながらも、私は続ける。
「こんな……謝ったところで、許してもらえない事は分かっています、けど。けど……その、考えが浅くて、私、本当に馬鹿でした。謝っても貴方の時間は戻って来ません、でも、心から、反省はしてます。すみませんでした」
どくどくと耳に心臓がくっついたかのように鼓動が響く。
どこまでも、無限に続くかと思われるような沈黙が、私の脳の奥を痺れさせる。
やがて、微かに息を吐く音がその場に落ちた。
「つまらないな」
何を言っているのか一瞬理解出来ず、私は思わず顔をあげた。
言葉の通り、つまらなそうな顔で私を見る彼がいる。
「全く、本当につまらない女になってしまったんだね。君はその程度だったのか」
「な、どういう……」
「そのままの意味だよ。まぁ、でもそれならばそれで良いか。すんなり謝るくらいのプライドなら、話も早い。
ねぇ、僕に詫びる気持ちがあるなら、償いをしてくれるよね」
「つ、つぐない……?」
散々な言いように頭にのぼりそうな血を、必死で抑える。元はと言えば私が悪いのだ。
いくら自分の愚かさに気づいたからと言って、短気でプライドの高いこの性格を丸ごと治すのは難しい。
浅く息をしながら、私は彼へ問い返した。
「そ、償い。例えば……僕の言うことをなんでも聞く、とかね?」
ひゅっ、と息を吸い込む。
薄く笑うその顔には、表情が無い。
彼はこんな顔で笑う人だったか。
もっと……控えめで、柔らかな笑みを浮かべる人では無かったか。
それをこうも歪めたのは……私?
「な、にを……」
「あぁ、いいなぁ、それ。あんだけ僕をボロボロにした教室の女王様が、虐められっ子の僕にひたすら従うなんて。あは、クラスのみんなが知ったらどう思うかなぁ」
まるで決定事項のように言って楽しそうに笑う彼。
私は思わずそれを遮った。
「ま、待ってよ!まだするなんて言ってない!」
彼は心底不思議そうにぱちりと瞬く。
「拒否権なんてあると思うの?」
私はそんな彼の顔を呆然と見る。
「まぁ、別にバイト辞めたいならそれで良いけど。高校時代酷いいじめをしておいて平気な顔で暮らしている君に、あの人の良さそうな店主が良い顔をするかなぁ?
色々な所で揉めて、もう疲れてるんじゃ無いの?お金もなくて、生活出来るの?
僕の言う事を聞くだけで君の平和は守られるのに」
「あ……あんた、どこまで知って……」
「それは想像に任せるよ。で、どうするの?別に断って君がボロボロになって行くのを見るのでもいいけど。今ならバイト先だけは安住の地になるよ?」
私はがたがたと震えた。
そうでもしないとこのどうしようもない寒さから逃れられそうに無かったからだ。
なんで。
なんで私がこんな思いをしなければならない。
なんでこの私が、こんな奴に怯えなければならないんだ。
私は歯を食いしばった。ぎり、と奥歯が擦れる。
そんな様子を観察するように眺めている彼は、面白そうに笑っている。
なんでこんな奴に。
「どうして私が、あんたなんかの言う事を聞かなきゃならないの!」
明らかにこちらの方が不利な状況で、こちらが絶対的に悪いのに、私はどうしても煮え滾る想いを堪えきれなかった。
あは、と彼が笑った。
「あんたなんか、あんたなんかとんでも無くダサくて暗くて地味で、たいして喋れもしなかったくせに!そんな、そんなやつ、虐められて当然じゃない!」
「……あはは、いいねぇ。それでこそ生田さんだ」
「あ、あんたの言うことなんか、どうせ、誰も信じないから!ご主人だって、私のこと信用してくれてるもの!辞めさせられなんてしない!私がそんな事する必要なんてない!折角謝ってあげたんだから、さっさと素直に受け取って消えなさいよ!」
止まらない。
心の奥底に沈殿した、どろどろとした私を形作る何かが、口から溢れて止まらない。
余裕そうな彼の表情が、いちいち腸を刺激する。
あんなに怯えた顔をしていた癖に。
悔しくて辛くてたまらなかった癖に。
私には何も言い出せなかった癖に。
私の事なんて、興味もなかった癖に。
「そうそう。君はそういう人間だ。傲慢で、人を見下して、自分の思い通りにしなきゃ気が済まない。大人しく繕ったって駄目だよ。君の本性は酷く醜いんだから」
そう言って彼は、懐に手を入れた。
言い返してやろうと開けた口が、固まる。
それは写真だった。
殴られたのか、顔を腫らした男を囲む男達。
牛乳を浸した雑巾を今にも投げつけようとする女達。
それを遠巻きに、痛ましそうな顔で見る男女数名。
そして、その人々の隙間から、堪えきれないと言ったように醜い笑みを浮かべる女。
顔を腫らした男は、高校生だった頃の彼だ。
そして、周りにいるのはかつてのクラスメイト。
なかでも一番醜い顔で笑むのは、私だ。
私は今度こそ青褪めた。
「な、なん……なんで、それ……」
「ん?なんでって。証拠だよ証拠。周りの大人も口だけじゃ信じてくれないだろうから撮っておいた。いやぁ、凄くうまく撮れたよね。これじゃあどんなに取り繕っても、直接手を出してなくとも、これを見た人は一発で君に不信感を覚える。君の近くに居るのが良心だけはある人々だから余計に目立つね。我ながら完璧な証拠写真だ」
彼は指でつ、と写真に写る私の醜い顔をなぞる。
そして最後通知を突きつけた。
「これを僕が店主さんに見せても、良いんだね?」
私は今度こそ、何も言えなくなった。
一度剥がされてしまった大人しい顔を再び貼り付ける余裕もなく、私はただただ彼を睨みつける。
唇を噛む痛みより、ふつふつと湧き上がる怒りの方が優っている。
けれど、私は、言い返せない。
彼の、男の割に細い指先が、私の頬を掠めるように撫ぜる。
それだけの行動に、私は小さく震えた。
そんな反応をしてしまった自分が許せず、余計に強く唇を噛み締めた。
「捨てる振りじゃ、駄目だ。君が本当にプライドを捨てて、心から責任を取ってくれないと。君が僕にしたことの償いをしてくれないと」
「……何、すればいいのよ」
ただ命令されるままというのが悔しくて、私は自分から彼に訊いた。
訊いたからといって言う事を聞くわけじゃない、と往生際の悪い事を考えていたが、その実彼の言う通りにするしかない事は既にわかっていた。
「まぁ、とりあえず行こうか」
彼は相変わらず表情の見えない笑みで私を促し、再び足を進める。
詳しく話そうとしない彼に、不安だけが募っていた。

ーーー
怯えながらも、そのプライドの高さは昔のままだったらしい。成長して変わってしまったかと思ったが、煽ってみて正解だったようだ。
過去の彼女と今の彼女が重なり、僕は口元を緩めた。
そう、意味がない。
捨てる振りでは駄目なのだ。彼女と僕の間に溝を作ったもの。それを完全に捨てさせた上で僕にした事の責任を取らせなければ意味がない。
彼女が変わってしまったかもしれないという不安は消えた。彼女はあの頃のまま、立ち止まり続けている。ならば僕のする事は決まっていた。
人気のない駐車場に停めておいた車に彼女を乗せ、その場を離れる。
彼女は随分あの喫茶店を気に入ったようだ。けれども住宅街の片隅にポツリと建つその店は、女性が夜、暗い中帰ることを考えると働くには不安が残るのではないかとも思う。住宅街はただでさえ影が多い。慣れた様子で帰り支度をする彼女を思い出し、僕は改めて決めた。
着いたのはなんの変哲も無いマンションの一室。
窺い見た彼女の表情は固く、少々引きつっていた。僕の求めるものがどうやら彼女にはきちんと伝わったようだ。此の期に及んで逃げようと後退る気配を感じ、僕は少し強引に彼女を中に入れた。
立ち尽くす彼女を見ながら、後ろ手に鍵を閉め、ついでにチェーンロックもかける。万が一鍵を開けられても焦ってチェーンロックを外すのを忘れるだろうと見越しての事だ。
「上がって」
息をかけるように耳元で囁くと、面白い位に大きくその華奢な肩がはねた。
上がろうとしない彼女を座らせ、靴を脱がせる。
「え、は、ちょっと!」
思考が追いつかない様子で、暴れてはいるが動きが鈍い。紐のない靴で良かった。
脱がせた靴をそこらへ転がし、彼女の膝の裏へ腕を差し込む。覚悟していたよりは軽いが、やはり人、しかも暴れている。落としてはいけないと、早足で寝室に向かった。
寝台へ押し倒した彼女は、気丈にもこちらを睨みつけている。
「こんなの、犯罪だから……!」
「だね、じゃあ訴える?」
「……」
そう。彼女にはそれが出来ない。
僕は、上がる口角を抑えきれないでいた。
目の前で、眉間にしわを寄せる彼女。強い眼光と、その目に滲むもの。小さく震える肩。噛みしめる柔らかそうな唇。ほんの少し、上気した頰。
これから、僕は彼女のプライドを粉々に砕く。
折って、割って、叩いて、砕いて、磨り潰す。
欠片すらも残らないように。残った粉はそうっと息で吹き飛ばす。
そうして、まっさらな彼女を。
ずたぼろの彼女を手に入れる。
僕を粉々にしたくせに。
僕だけをただ見ていたくせに。
余計なプライドのせいで僕のところまで降りられず、歪な執着を続けた君。
強い強い想いで、重い重い思いを僕に落とし続けた君。
馬鹿たちの薄っぺらな攻撃の裏には、いつも君からの灼けつくような視線があった。
僕をこんな風にしたのは君だ。
だから、その責任は取ってもらう。
分厚いプライドで鋭く研がれた彼女の瞳の奥の奥に、確かに潜む歓喜を見出し、僕はそっと笑みを深めた。