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彼の国の神語  作者: 八枝
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「開幕」

 身を切るように冷たい風が吹き抜けた。

 重く垂れこめた雲。今にも雨が降り出しそうなほど黒く、無論切れ目一つない。

 一護は雨があまり好きではない。具体的な理由は特に思い当たらないが、あえて挙げるならばふとした空虚が襲ってくるからだろうか。さらにその理由を問われたならば、もう答えられない。

 九鎧一護(くがいかずもり)、二十一歳。国立大学の医学科四年生である。

 大柄だが太っても痩せてもおらず、さらに筋肉質というわけでもない体格。適当に切っただけらしい黒髪には少々の寝癖。大きめの鼻に乗った眼鏡には、手入れが足りないのかわずかに汚れが見える。

 平凡の範疇に入れるには少々野暮ったい印象は拭えないが、どちらにしろ人の目に止まるような容姿ではない。

「さて……こんな寒い日に、今度は何の用なんやら……」

 低い声で呟く。

 一護は研究室に出入りしている。正式に所属しているわけではない居候ではあるが、立場的に可能な実験はやらせてもらっているのだ。研究と呼べるようなものではない、その一部の実験程度のものではあるのだが。

 とりあえずぼやいてはみたものの、実のところ用は大体見えていた。おそらくは細胞培養要員兼話し相手だろう。

 喋るのが苦手なきらいのある一護にとっては、細胞培養やDNA精製の方はともかく話し相手に選ばれるのは少々迷惑だった。教授が一人で喋って満足するような性質でなければ、辞退するところだ。

 あとは、居候させてもらっている恩もある。実のところ、実験の中には高価な試薬やキットなどを用いるものがある。それをただで使わせてもらっているわけなのだ。

「……それにしても……ほんま寒いなあ……」

 一護は身体を震わせた。どちらかといえば寒さには強い方なのだが、限度というものがある。しっかりとコートを纏っていてさえ震えの来る寒さだ。

 雪が降るかもしれない、そう思う。

 雪ならいい。雪は、憂鬱にならない。

 ふと、足を止めて雲を見上げる。

 やはり黒い。雨の色だ。

 ため息をついて視線を下ろす。

 そのとき、ひとつの姿が目に入った。

 恐らくは一護よりもほんの少しだけ年下であろう女性だ。近くを通り過ぎてゆく男の大半と女の一部が、一度ならず彼女に目を留める。

 美しい娘だ。肌理細かな、抜けるように白い頬はどこまでも優美な曲線を描き、やわらかに結ばれた薄紅いくちびるはかすかな笑みを湛えている。長い黒髪はしとやかに、艶やかに息づいて、腰にまで触れていた。

 その長身は羨望を集めずにはいられないほどすらりとしているものの、細い肩や腰とは裏腹に胸元などは充分以上に豊かな曲線を描いてもいる。それは服の上からでも見てとれた。

 白いセーターと、自然にふわりと広がった濃い茶色のロングスカート。足元を飾るのは黒いソックスとローファーだ。この寒さの中、コートの類は身につけていない。

 決して目立つ服装ではない。しかし何にも増して、娘自身が華だった。

 品良く歩むその様は、朝露に濡れて開いたばかりの、重なり合う花弁の、恥じらうように俯く一輪が時を静かに待つような、そんな情景を意識に挿し込む。

 匂い立つような艶と童女のようなあどけなさ。『少女』と呼ぶべきか『女性』と呼ぶべきかふと迷ってしまう。

 ただ、人を魅せてやまない容姿、姿態の中で、双眸を隠しているサングラスだけが明らかに場違いだった。

 一護は寒さも忘れて見惚れていた。目元こそ露わになっていないものの、少なくとも今の状態でさえ、見たことがないほどに美しい姿だった。

 何を思うでもなく、ただただ見つめている。一護は興味のあることに没頭して周りの状況が一切見えなくなる性質だが、それとはまた異なる放心だ。

 だが、それは後ろから背中を叩かれて終わった。

「キューちゃんてば何やってるわけさ?」

 とことこと前に回ってきた女性を、一護は恨めしげに見やった。

「ん、いや……」

「『ちょっと』?」

 人懐こく笑いながら彼女が一護の台詞を奪う。

「あんまり連発するから覚えちゃったよ」

 彼女は同級生だ。

 名は二ノ宮夕実。人付き合いの苦手な一護にとって、唯一親しいといえるクラスメイトである。一護が黙っていても気にしないので、やりやすい。

「また呼び出されたんだって? 何したのよ今度は?」

「……何もしとれへん」

 確実に頭ひとつ分は低い夕実を見下ろしながら、一護は仏頂面で言う。

 目だけでちらりと見回してみれば、既に先ほどの彼女の姿はない。どうやら夕実の相手をしているうちに、もう擦れ違ってしまったらしい。

 勿体無いとは思ったが、夕実を無視するわけにもいかないから、仕方がない。

「……っちゅうか、何で僕が呼ばれたこと、知ってんの?」

 再び歩き出す。

 寒さを感じ始めた。早く屋内に入りたい。

「ああ、それはね~」

 置いていかれそうになった夕実がすぐに追いついてくる。

 だから一護は振り返らなかった。

 振り返らなかったから、気付くわけもなかった。

 自分が見惚れていた彼女がこちらを向き、自分を見つめていることに。

 その美貌に驚きと喜びが溢れていることに。

 雑踏が日常を詠う。

 一護は気付かない。

 ぽつりとひとしずく、雨滴が地を濡らした。


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