第一章「小さな花の名前②」
父の下臣に連れられて戻っていくアレクシア・クリスタの背中をぼんやり見つめていると、
「あまり公女と親しくするんじゃないぞ、ヴァン」
突然、父の口から吐き出された言葉に、愕然とした。
「なぜですか? 父上はこの国のお守りする大役を仰せつかっているんでしょう。軍事を司る父上のように、僕も公女殿下をお守りしたいです」
ふいに父が廊下の端で足を止め、後ろからトコトコとついて歩いていたヴァンは、はずみで父の背中にぶつかりそうになった。
闇夜に浮かぶ父の表情はあまりにも重苦しく、まだ幼い彼に無言の重圧をかけてくる。
ヴァンは、なにを言われるのかと慄いた。
「ファミリアなど…、あんなものはまやかしだ」
「え!」
「大公殿下は楽観すぎる。軍隊を好まず、妖精が国を守ってくれるなどと。あの方の泰平思考は、いずれこの国を危険にさらすだろう」
「しかしファミリアは実在します! たとえ僕らの目に見えなくても、土壌を豊かにし、国民を安泰に導いてくれているのは確かです」
「戯言を」
父の声音が、低く辺りに響いた。
国の守護を司るファミリアの存在を一蹴する発言に、冷や汗が出た。
「大公殿下は、この国を捨てるつもりなのだ。もし敵に攻められたら、全面降伏して無血開城なさるに違いない」
「…このダリール公国に攻め込んでくるかもしれない国があると?」
「ファミリアに脅威がないと知れば、周りの国は一瞬で敵になる。妖精の力に頼っている場合ではないのだよ」
――確かに、
現・大公殿下は、軍隊をあまり好ましく思ってはいない。
しかし《ある程度の軍事力は必要》との議院内閣が採決された数年前から、父は王族侯爵の1人コーエン公ドミトリーの下で軍事保持を許されている。
とはいえ、
それは、ほとんどママゴトのようなものだ。
兵隊ごっこの延長であり、とても戦争に使える軍事力はない。
元帥に任命された父が《オモチャの隊長》などと揶揄されるのも、それが一因なんだろう。
「僕には、大公殿下のお気持ちがよく分かります。もし戦争になった場合、全面降伏すれば無駄な血が流れなくてすみますから。あの
方はとてもお優しい方なのです」
「…幼いのう、息子よ」
珍しく父の表情が緩んだ。
笑顔というよりは嘲笑を含んだような視線に、自分がバカにされたのだと気づいた。
「恥をさらして生きることに何の意味がある。何のための軍隊だ。お飾りではない。攻め込まれたら迎え撃つのが騎士の本懐ぞ」
「お待ちください、父上」
踵を返して立ち去ろうとした父を、慌てて呼び止めた。
「教えてください。この国は戦争を仕掛けられているのですか。それはどこの国ですか。戦いが始まるのですか」
「──」
「父上」
「…サンドラ王国だ」
それは《銃の国》と呼ばれている隣国だった。
古くから国交があり、貿易も盛んなはずなのに、なぜ今さら攻め込んでくるのか…。
「ファミリアを狙っているのですね」
そう言い切ると、父はくだらないとばかりに肩をすくめ、ふっと笑ってみせた。
「どいつもコイツも、あの妖精どもを買いかぶりすぎる! この国が豊かなのは、国民がまじめで誠実に働くからだ! そんな彼らを守るため、我々は応戦する必要があるんだ!」
「…ファミリアがいなくなれば、国は廃れます」
「迷信だ」
そもそもファミリアは、一般人には見ることができない。
大公殿下と、その子供だけにしか見えない、ただの光の浮遊物をなぜ信用できるのかと言いたげに、父は吐き捨てた。
「ファミリアは、本当にいるのに、」
あの優しい光を、
露桟敷の葉から静かに生まれる魂を、
現実主義者の父にあっさりと否定されたことに、彼はひどく傷ついた。
■□■□
「ヴァン」
ふいに誰かに呼び止められたのは、部屋に戻る直前。
ドアノブに手をかけた時だった。
きょろきょろと辺りを見回したヴァンの視界に、いきなりアレクシア・クリスタの姿が飛び込んできた。
「公女殿下?! お部屋に戻ったのではないのですか?!」
「静かに。大声を出したらファミリアが驚いて寝込んでしまうわ」
しー、っと人差し指を突き立てられ、ヴァンはあんぐりと口を開いた。
《ファミリアが寝込む》は、公女の口癖だ。
家庭教師にお説教されたり、母親の大公妃から小言を言われたりすると、彼女は決まってその言葉を繰り返す。
悪びれた様子のないアレクシア・クリスタに、ヴァンは呆れ返った。
「勝手に寝室を抜け出して。また大公妃に叱られても知りませんよ」
「…ヴァン。さっき、私のせいで怒られたんじゃないの? お仕置きされなかった?」
アレクシア・クリスタが不安そうに近づいてくる。
驚いて目を開いた彼の眼差しが、とたんにふっと柔らかくなった。
「大丈夫ですよ。父が僕に厳しいのはいつものことです」
「あのね、これさっきのお詫び」
そう言って差し出されたのは、露桟敷の挿し木だった。
鉢植えから伸びた細い茎の先に、三日月模様の葉が2枚。
その片側には、今にも花咲きそうな白い蕾がついている。
「…露桟敷の、花?」
「そうよ。季節外れだけど、プルーデンスと一緒に見つけたの」
その言葉にはたと顔を上げると、廊下の隅にプルーデンス・ユー・ルノーが立っていた。
彼は公女の従兄で、大公の妹の子だ。
傍系とはいえ、一族では唯一の男子で。
大公世子(後継者)候補にという話もあったが、 アレクシア・クリスタと違ってファミリアが見えない。
やはり跡継ぎは、第一公女のアレクシア・クリスタだろうという意見が多い。
たしかヴァンとは同い年で、誕生日も半年ぐらいしか違わないはずだが。
プルーデンスの方は、ヴァンをあまり快く思っていないようだった…。
「アレクシアに頼まれて仕方なく探しただけだからな! 別にお前の機嫌を取ろうなんて考えているわけじゃないから!」
公女は綿菓子のように愛らしいのに。
同じ血を分けた従兄のプルーデンスは、なぜこうも高飛車なのか。
「このオレが、下士官ごときのために…っ」
などと吐き捨てられ、ヴァンは苦笑ぎみに頷いた。
「お心遣い感謝します。アレクシア公女さま、プルーデンス殿下。大切にします」
「おやすみなさい、ヴァン。あなたにファミリアのご御加護を。健やかで平和な朝を!」
「おやすみなさいませ。よい夢を」
にっこりと笑ったアレクシア・クリスタが、プルーデンスに連れられて部屋に戻っていく。
時折こちらを振り返り、嬉しそうに手を振る姿を見送ると、ようやくヴァンの心に静けさが戻ってきた。
■□■□
物々しい騒ぎに目が覚めたのは、夜明け近くだった。
廊下を走り抜ける足音が、慌しくドアの前を通り過ぎていく。
ベッドを降りたヴァンは、辺りを包む不穏な空気を感じてドアを開けた。
そのとたん宮殿を守る衛兵に押し返され、室内に戻された。
「外に出てはいけません! ここにいてください」
「どうかした? なにかあったの?」
「何でもありません!」
もちろん、それはウソだと分かっていた。
慌ててテラスに駆け寄ると、眼下の街は火の海で。視界のすべてが赤く染まっていた。
ぎょっとしたとたん、耳をつんざくような爆発音が響き、町外れの大きな橋が爆発で吹っ飛ぶのが見えた。
何より驚いたのは、異常な兵隊の数だ。
あんな巨大な隊列は、今まで見たことがない。
「…あれは、…戦車?! しかもバフィト家の国旗が掲げられている。父上の軍隊なの?! 戦争が始まるの?!」
あんなご大層な軍備が、この国にあったなんて。
しかも、父が戦車を保有していたなんて初耳だ。
「どうして、あの戦車はこちらに向かっているの?! この王宮を狙ってるってこと?!」
なぜ父が…?!という疑問が浮かぶと同時に、アレクシア・クリスタの顔が浮かんだ。
「公女さまを! 大公殿下を遠くに避難させないと、今すぐ!」
「いけません、お待ちください」
「離せよ! みんなが殺されてしまう!」
「もう手遅れでございます」
「…っ!?」
――手遅れ…
その言葉に、ヴァンは声を失った。
遠くで、けたたましい爆音が聞こえる。
それに、誰とも知れない断末魔の悲鳴も…。
眼下に広がる火の海の中で。
いったいどれだけ多くの民が苦しんでいるのか…
「なぜここまでする必要が…?」
「ファミリアを根絶やしにするために、露桟敷の木々を燃やしているのです」
「…それも、父上の、命令?」
その問いに呼応するように、
《大公殿下夫妻 薨去》の知らせが兵士たちによって早急にもたらされた。
「大公殿下が亡くなられた!」
「ダリール公国はもう終わりだ!」
「ファミリアはすべて焼き払われた!」
どこからともなく届く絶叫に耳を傾け、ヴァンはふらふらとテラスに向かった。
手すりに両手をつき、身を乗り出すように街の向こうを見つめると、地獄絵図と化した光景が悪魔の襲撃のように脳裏に焼きついた。
直後。
「アレクシア・クリスタ公女殿下、ご逝去!」
テラスの下で、誰かが叫んだ。
「戦車の下敷きになって、押しつぶされたと!」
「公女殿下のご遺体を回収しろ!」
「ムリです! 街道は血の海で捜索できません!」
「間違いなく絶命されたのだろうな?!」
「目撃者が多くいます!」
「バフィト閣下に連絡を!大至急だ!」
ヴァンは、果てしなく続く戦車の列を食い入るように見つめた。
公女が、死んだ――
街中を突き進むあの戦車の一つに、アレクシア・クリスタは潰されてしまったのだ。
さっきまで共に笑っていた彼女の姿が、今は夢のように儚く、遠くに感じる。
その時。
「ヴァン・デ・ラトュール王太子殿下」
ふいにそんな名前で呼ばれ、ぎょっとして振り返った。
目の前で最敬礼した護衛士の眼差しが、畏怖を伴ってこちらへと注がれる。
「今、なんて…?」
「たった今、ダリール公国は滅びました。今日からあなたのお父上が、この国の国王に即位されました」
「えっ!」
「あなたは、その第一後継者。いずれこの国の運命を背負う立場になられたのですよ、太子」
「――でも、僕は、そんな」
そんなことは、何ひとつ望んでいない。
ただ、大公殿下にお仕えし、平和な国の存続だけを願っていたはずなのに…
今はもう守るものすら、見つからない。
…ベッド脇のチェストの上で。
小さな花が、揺れた。
まだ蕾だった露桟敷の花弁が、大きく開いている。
まるで微笑むように、ささやかに、
花を囲む緑の葉は、三日月模様の色を濃くして、暁を仰いでいた。