気配のない雨
――綺麗。
色とりどりの灯りに照らされたビルが輝いて、空にも無数の星が瞬いている。
光の粒をばら撒いたような光景を飛んでいるうち、亜紀は先ほどまでの不安やもやもやを忘れていた。
こういったタイプの夢を見る『子供』は、オーレのターゲットになる子供の中でも比較的年齢の高い子だ。
つまり、亜紀自身とさほど変わらない。
直接の干渉はできないが、『夢の主』をそっと遠目から眺めることも、亜紀にとっては楽しみの一つだった。
主を探して飛び回っていたが、なにしろ夜景の夢。
光が照らすぶんだけ影と夜の闇が色濃く垂れこめて、主の姿を見つけることができない。
夢の主の居場所をかなりの精度で探ることのできるバクやオーレと違って、亜紀には大雑把な方向くらいしか掴めないため、一人では見つけることが難しい。
最初はなんとなくの気配を探りながら飛んでいたが、それももう見失ってしまった。
加えて、ビルの輝きと星の輝きの中を飛んでいるせいで、どちらが天でどちらが地なのか錯覚しそうなほどだ。
――まあいいや。
主が見つからなくても、この夢、充分きれいだし。
楽しみ方を決めた亜紀は、天地がわからなくなる錯覚に身を任せながら夜の帳にその身を投じた。
そういえば、オーレが来ない。
彼の予想通り、『悪い子』の夢だったのかもしれない。
楽しい夢は楽しい夢のまま放っておいて問題がないが、嫌な夢にした場合にはそうもいかない。
『悪夢』とみなし、貘である二人が食べて夢そのものと主の記憶を消してしまうか、オーレ自身がキャンセルをかけるかのどちらかにしているのだ。
それはオーレ・ルゲイエとしての役割の中には無いが、オーレにとって、悪夢にするだけしてほったらかしにしておくのは自分が許せないらしい。
相手は子供。
悪い子でも、ちょっと懲らしめれば充分。
そんな考えのもと、オーレは悪夢を見守ることにしている。
この調子では、おそらくオーレは悪夢をキャンセルした後もこちらに合流しようとせず外で待っているだろう。
バクも外で待っているし、そろそろ出ることにしよう。
亜紀のかざした手の先に、ドアノブが出現する。
夢の『出口』だ。
まさか四人目の存在がそこにいるとは露とも思わずに、亜紀はそれを開こうとする。
が、開かない。
「……え? あれ、ちょっと。バクー? 誰か押さえてるーっ?」
ばんばんと扉を叩きながら、亜紀は扉の向こう側にいるであろう誰かに訴えた。
しかし何の反応もない。
声もしなければ、ドアノブもびくともしなかった。
向こう側に『聞こえる』確証はなかったが、いくらバクでもわざわざドアを押さえつけるような意地悪をするとは考えにくい。
じゃあ、誰が?
ドアのそばにはバクがいるし、もしオーレがふざけてやったにしても止めるだろう。
ならば。
原因が外にないとしたら。
自分に、あるのかもしれない。
――夢から出られなくなるだなんて。
もしかして、あたしの力ってどんどん弱くなってる――?
実際、亜紀の予測は当たっていた。
とは言っても、最初にしたものが、だが。
ドアに背を向けるようにして立っていたオーレが、亜紀をノアに会わせないよう背中でドアを押さえつけていたのだ。
ノアはそれを分かっていたが、何も言わないでいる。
力の弱い者たちが悪あがきをして時間を稼ごうとしているようにしか見えず、滑稽な姿だと内心嘲笑っていた。
「……殺しにきた、ってこと? 俺たちは死んでるんじゃないの?」
バクの重い声が問いを投げかける。
生きているか、死んでいるか。
これは亜紀とバクの間に横たわる、一種の溝に近い物だった。
今はバクが表面的に亜紀に合わせることでどうにかなっているが、その奥を知っているかもしれないノアに、亜紀を会わせるのは危ない。
「ええ、死んでるデスね」
「なら、どうしてわざわざ『狩り』にきたんだい? 自分達はもう死んでいるというのなら、いちいち殺しにくることもないだろうに」
オーレは、背中に僅かに感じる圧迫感を押さえつけるように足に力を込めた。
亜紀が出てこようとしているのかもしれないが、今会わせるわけにはいかない。
ノアはくすくすと笑うと、バクとオーレを交互に指さしながら歌うようにこう答えた。
「死んでいるのはアナタ達。彼女は半分『あっち側』なのデス。……だから能力も瞳も半端なまま……」
亜紀はドアの内側で暫く格闘していたが、やがて諦め、今度は自分の力の確認を始めていた。
飛ぶ。
物を出す。
ここまでは亜紀もバクと殆ど変わらずに力を行使できる。
しかし、瞬間移動がろくに出来ないのは相変わらずだった。
ただでさえ前後左右が掴みにくいこの夢の中では、正しく出来たとしても本当にそうなのか分かりにくく、亜紀をさらに混乱させる。
「……どうしよう」
このまま、この子の夢に置き去りにされる?
いや、それはない。
夢から『醒め』たとき、よほど特殊なケースでない限り夢の中の世界は崩壊する。
その時中にいれば、無理やりロビーへと放りだされるのだ。
なら、その時を待てばいい。
いくら亜紀自身の力が至らないといっても、夢の世界のシステム的なところにまで影響はない。
一人ぼっちの状態でトラブルになってしまった心細さや不安で胸が押しつぶされそうだったが、いつか必ず訪れる『時』まで耐えることを選んだ。
扉の外で、バクとオーレはどうにかノアから情報を引き出そうとしていた。
「彼女が『貘』でいたいというなら止めはしないのデス。ただ、ワタシは彼女を元の世界に返す手段を持っているので、来た。それだけデス」
「……待って。殺しに来たんじゃないの?」
バクの表情に、純粋な驚きが浮かぶ。
死神、魂を狩る、といった言葉から、ノアは亜紀を『殺し』に来たのかと思っていた。
しかしなにかがおかしい。
「彼女に関しては違うのデス。ちょっとこれを見て欲しいのデス」
言いながらノアは立ち上がり、傍らの日本刀を手にとった。
ゆっくりと抜かれたそれは、銀色の刀身を煌めかせ、神々しさすら感じさせる光を纏っている。
刃物だから危険、という感覚より、もっと根本的なレベルでの恐怖。
ただの刀ではない、とバクとオーレにはすぐ分かった。
「ワタシの仕事は、魂を『狩る』こと。それを単純に殺すだとか死ぬだとかいう浅薄な表現をされるとちょっと困るというか、違うのデス」
磨き抜かれた切っ先を、扉の上のバクに向ける。
冷たい光を放つそれから目を離さぬまま、彼は僅かに身を強張らせた。
「ヒトはカラダとココロで出来てるデス。ワタシはその接続を切り離すことができる、ということ」
これを使って、と呟いて、ノアは刀を振り払った。
ひゅっ、と空気を裂いて音が鳴る。
「アナタ達ふたりにはもうココロしかない」
黒い鞘に刀を納めながら、ノアはそう続けた。
体と心が切り離されたその時が、死ぬ時。
魂だけの存在となり、天へ昇るか、こうして夢の世界に囚われるかとなる。
「しかし、彼女の死は予定に無かったデス。そもそもまだ死んでいませんデスから、こうして夢の世界に『ひっかかってしまった』彼女のココロを拾いに来た、というわけ」
「あんたが、亜紀を狩れば……亜紀は、元の世界に戻れるの?」
喉に何かが絡みつくような、不快感とも焦燥とも期待ともつかない感情がバクを捕える。
――亜紀だけでも、戻れるなら戻してやりたい。
彼がずっと願っていたことだった。
ただ、亜紀が『一緒じゃないと意味がない』と突っぱねたから、二人で一緒に戻れる方法を探していこうという彼女の意見に、表向きは同調している。
しかし今目の前に降って沸いた提案は、バクが望むのを諦めた道のひとつ。
もちろん、亜紀を手放したくないのは彼も同じだった。
かといっていつまでも夢の世界に囚われた自分の傍に彼女を縛りつけておくことなんて、できない。
そんなものは心中するのと同じだ。
可能性のある若い身を、死人と心中させるなんてできるわけがない。
ノアは親指で鍔を撫でながら、答える。
その表情に、さきほどまで浮かんでいた余裕がかき消えた。
「……ワタシも確証はないのデス。世界と切り離された魂は、『もう半分』であるカラダを求めて飛んでいく。彼女の生きたいという気持ちが強ければカラダに辿りついて息を吹き返すデスが、そうでなかった場合はそのまま死人の魂としてさよならデスね」
「君ができるのは、あくまで『切り離す』だけで、そこから先は……アキの魂次第、ってわけか」
オーレはノアの言葉を繰り返しながら、状況を整理する。
死期の近いヒトの魂は放っておいても昇るデスがね、とノアは付け足した。
それからすうっと手を伸ばし、亜紀の入っていった扉を指さす。
長い和服の袖が重力に倣って肘のほうへと滑り落ちて、骨ばった細く白い生気のない腕が露わになった。
「ただ、彼女の生の匂いは非常に強い。夢の中ならともかく、『ここ』に生者がいると、その匂いに惹き付けられて色々寄ってくるデス」
ワタシとか、と付け足してバクに振りむく。
彼はオーレをちらと横目で見やり、そういえば、と思い返した。
「確かに亜紀が来てから妙に『同類』に会う。あんたもだし、オーレも、あの女も」
バクが『貘』になってから亜紀に会うまでの数年の間、誰とも会うことはなかったのだ。
ところが、彼女がこうして夢の世界に落ちてきてからというもの、オーレをはじめとして、一年間の間に会いすぎている。
「無意識のうちに惹かれてしまうのデスよ。もともと彼女には『貘』の素質があったし、夢の世界への順応性も高い。……よく一年も無事だったものデス」
どこか感嘆するような声色で、独り言のように呟きながらノアはうんうんと頷いた。
「その口ぶりだと、『死神』はまだ親切なお遣いみたいだね」
「ええ。ワタシ達はちゃんと世界の仕組みに絡んだ死の実行者デス。しかし野蛮なものだと、自分の欲のために、予定外の魂を食い散らかしたり」
「そういう奴らに亜紀が喰われる可能性もあった、ってわけか」
――ノアの話に筋は通っている。
亜紀は死ぬべきじゃない人間だったのに、イレギュラーな方法でこの世界へと魂を零してしまった。
その間違いを正しに来たという彼女の発言が本当ならば、亜紀を元の現実へと戻す事が出来るかもしれない。
「まあそういう場合はどうにか別の手段で辻褄を合せるデス。あまり良いことではないデスがね……彼女の件も予定外デスからそこそこ迷惑したのデスよー」
「……俺を責められても」
じっとりと恨めしげな視線を送ってくるノアを見て、バクは僅かに眉根を寄せる。
バクはもともと亜紀の核を食べるつもりではなかったのに、自分からぶち壊しにいったのは亜紀だ。
自己責任と言ってしまえばそれまでだが、彼女とて知らなかったこと。
責任をどこに求めるかだなんて、考えるだけ無駄だろう。
「さて。オーレ・ルゲイエ? そろそろ彼女にも話をさせてほしいのデス」
「……あ、あぁ。そうだね」
その扉を押さえつけるのをやめろ、という婉曲的な要請に、オーレは応じる。
しかしさきほどまで彼の背中に感じられていた圧迫感は消え失せて、扉を解放してもそこから誰かが出てくる気配はない。
扉を開けて中を覗いてみるも、そこにあるのは煌めく夜景だけ。
つい先刻までドアを叩いていた亜紀の姿はどこにも見えない。
「……諦めちゃったかな」
それだけ言うと向かいの扉からひらりと降りて、バクは亜紀が入っている夢の中へと身を滑り込ませた。
オーレもそれを追おうかとして、しかしやめにする。
これはバクの役割だし、二人の間に紡がれた絆は自分が侵せるものでもない。
言葉少なに飛び込んだバクを見ていたノアは、おかしそうにくすくすと笑う。
――まるで過保護な親だ。
確かにあの少女は、例えるならば永遠に大人になれない子供なのだけれど。
「あの貘は入れ込みすぎデスねぇ」
呆れた声で言うノアに、オーレは少しだけ困って言葉を選ぶように唸った。
これから別れようとしている相手だというのに、こんな調子でどうなるのだろう。
亜紀と別れた後、バク本人は果たして平気でいられるのだろうか?
「……自分もそれがちょっとだけ不安、かな。でもきっと、彼らは自分が思っているよりずっとしっかりしているから大丈夫……だよ」
たぶんね、と言い添えて、オーレは扉の向こうに広がる茫漠とした闇を見つめた。
そこから感じ取れる亜紀の気配とバクの気配が少しずつ距離を近付けていっているのを掴みとり、ほうと息を吐く。
「会うのが早過ぎた、のかな?」
楽しい夢のはずなのに、こんなにも不安になるのは初めてだった。
空間を把握する感覚が乱されそうな、闇と光の煌めく世界。
そのうちこの夢の世界が崩れ落ちるまで、また夜景を楽しんで待っていようと思っても、胸の中で確かに増していく不安に嘘はつけない。
どこまで広がっているのか見当もつかないし、飛び続けても変り映えのしない光景が続くだけ。
自分が動いているのか、風景だけが動いているのかわからない。
大海原で漂流したらきっとこんな気分になるのだろう、と亜紀は思った。
「……バク」
思わず、青年の名前を呼ぶ。
どんな時にだって頼りになる彼の姿は、今ここにない。
力の未熟な自分をいつだってフォローしてくれて、ぶつくさ言いながらも守ってくれて――なにがあっても、バクがいてくれたらなんとかなった。
ところがどうだろう、亜紀一人では技術的にも精神的にも、彼の足元にも及ばない。
目元にじわりと熱いものが滲む。
ただでさえ頼りない自分は、一人ぼっちじゃなにもできなかった。
「――亜紀!」
闇を切り裂くようにして、それは亜紀の耳に届く。
普段ぼそぼそと喋る彼の、珍しく慌てたような声。
トーンが違っても分かる。
今、一番聞きたかった声だから。
「……バクっ!?」
振り返ったそこにいたのは、幻覚でも幻聴でもない、紛れもなくバクの姿だった。
視界を確保するためか、普段被られているフードは背中側へと外されている。
彼は亜紀の腕を掴み、今度はいつもよりいくらか落とした声色で言った。
「や……っと捕まえた。亜紀、そんなに速く飛べたっけ?」
「え?」
亜紀はきょとんとした顔をする。
バクの問いがあまりにも見当はずれなところから飛んできて、一瞬頭が置いていかれた。
どこか疲れたような顔の彼と、言葉の意味を照らし合わせて、ようやくなんとなく理解する。
「……そんな速かった?」
瞬間移動はできずとも、空中を駆けることはほぼ自由自在にできるようになっていた。
しかし今、自分はそこまで速度を出していただろうか?
体に風を受けていた感覚も無かったし――と、そこでふとあることに思い至る。
「あ、そっか……『無意識』だった、から」
飛ぶ速度に限界がくるのは、飛べば『風を切る感覚』があるからだ。
スピードを上げ過ぎると、そのぶん風当たりも強くなる。
しかし亜紀はその風の感覚を忘れて飛んでいた。
だから、際限なく速度を上げてしまっていたのだった。
「……おかげで捕まえるのに苦労したよ。そんなことはいいから、とにかく一度外に出て」
バクは掴んでいた亜紀の腕を離すと、そのまま宙に手をかざす。
燐光とともに扉とドアノブが現れた。
「う、うん。わざわざ迎えに来てくれたんだ」
「――ちょっと、ね。出ればわかるよ」
いまいちすっきりしない彼の物言いに亜紀は言いようの知れぬ感覚を抱くが、バクの表情が普段通りであるのを上目でちらと伺って、胸を落ち付けさせる。
夢から出られないと思った時よりずっと安心していることに気付いたのだ。
今の、下らないとも言える速度のやりとりで、さっきまで燻ぶっていた不安もどこかに吹き飛んでいる。
何が扉の外で起きているのかはわからないが、バクがいてくれたら大丈夫。
彼に気付かれないようパーカーの裾をちょっとだけつまんで、その後ろ姿に続いた。
扉の外で亜紀とバクを待ち受けていたのは、丸いちゃぶ台に座布団という純和風スタイルでお茶をすすりつつくつろぎきっているノアとオーレだった。
「遅かったデスねぇ、そろそろ二杯目のお茶でも淹れようか、なんて話していたところデス」
「心外だなあ、自分はそんな悠長なこと言っていないよ。ほら、二人も出てきたことだしさっさと本題に入ろう。座って座って」
オーレもオーレで容姿にそぐわぬ綺麗な正座で座布団の上に収まっており、空いている二つの座布団を亜紀とバクに勧める。
これは誰で、いつからオーレとこんなに親しげで、何がどうしてこうなって、本題ってなんのことで?
亜紀は突如与えられた意味不明な情報が多すぎてこめかみを押さえた。
5W1Hのうち、Whereしか分からない。
「……ええと、誰?」
ひとまず座布団に腰を降ろしつつ、亜紀は一番根っこにありそうな疑問から投げかけてみた。
尋ねられたノアは湯呑をちゃぶ台に置くと、頬杖をついて亜紀を見上げる。
それからすっと目を細め、口角を上げた。
どこか挑発的な視線を向けられて、息を飲む亜紀。
信頼しているオーレが親しげにしていたのだから変な人じゃないだろう、と内心言い聞かせても、ノアの纏うオーラはあまりにも禍々しかった。
怯んだ亜紀を見て、白黒の少女は満足げに微笑む。
それから傍らに置いていた日本刀を手にとって、それを地に突くようにしながら持ち上げてみせた。
「ワタシは死神のノア。貘としてのアナタを『狩り』に来たのデス」
「だから、そうやって誤解を招く自己紹介はしないようにってさっき言ったばっかりじゃないか! まったくもう」
「間違ったことは言ってないのデス?」
兄か父のように注意するオーレに対し、やはりノアはくすくすと可笑しそうに笑いながら首を傾げるばかりだった。
何も知らずに見れば兄妹のような微笑ましいやりとりかもしれなかったが、何も知らなさすぎる亜紀にとってはさらなる混乱の種でしかない。
「……あのさ、二人とも。亜紀が混乱するから順序立てて説明してあげて」
座ろうともせず黙って立っていたバクが、亜紀の隣に腰を降ろしながら呆れた声をあげた。
「大丈夫、悪い話じゃないから落ち着いて聞いて」
それから亜紀には小さな声で、宥めるようにこう言い添える。
ではワタシが、とノアが手を挙げて、先ほどバクとオーレの二人にしたこととおおむね同じ説明を繰り返した。
時折オーレがフォローを入れ、亜紀はそれを黙って聞き続ける。
ただ、『元の現実に帰れる確証がない』ことはノアもオーレも一切触れずに伏せていた。
きっとオーレが言わないようにノアに釘を刺したのだろう、とバクは察する。
不安の種を撒かれたら、それに飲まれて『生きる希望』が削げかねない。
「……ってことはつまり、あたしは……あたしだけは、戻れるってこと?」
怪訝そうな顔をして、亜紀が聞き返す。
亜紀一人しか戻れない、ということについては隠さずに話していた。
隠したところできっと聞かれるだろうし、騙していたことがどこかのタイミングでバレてしまえば、これもやはり亜紀の魂が現実に辿りつく障害になりかねない。
「そうなるデスね。ああ、ほんっとにアナタは臭うのデスよ。生の臭いがぷんぷんするデス」
早く狩りたいのデス、と言ってノアは恍惚とした表情を浮かべた。
魂の在り処を有るべきところへと修正する作業をきちんと行うことは、死神にとって『徳の溜まる』行為らしい。
任期50年、それが終了したら『楽園』行きを約束されているという死神は、行いで積んできた『徳』でその『楽園』での扱いに差が出てくるのだという。
要するに天国みたいなものなのだろうと亜紀は捉えていたが、ノアはとにかくその楽園に行けることを楽しみにしているようだった。
「とはいっても心がこちらに来ている以上現実のアナタの体は抜け殻デスね。長引けば長引くだけ戻りにくくなるのデス。というわけで」
衣擦れの音もなく立ち上がると、ノアは黒塗りの鞘から刀を抜く。
銀の刀身の淡い光を認め、亜紀の背筋に冷たいものが走った。
――バクが銃弾の夢に打ち抜かれたのとは、違う。
どんな『認識』をしても問答無用で必ず殺す、『そういうもの』だ――!
華奢な腕は頼りなく見えるが、大ぶりの日本刀を危なげなく構えていた。
切っ先を亜紀の眼前へと向ける。
亜紀はそこから目を離さない。
「臭いの濃いうちに、ちゃちゃっとヤってしまうべきデス」
バクもオーレも止めなかった。
わかっている。
二人は、自分を現実に戻してあげたいと思っていてくれていることを。
でも。
それでも。
亜紀の口は、ほとんど思いのまま、たった一言をはっきりと口にした。
「……やだ」
「……ま、言うと思った」
変わらぬ表情のまま、バクは片手で頬杖をついた。
ノアがすぐに狩りたがることも、亜紀がそれを拒絶することも、予定調和。
そう言いたげなほどに無感情な声だった。
ノアもノアで、亜紀の同意を得てから狩りたいと思っていたため、強引に狩るつもりはない。
亜紀の魂が正しく現実に辿りついてくれなくては、自分の徳としてポイントにならないのだ。
今の亜紀の『生者の臭い』であれば放っておいても平気そうだと判断していたが、バクの存在がそれを曇らせる。
亜紀は、この貘に未練がありすぎるのだ、と。
それを断ち切ってやらなくては万が一がありえそうなほどに、亜紀の生の臭いもバクへの想いも強い。
ふ、とつまらなさそうに息を吐いて、ノアは刀を鞘に収めた。
かちり、と鍔が鳴り、日本刀はそのまま黒い靄のように空間に溶ける。
「ワタシも長いデスから。イヤだと言うのなら無理にはしないのデス」
それからノアが空間に手を翳すと、次の瞬間ぱたぱたと羽ばたく白い蝶が指の隙間から現れたかのように見えた。
大きめのアゲハ蝶ほどもあるそれは、彼女の手に操られるかのように宙を舞う。
す、と軽く指差した先は亜紀。
白い蝶はその指示通りに亜紀のほうへと飛んでいき、受けとめようとした亜紀の手の中で動かなくなる。
「……紙の蝶?」
「その気になったら『呼んで』欲しいのデス。……手遅れになってからの事はワタシも知らないデスから、しっかり考えることデスね」
それでは、と言い残し、次の瞬間ノアは姿を消していた。
亜紀の手の中に、薄い和紙で出来た真っ白な蝶だけが残る。
ノアの渡してきた、というより飛ばしてきた蝶は、羽ばたいていたのが嘘であったかのようにぴくりとも動かず亜紀の手の中に収まっていた。
少しざらついた手触り。
それは僅かな綻びも無く、見事に切り抜かれたもののように見えた。
「それ、俺に貸して」
バクはそうつっけんどんに言いながら亜紀に手を差し出す。
言われるがまま彼にそれを委ねると、バクは何度かそれを裏返しながら観察した後にこう言い放った。
「これは俺が持っておく」
「え、なんで」
あたしに渡してきたものなのに、と反論すると、バクはゆるく首を振る。
親指と人差し指でつまんだ蝶を見せつけるようにひらひらと揺らして見せると、呆れたように息を吐いた。
「君が持ってたら何をしでかすか分からないからだよ。……これ、破いたりしたらどうなるんだろうね? 『あの時』みたいに」
そう言われて亜紀は返す言葉を失う。
元々亜紀は自分の核であった蝶を自分でぶち壊してしまったことでこの夢の世界へと囚われてしまったのだ。
同じ蝶の形を取っているノアのそれと亜紀の核を重ねてしまうのは、彼にとって無理のないことだった。
さすがにこれを破壊してノアに危害が及ぶということはないだろう。
亜紀もバクも、そうとは思っていない。
ただ、これを破壊してしまえば、こちらからノアにコンタクトできる手段を失ってしまう。
亜紀がノアとの繋がりを断とうとしてこれを破り捨てる可能性を、バクは危惧していたのだった。
「大丈夫、そんなことしないよ……」
「どうだか。ちょっとは考えてたんじゃないの」
「ま、まあまあ二人とも。今はそれよりほかにもやるべきことがあるんじゃないかな?」
やや口ごもりながらの亜紀に、どこか叱るような物言いのバク。
その二人を仲裁するように、オーレが柔らかく間に入る。
ノアが言っていたように『手遅れになる』可能性があるなら、結論は早く出すべきだ。
しかしバクはそれを余計な手出しだとでも言いたげに彼をぎろりと睨みながら、蝶をポケットに突っ込んだ。
それから踵を返すと、手近な扉に手をかざす。
「……そうだね。そろそろ『悪夢』をまともに食べにいかないとまずい時期だ」
「って、ちょっと」
亜紀が何か言う前に、その身体はひらりと扉の中へと消えていく。
ごめん、とだけ言い残して、亜紀も早足でそれを追いかけた。
残されたオーレ一人。
思わず苦笑が漏れる。
「やーれやれ。自分は邪魔者扱いか」
冷静なように見えてその実まったく冷静ではないバクのことは、もうなんとなく分かっていた。
亜紀のこれからのことと本人の意思の狭間で一番揺れているのは彼なのだ。
結論を出すまで暫くかかるかもしれない。
この問題に冷静に向き合えるほど、バクも大人ではないのだろう。
ひとまず、若い二人の貘のことはお互いの問題として、オーレも自分の『仕事』を果たすべく近くの扉へと飛び込んだ。




