序章
昭和15年、帝都東京。
世界大戦が迫る混迷の時代。
男はそこにいた。
容姿端麗、頭脳明晰、文武両道。
いずれも他人が彼を評する際には、欠かせない言葉であり、彼自身も自覚している個性である。
彼が6尺近い細身の長身に当世風の背広を纏い、新宿のネオン街を歩けば、擦れ違う女たちが頬を染め、振り返る。
銀縁眼鏡のレンズ越しに、歌舞伎役者の如き切れ長の涼やかな目が放つ視線は、スノッブかつ冷ややかだが、一方で、静かな夜半の湖畔を彷彿させるしっとりとした知性と品を湛えている。
色白で生まれつき血色の良くない肌も、きつい印象の顔立ちや、いかにも神経質そうな仕草と相成り、彼の凍てついた氷のような美貌を際立たせる。
加えて、彼は容色だけでなく、頭脳や運動能力にも恵まれており、並外れた努力家でもあった。
幼い頃から寝る間も惜しんで勉学に勤しみ、街の神童と持て囃され、東京帝国大学法学部では、次席の地位を死守し続けた。
また、尋常小学校に上がる前から、幾度となく血豆をこさえて鍛錬に励んだ剣道では、免許皆伝の腕前を誇っている。
ところが、昭和12年の初冬。
大学卒業を控えた彼は、既に高等文官試験の合格通知を受け取り、内務省への入省が決まっていたにも関わらず、高級官僚への道を自ら放棄した。
それどころか、眼前に広がっていた名誉と富と安定を一度に手に出来る選択肢全てを、ドブに投げ捨てた。
一切の約束された将来を投げ捨て、向かった場所は皇国共済組合基金という帝国陸軍の外郭団体だった。
昭和15年現在、彼はそのどことなく胡散臭い名称の外郭団体で事務員として働き、陸軍人の福利厚生に関する業務に携わっている。
仕事は退屈だが、定時きっかりに終わるので、素直にありがたいと感じている。
けれども、それは表の姿。
皇国共済組合基金、通称『無番地』の本来業務は、世界各地を舞台とした諜報・防諜任務であり、陸軍人の福利厚生の為ではなく、帝国陸軍ひいては大日本帝国の国益の為に活動している。
つまるところ、無番地の正体は、陸軍中野学校を筆頭に、秘密裏に活躍する陸軍傘下の諜報機関である。
そして、彼の本職は、無番地所属の諜報員。
富も名声も欲せず、己の頭脳だけを頼りに、闇から闇を渡り歩く存在。
いつの日か命果てる時は、たった一人、庭先のなごり雪のように、ひっそりと誰にも悟られず消えていく運命にある。
彼はそんな己の身の上を、悲観などしていない。
学生時代の選択に後悔はない。
むしろ、常に人間の能力の極限に挑み続け、壁を打ち破る度に得られる、強烈な充実感とナルシズムは他のどの職業でも得られることはないと確信し、満足している。
窮地を切り抜け、漸く息つく瞬間。
生きていることを実感できるあの瞬間こそが、自分がこの世に生まれてきた意義を見出せる、彼にとっては極上の時間である。
就職以来、彼の本名は、正月、実家に帰省した時くらいしか呼ばれなくなった。
高等学校時代から恒例になっている年末年始の帰省だって、いつまでできるのかも分からない。
必要ならば、例え肉体的には壮健であろうと、戸籍上の死を受け入れ、全くの別人として生きるのが諜報員の定めである。
現状、『本当の彼』の実在は不安定だ。
いつ何時、消滅してしまっても不思議ではない。
だから、敢えてここに彼の本名を記す必要はなかろう。
殆ど使われていない上に、今後なくなる可能性のある名前を書いたところで、あまり意味はない。
しかし、いつまでも『彼』と記し続けるのも、別の『彼』と混同しそうで、またややこしいので、代わりに彼が仕事上、主に名乗っている偽名を記しておこう。
その名は、明智湖太郎。
この物語の主人公となる男の名である。