一章 砂上の監獄 【第二節】
淡い斜陽を浴びて輝く悠久の都市。
クロノスの首都にして、砂漠の真ん中に直立する都市――『聖都レディテノア』。
漆黒の断崖のような城壁にその身を覆う古都は古都の名にふさわしく、レンガ造りの建物を主流として、石畳の通路が縦横に走る古臭い街並みだ。
城壁の外と中では景色が激変する。
絶壁の外に一歩足を踏み出せば無骨な黄金色の景色が際限なく広がるが、その内部は砂上を感じさせないほどの閑静さとエレガントな雰囲気を保っている。
外部とは隔絶された空間、と比喩するのも過言ではない。
かつてはクロノスの軍事本部が設置されていた場所であるが、フォグナ教信者達の内乱により国は倒れ、政権が交代した。
今、この国を率いるのは、フォグナ教の教祖にして教皇である『ルクセント=O=アウグス』である。
彼の政治に対する敏腕さは、事後に旧クロノス一派の反乱を一度も発生させていないという事実が如実に物語っていた。
聖職者である前に、完成された統率者であった。
そんな彼が『フォグナ教』を立ち上げたのは、己の野望のための手駒を得るため、という噂もあるが真相は知れない。
―――さておき、その城壁の入り口に二人の人間の姿があった。
男と女、とてもではないが旅行帰りのカップルには見えなさそう、と衛兵は思った。
どことなく雰囲気が固い、というか淀んでいるような気がしたからだ。
「通行証をみせてください」
「はい、ご苦労様です」
イレーヌはねぎらいの言葉と一緒に笑顔を向け、ポケットから紙切れを取り出して衛兵に渡す。
「……はい、結構です。あなたのも見せてください」
一通り書かれた文字に目を通してイレーヌに返すと、衛兵は今度はその横に直立する黒づくめの男に向き直った。
「……話が来ているハズだ。通してくれ」
「は? と、言うと?」
「クライド=マーキス、と言えば分かってくれるか?」
「っ!」
言うと、クライドは被っていた帽子を右手で掴み、ゆっくりと胸元へと運んだ。
帽子が頭から外れると同時に、後頭部で結び、帽子の中に収めてあった黒髪がふわりと姿を現した。
結った髪の長さは腰までは届かないものの、肩を超えるほどはある。
極端にアシンメトリーな前髪。
顔の右半分は鼻先まで伸びているにも関わらず、左半分には一髪たりとも下がってはいない。
その代わりに、あらわになった左目には、整った眉と紅眼を縦に走る小さな傷跡があった。
形と大きさからして、ナイフか何かの斬傷だろうか。
顔つきは精悍、その一言に尽きるほどの美形である。
「俺の顔がどうかしたか?」
「えっ? あっ」
クライドは目を向けないまま、左隣からの食い入るような視線に声を投げた。
気が付けば、イレーヌは目の前に突然現れた美形に一瞬ほど魅入っていた。
――ふ、不覚っ。
心の中で、声が囁く。
そのやりとりの間、衛兵は一旦城壁の片隅に掘られた休憩室に戻り、いそいそと何かを整理していた。
慌てて紙切れを片手に戻ってくるや否や、さっきとは違い、厳正に気をつけをして敬礼した。
何故だか、頬の筋肉がけいれんしている。
「リュッ、リュクゥル教会専属の神殿騎士長……クライド=マーキス様とは露知らず、とんだご無礼を致しました!」
「え゛っ!?」
すり鉢の上ぶたが微動するような、濁った低い声が呻いた。
もはや不愉快な音とも見て取れるその声に、残りの二人は愕然と口を開けるイレーヌを見やった。
まだ若々しい顔の口元がひきつってしわくちゃになっている。
そうしていると「プラス5歳には見えるぞ」とでも言いたげに、クライドは侮蔑を込めて目を細めた。
「し、ししっ、神殿騎士長っ!?」
「……なんだ、やぶから棒にキャンキャンと。来たるべき時が来たメス猫じゃあるまいし」
遠まわしに発情期という揶揄を投げるが、今のイレーヌには理解するほどの冷静さは無かった。
いや、理解したとしても今はそんなことはどうだって良かっただろう。
「し、神殿騎士って、だって、あのっ!! ……私、何か失礼な事でも言いましたっけ?」
「あぁ、言ったな」
「な、何て?」
「教団が気に入らないだの、どうだの。あと、俺の質問に生返事とか」
「あっ、はははっ! そんなことも言いましたっけねぇ……ところで、なんか怒ってます?」
「特段、何も」
ゆっくりと、強調するようにゆっくりとした棒読みな口調。
「あはっ、ははっ。そうですか………」
終わった。
さよなら、私のシスター出世コース。
イレーヌはこの上ないほどの満面の苦笑を浮かべた裏で、骨抜きになるほど深いため息を吐いき、眩いばかりに輝く将来の自分に別れを告げた。
神殿騎士とは、クロノス各地にある教会を守護する役目を持った騎士の事をいう。
教会一つにつき、最低一人は配置される役職の者であり、相当の腕利きでなければなれない上、に教団内の階級としても上位ランクに値する。
主な役目は各地の教会の不正監視や、旧クロノス派などの反乱分子の発見。
もとい報復行為の未然防止にある。
つまるところ、教会各地の安全性を受け持つ総責任者なのである。
そしてたった今、ここにいる青ざめた顔の給仕係の女性は、その圧倒的上司の総括者に清々しいほどの無礼を働いたのである。
というか、軽口の分も含めれば現在進行形なのであるが。
それに追い撃つように、リュクゥル教会といえば最南端に位置する教会である。
南西の国『トピア』との軍事境界線のすぐ手前に土地を構えているため、前線拠点の役割も果たしている大教会なのだ。
この場でクビ通告をすることも立場上は可能であるクライドだが、通常は所属している教会に決定権があるため、うかつな事はいえない。
ましてや、曲がりなりにも彼女はトップに立つルクセント教皇の直属であるのだから。
「あ、あの―――」
ムードの険悪化を心配した衛兵は我慢できず口を開いた。
見れば、いかにもまだまだ駆け出し、といった感じの若い男である。
背負った槍に持たれているような、そんな弱弱しい風の童顔ぎみな優男。
「外で何かあったんですか? お嬢さん、あなたさっき護衛も付けずに出て行かれましたから、心配していたんですよ」
「え、えぇ。サボテンの花を摘みに出かけたところを盗賊に襲われてしまって……。でも、ちょうどそこに神殿騎士様が通りかかってくださったので、難を逃れることが」
「あぁ……そういうことだったんですか。でも、あまりほめられた事ではありませんね。以後、郊外に出るときはガードの者を連れて行ってください。なんなら、声をかけてくれれば我々の仲間でも連れて行かせますので」
「はぁ……分かりました」
――知らない人と二人きりなんて恥ずかしいじゃんっ。
言いつけを守らず怒られた子供のようないじけ顔で、イレーヌは言葉を返した。
押さえきれず自然にぷくっと膨れた頬が示すとおり、彼女の精神年齢はあまり高そうではない。
「あっ、騎士長殿。万が一ということもありますので、念のため『勅命状』と『公証』を見せてください」
「やけに物々しいな。以前来た時は公証だけで通れたはずだが……? 勅令状もか?」
「えっ? 騎士長殿はご存知ではないのですか?」
「と、言うと?」
「……ちょっとこちらへ」
衛兵が目招きをする方向に、クライドはゆっくりと歩み寄った。
好奇心に駆られ、後ろから忍び足で付いてこようとしたイレーヌを眼圧で威圧しつつ、衛兵の耳打ちに聴覚を集中させる。
(近頃、神殿騎士ばかりを狙った暗殺事件が立て続けに起こっているんです。いずれも遺体からは剣と金品が盗み取られていたようで。もしや、と)
(……『剣士狩り』か?)
(はい。断定はできませんが、その可能性が高いです。ゆえに、今レディテノアは市民に機密で厳戒態勢を敷いている最中なんですよ)
(……一般人に知れれば余計に事だからな。了解した)
(騎士長殿も注意してください。奴は強い者を優先して狙う、と聞きますので)
(……分かった。気を置こう)
一通り話が終わると、クライドは不満気な顔をして立ち尽くすイレーヌへと歩み寄った。
よほど今の話の内容が気になるせいか、「うー」と小さな唸り声さえ漏らしている。
もしかして、私の解雇通告の相談?
などとも考えたが、それならクライドの性格を考えれば冷徹に、直に言い飛ばすだろうということで自己解決した。
自己解決はすれどそれでも気にはなる。
その小さな好奇心を煽るほどに、こちらに歩いてくるクライドの表情は深刻そうな色を表じていたからだ。
大して普段と変わらない仏頂面なのだが、秘密話の後だと心なしかそう見えてたまらない。
「な、何の話してたんですか……?」
「……世間話だが?」
「世間話でひそひそする必要ってありますかっ!?」
甲高い声でイレーヌが不満をぶち撒けると、クライドはぬっと上半身を前傾してイレーヌの顔を寸ほどの距離に置いた。
傷跡に両断された左目が、一層の色彩を帯びる。
「これ以上の詮索は許さん。命令だ」
「めぇっ……? わっ、分かりましたよ……」
相変わらず憮然と、この上なく簡潔に鬼気とした迫力が言葉に乗っている。
単純に、声が低くて怖いとか、そういうレベルではない。
幾度かは知らないものの、死線を越えてきた戦士の威圧感、というものなのだろうか。
空気が振動するくらいの、ぴりぴりとした殺気。
普通、そういう危険なものは心のタンスの中で来るべき時のためにそっと暖めておくべきものなのに、この鉄仮面ときたらそれを発生させる変な器官が常時フルオープンなのだ。
「私の処遇……とかじゃないですよね?」
「ん? 何を言っている。別に気にしていないと言っただろう……信じろ」
「ホント? ホントにですかっ?」
「いや、嘘かも知れん」
「はぁっ!?」
「冗談だ」
「…………」
冗談ならせめて、その無表情を取っ払ってもっとユニークなものにしてくれ。
イレーヌは不安そうにこちらのやりとりを見やる衛兵を見て、その優しさにちょっと泣きたい衝動に駆られた。
§§§
イレーヌの沈みきった心持ちなど歯牙にもかけず、今日も街はにぎわっていた。
日が暮れ始め、昼間とはまた違った装いで活気が生まれる。
晩のご飯用の食材を売る店、昼間を仕事に費やした者達が呑む酒場、楽しそうに食卓を囲む
民家など、それぞれの形で『街』を作っていた。
――この風景だけを見ていれば、とてもではないが戦争をしているとは考えがたい。
しかし、事実、この国は戦争の渦中にある。
今日も今日で、数え切れないほどの命が世界から風化している。
それがどれだけ残忍な形で、どれだけ酷い状況かということを、この街で知る者は少ない。
知らないということ。
果たしてそれを幸せと呼ぶかは、小難しい哲学書をひっくり返したところで、簡単に出てくる答えではないのは万人が既知している。
「……平和、か」
「はいっ?」
衛兵に手配された馬車に乗り、ラウディマル教会を目指す道中。
クライドのほんの小さな独白に、イレーヌは嫌そうに反応した。
それなのに、こんな小さな二人がけの馬車に座るなど。
いちいち小言か皮肉か分からないようなものに振り回されるのは、たくさんだ。
が、話さないわけにもいかない。
だって、上司だもん。
イレーヌの不慣れな大人の付き合い、というヤツだった。
「なぁ、『案内役』。お前は今のこの街をどう見る?」
――来た。
「えぇ、そうですね。とても、活気のあって、それでいて暖かで、平和な街だと思いますが。あ、私的意見なので、どうかお気になさらず」
とりあえず語尾で釘を刺したが、半分上の空のような返答だ。
それに案内役と言われても、衛兵に「ラウディマルまで同行してあげてください」と半ば強引に馬車に乗せられただけである。
勝手に同行者から案内役まで格上げされていたら、たまったもんじゃない。
そんな嫌悪感を悟られぬように、薄っぺらな満面の笑みでクライドの返答を待った。
皮肉が返ってきそう、と直感がざわめく。
イレーヌの言葉を聞いてしばらく、クライドは虚空を眺めていた。
途端に、仏頂面の頬が緩んだ。
先ほどまで何度も見ていた、皮肉を含んだ苦笑とは一線を画した口の引きつりだった。
『失笑』。
下らなすぎて笑った、という印象だった。
良くも悪くも、これがクライドが初めてイレーヌに見せた『感情』のこもった表情だった。
視線は変わることなく、等間隔に走り抜けていく街灯を眺めている。
引き締まった輪郭の横顔。
黙ったまま無表情なら、それなりに女性から好感を持たれそうな中性的な顔立ちだ。
察するに歳もイレーヌと同じく、20代前半あたり、下手をすれば10代であろうか。
それなのに悪趣味な帽子を目深に被り、口元には悪意さえ感じられるような歪みを表じている。
もはや宝の持ち腐れと言えるほど性格と顔が不一致だ、とイレーヌは思った。
不意に、横顔の唇が動く。
「……千の犠牲の上に成り立つ一つの安寧が平和、か。お気楽なものだな。しかし存外、明後日な方向の回答でもない。常に人はそう呼んできたし、これからもそうであるだろうし」
神妙な態度を保っていたイレーヌは、その言葉に肩をびくりと動かした。
そうだ。
今日も今日で一体何人が死んだのかなど、知る由も無いことだ。
さっき自分が襲われたときに感じた恐怖など、国境付近にいけばいくらでも転がっている。
そう思うとのんきな自分に対する戒めと、畏怖が同時に背筋を走った。
「なにが……言いたいんですか?」
意味深な言葉に裏を感じた。
なにか底知れぬ理由に裏づけされたような、強いメッセージを。
その『なにか』の存在に気付いたイレーヌを賞賛するかのように、クライドは鼻を鳴らして笑った。
「自虐だよ。俺達、人間に対しての、な」
ぶっきらぼうな喋り方ではあるが、クライドの衷情から出たらしい言葉だった。
自分さえ安全ならば、他者に過度な関心など持たないのが人間、という意味だろうか。
すくなくともイレーヌはそう受け取った。
そして、ダイレクトに心に響く。
いや、これは戒めの類の息苦しさだ。
なぜなら、さっきの自分の不用意な発言は、その一論を鮮明に体言したものだったからだ。
「違う……そんなことは……」
「無いとでも?」
「無いわけじゃない……でも、みんながみんなそうじゃない! 本当に他人の事を思いやる人だっているもの!」
「一人でもいれば、千人いるのと遜色ない。五十歩百歩ってやつだ。それに、少なくともここに一人居ることだしな」
盗賊らしき連中と向き合ったときに見せた冷笑が、今度は助けられた側に向けられた。
目の裏を何かがつつく。
それは、目の前の男があまりに鋭い瞳をしているからとか、そういう簡単なことではない。
自責の念。
幻想で彩られた街で、平和に呆けた軽口を叩いた自分への羞恥心だ。
知らずの内にうつむき、涙目になっているイレーヌを見て、クライドは呆れたように目を瞑り、首を竦めて見せた。
焦って慰めようとする様子ではない。
まるで最初から、彼女が悲観に駆られるのを計算していたかのように自然体だった。
「そんなに悲しそうな目をするな。お前みたいなお気楽人がいなければ、この世界はこのうえなく気だるいものになる。常に重苦しいせめぎ合いの中に立っているみたいに、な」
「えっ……?」
「楽観も必要ってことさ。だが、決して忘れるな。昼夜兼行で絶え間なく命が散っていることを。それを知っているヤツと、知らないヤツとの人間の価値の差は大きい」
「でも……」
袖でごしごしと目元を拭って、イレーヌはクライドを習ったような呟きをこぼした。
「そんな酷い事実を知っても楽しく生きるなんて、無理でしょう……? 特にあなた達みたいに前線で戦う人たちって……」
「いいや」
即座に帰ってきた意外な言葉に、イレーヌは小さな驚きの視線をクライドに返した。
目の前に居たのは、別人だった。
さっきまでの無表情が嘘のような、優しい笑み。
「事実、俺は今、少し楽しいが?」
「っ!」
不意に鼓動が一拍、高鳴るのを感じた。
イレーヌは一瞬、釘付けになる。
満面とはいえないまでも、その顔付きでの微笑みは反則だ。
冷笑なんかよりもずっと似合っている。
イレーヌでなくとも魅了され得るであろう笑顔は、しかし、すぐにゆっくりと消えた。
「強い人間はそこのところを大いに理解している。そして割り切るのが上手いんだよ―――俺みたいにな」
これまた突然、一転して戦慄が走った。
正確には、クライドが先ほどまでの殺気を含んだ気配に戻っただけだったのだが。
その激しい落差が背筋の寒気を招いたのだ。
「人の顔は『一つじゃない』。そしてその顔の数が多いほど、柔軟で多用できる。人間関係ありき、己の目論みのために使うもありき。真の兵はな、言い換えれば自分の多重人格を使い分けることができるやつの事を言うんだ」
「……? どういうことですか?」
「遠くない将来、すぐに分かるさ」
要は中庸だ、とクライドが言い結ぶと、馬車を牽引する馬の蹄鉄音が止まった。
どうやら到着したらしい。
クライドは頭の帽子を押さえて馬車からさっさと飛び降りた。
ローブの裾が宙に浮き、着地の振動で黒い鞘の中に納まる刃がカチャリと鳴る。
―――しばらく考え込んで動けなかったイレーヌも、馬車の騎手から「どうされました?」と尋ねられて目を覚ました。




