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彼の国の神語  作者: 八枝
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「閉幕」






 灰色の雲が空を覆っている。

 ここは丘。

 どこの丘なのか氷雨にも分からないが、周りは冬でもなお力強く生きている丈の低い草。

 人の姿は他にはない。

 家も見えない。

 野原と、丘。

 氷雨の心に不安はない。

 ここがどこなのか分からなくとも構わない。

 主が選んだ場所なのだから。

 風が吹く。

 冷たい風が、氷雨の長い黒髪を流す。

 その中で姿勢よく立ち、ただ主を待つ。

 少しの間だ。

 今まで待ってきた時間に比べれば、瞬きのような時間。

 それでも、それでさえも待ち遠しい。

 高鳴る鼓動を感じながら、待ち望む。

 最初には何を申し上げようか。

 やはりお帰りなさいませ、と。

 それから何をして差し上げようか。

 たくさんありすぎて、選べない。

 どうしましょう。

 とりあえず、皆のところへはお連れしなければ。

 風が吹く。

 とても冷たい風が、氷雨の艶やかな黒髪を流す。

 巫女装束の裾を揺らす。

 そして。

 ゆらりと湧き出すようにして、人影が現れた。

 もう、見慣れた姿。

 万感の思い。

 もう、どのようにも表わせぬ、どうしようもない気持ち。

「……お帰りなさいませ……」

 氷雨は美しい、とても美しい微笑みとともに、主たる八岐大蛇を出迎えた。

 八岐大蛇は、一護は頷いた。

「ただいま」

 二人の間に、ちらりちらりと白いものが舞い降りてきた。

 雪。

 その中を、一護は氷雨の元へと歩み寄る。

「氷雨……」

「御無事で、なによりでございます……」

 氷雨は艶やかに愛しい主を見上げる。

 一護は、神の記憶と人の心で、言った。

「頑張ったな」

 どこか無愛想にすら響くその声は、しかし優しい。

 氷雨はゆるやかにかぶりを振る。

「いいえ……このようなこと、いかほどのものでも、ございま、せ…………」

 言葉が、続けられなかった。

 頬に、温かい感覚。

 それは風に冷やされながらも次々と溢れ出し、留まることがない。

「あれ……お、おかしゅうございますね……何でもございませんので、今しばし……」

 氷雨は戸惑ったように微笑みを浮かべたまま、ぽろぽろと涙をこぼしながらそんなことを言う。

 一護は氷雨を抱き寄せた。

 細い腰を抱き、ゆるやかに撫でるように艶やかな黒髪に指を通す。

 背は高いのに意外なほど小さく感じる。

 この華奢な体躯でずっと戦い続けてきたのだ。

 本当に抱きしめてもいいのかと、以前迷った理由が今になって分かる。

 崩してしまいそうだったから。

 だが、今ならもういい。

 一護の中で、人が薄れてゆく。

 いかに表裏一体であったとはいえ、いかに生の濃さの違いがあったとはいえ、それ以上に存在に差がありすぎる。

 大海に一滴落とされた墨は、その瞬間はそこを濃く染めようとも、やがては薄れて見えなくなるのだ。

 それでも変わらず問う。

「つらかったか……?」

 氷雨は肩を震わせるのみで応えずにいたが、やがて蚊の鳴くような声で答えた。

「……意地悪でございます……そのようなこと、当たり前ではございませんか……」

 責めるような響きなどない。

 ただ縋るように、訴えるように。

「だって、大蛇さまがおられぬのです……お慕い申し上げている大蛇さまが、ずっとおられなかったのですから……!」

 そうだった、と大蛇は思う。

 恐れながらも話しかけてくるほどに勇敢で。

 生きるために己を傍に置いて欲しいと頼むほどに聡く。

 あくまでもしとやかでいて怒らせると怖く。

 無限への恐怖を一言で切って捨てた一の姫は。

 寂しがりやで泣き虫でもあった。

「お願いでございます……もう二度と、置いていかないでくださいませ……」

 それだけが最後の願いであるとばかりに氷雨は絞り出すような呟きを漏らす。

 大蛇は抱きしめる力を強くした。

「ああ」

 短く応える。

 疑問の余地すらないように、力強く、端的に。

 大海に落とされた墨がいかに薄れようと、なくなってしまいはしない。

 他のものがすべて神のものとなっても、たったひとつだけ強く残る想いがあった。

 あるいはそれは、人のものに限られてはいないのだろう、きっと。

 雪が舞い落ちる。

 何も音はない。

 雪がすべてを吸い込むかのごとく、ただ静寂だけがある。

「心より……」

 その静寂に融けるように、氷雨が密やかに可憐なくちびるを動かす。

「心より、お慕い申し上げております……大蛇さま……」

『ああ……』

 この娘と行こうと大蛇は思う。

 ともに消え去るそのときまで。

 遠い遠い時の果て。






 ――――終へ。






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