第一章「小さな花の名前①」
ダリール公国。大公宮殿。
その離宮アルビナでは、今宵も大勢の客人を招いて晩餐会が開かれていた。
とはいえ招待されているのは、いかめしい顔をしたお役人や王侯貴族ばかりで。
首都ポラリスのレオポルト市長、議会内閣院や枢密顧問のお歴々、立憲君主を組織する堅物メンバーたちが、豪華な料理を前に、苦々しい顔をしている。
特に現・大公ハドリアヌ・ボリス・ダリールの陰鬱な表情ときたら。
誰の目にも食欲がないのは明らかだった。
そんな中。
9歳になったばかりのヴァンは、入り口の大きな椅子に腰掛け、膝上にふたつの拳を乗せて固まっていた。
「ヴァン」
父に呼ばれ、はっと顔を上げた彼は、弾かれたように椅子から飛び降りた。
離宮の警護を担当している父・バフィトの険しい視線が突き刺さる。
ヴァンは顔を強張らせて、直立不動になった。
「この会議は長引きそうだ。お前はもう部屋に戻りなさい」
…会議。
晩餐会というから、てっきり食事会だとばかり思っていたのに。
賑やかで楽しいどころか、室内には険悪なムードが漂っている。
すっかり冷めてしまったテーブルの料理を見やり、ヴァンはこくりと頷いた。
「なにか僕にお手伝いすることはありますか」
「そんなものはない。お前にできることは何一つない」
「…分かりました、元帥」
その呼び方は、どうやら父のご機嫌を損ねたらしい。
皺枯れた頬がひくりと痙攣したことに気づき、ヴァンは冷や汗をかいた。
そして右手の拳を心臓に当てて敬意を示すと、逃げるように一礼して部屋から飛び出していった。
□■□■
「はああ~」
扉を閉めたとたん、一気に脱力してしまった。
ドアにおでこを押しつけた格好で、今にも崩れそうな体を気力で支えた。
…まったく。
自分を見下ろす父の眼光は尋常じゃない。
もちろん好かれているとは思っていないし、優しい言葉を期待しているわけでもないけれど。
父の役に立ちたいという彼の前進思考は、威圧的な距離感の前ではあまりにも無力だった。
そんな時。
「…ヴァン・テ・ラトュール」
「!」
聞き覚えのある声に驚き、ヴァンは即座に姿勢を正した。
大公妃ダニエラが、大勢の侍女を従えて近づいてくる。
その隣には大公妹のフローレンス。
さらに背後には、ヴァンの母アンティナの姿も見える。
「あ、うわ、」
通行の邪魔にならないよう慌てて廊下の壁に張り付いたとたん。
身を屈めた大公妃に覗き込まれて、ヴァンは緊張と困惑で真っ赤になって俯いた。
「お父様のお手伝いをしているのですか。遅くまでご苦労ですね」
「…は、いえ、…邪魔だから下がれと言われました。…情けないことです」
「あらまぁ」
まるく開いた大公妃の眼差しが、緩やかに細まった。
陶器のような白い手が、しなやかにヴァンの頭に乗る。
「あなたに期待をしているからこそ、つい厳しくなるのでしょう。挫けず努力するのですよ」
「は、はい。ありがとうございます」
右手の拳を胸に当て、軍隊式の敬礼をして頭を下げると、大公妃は満足したように廊下の向こうへと消えていった。
ほっと息をついた、その直後。
今度は、列の一番後ろにいた母が、ゆっくりと近づいてきた。
「私も、大公妃と同じ気持ちですよ、ヴァン」
「えっ」
「あなたは、いつか立派な大人になって、この国を盛り立ててくれるでしょう。活躍を楽しみにしていますよ」
「…っ、」
母の言葉は、ことのほか身にしみた。
いつも父に邪険にされるばかりで、ろくな補佐もできないまま、一方的に役立たずのレッテルを貼られている9歳のヴァンにとって、母親の励ましほど嬉しいものはない。
溢れた涙を拭って何度も頷くと、優しい手が励ますように細い肩先を撫でた。
「ところでヴァン。アレクシア・クリスタさまのお姿が見えないのだけど」
その声に、ヴァンははたと顔を上げた。
口元に人差し指を当てた母が、内緒話をするように小さく笑っている。
「またこっそり寝室を抜け出されたようなのですよ。大公妃さまに見つかる前に探し出してくれないかしら」
「は、はい!」
とたんにヴァンの表情が明るくなった。
父の仕事はうまく手伝えないが、こういう役割なら得意だ。
特に大公女アレクシア・クリスタのことならば、どこに隠れていても探し出せる自信がある。
「分かりました。すぐに見つけて寝室にお連れします」
「大公妃に内緒で」
「はい、内緒で」
「お願いね。大好きよ、ヴァン」
両手で抱きしめられ、ぱあっと胸に花が咲いたような気分になった。
母の一言で、瞬く間に気持ちが上向いていく。
たとえ父に冷たくあしらわれても、
笑ってもらえなくても、
この母がいるから頑張っていけるのだと、
そう強く思える瞬間だった。
■□■□
離宮から渡殿を抜けて中庭に出ると、そこは大きな森のようだった。
ヴァンの背丈ほどもある木々が鬱蒼と生い茂り、少し先にある薬香草園からは瘴気よけの強い匂いが漂ってくる。
視界を遮る大きな葉を払いながら階段を上がったヴァンは、パティオに足を踏み入れて辺りを見回した。
「アレクシア・クリスタ公女…」
名前を呼んでみるが、返事はない。
見上げた空には月も星もなく、
闇の帳に包まれた足元が、おぼろげに薄い影を作っている様子に目を凝らした。
「この影は…?」
小さな悲鳴が聞こえたのは、その時だ。
聞き覚えのある声にはっとして歩を早めた瞬間。
目の前の大木にぶらさがっているアレクシア・クリスタを発見した。
「公女さま?!」
「…ヴァン。…落ちそう、私、」
「見たら分かります。そのまま動かないで」
「ムリ。手がしびれて、つかまってられないの」
「落ちてはダメです!」
「…うぅっ、」
アレクシア・クリスタはほとんど半ベソだった。
まだ6歳になったばかりの力では、力尽きるのは時間の問題だ。
じきに枝から落下するだろうと思いつつ、ヴァンは見上げたままどうすることもできなかった。
「人を…誰か呼んできます」
そう言って踵を返した直後。
ガサガサと鳴った葉ずれの音と共に、アレクシア・クリスタの体が揺れた。
体勢を立て直そうとしたつもりがバランスを取り損ねたのか、
小さな手が枝から離れていくのが見えてぎょっとした。
「公女さま?!」
「ひゃあっ、」
抱きとめることなど出来ないと分かっていたが、ヴァンは思わず手を伸ばした。
自分が下敷きになれば、彼女が怪我をしたとしても大事にはならないと踏んだのだが…。
ヴァンが駆けつけるよりも先に、何かがぶわりと足元から舞い上がった。
「?!」
小さな光の粒が、流れるようにアレクシア・クリスタへと向かっていく。
彼女を包み込むように塊となった金色の光は、細い体を支えながらゆっくりと地面へと降り立ってきた。
「…ファミリア、か」
ヴァンがほっとしたとたん。
さっきまでの気配が瞬時に消え失せ、彼の目の前にはしかめっ面のアレクシア・クリスタだけが残されていた。
「なんて顔をしているんです、公女殿下」
安心したと同時に、怒りがこみ上げてきて。
その場にしゃがみ込んだヴァンは、唇を尖らせて彼女を睨みつけた。
「だって、怖かったのとガッカリしたのとで、気持ちがグチャグチャなんだもの」
「ファミリアが助けてくれたのですよ」
そう教えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
──ファミリアは、このダリール公国を守護する妖精の名称だ。
《4枚羽根の小さな人の姿をしている》と言われているが、その姿はダリール公家の直系にしか見えず、ヴァンたち一般人には浮遊するただの淡い光にしか見えない。
もちろん自在に操ったり、呼び寄せたりすることなど到底不可能であり、それが出来るのもまた公家の直系だけだった。
「私が呼んだわけじゃないわよ」
ゆっくりと身を起こし、ドレスの砂を払いながらアレクシア・クリスタが呟いた。
「でも、あなたが落ちたとたん、集まってきましたよ」
「私が《助けて》と願ったわけではないわ」
「それはおかしいですね。あなたの事だから、無意識に呼び寄せたのでしょう」
「…そうなのかしら」
アレクシア・クリスタは、やはり納得いかない様子で手のひらを空に掲げた。
瞬く間に、いくつものオレンジ色の光がふわりと集まってくる。
その光景がまるで一枚の絵画のように見えて、思わず見とれてしまった。
ヴァンにはただの光の集合体にしか見えないが、彼女にはちゃんとファミリアの姿が見えているのだろう。
小人のような形をした羽根の生えた妖精を、いつか一度でいいから見てみたいと、そう願ってしまった。
「ところで、なぜあんな木の上にいたのですか」
はたと気づいて尋ねると、アレクシア・クリスタはとたんに得意げな顔で瞳を輝かせた。
「ファミリアが生まれるところを見たかったの」
「えっ!」
「木の上で、こっそり観察しようと思ったのよ」
くすくすと笑いながら、幼い公女は嬉しそうに茂みの中を指差した。
「ほら、見て。ヴァン」
その先にある小さな葉っぱが、かすかに発光しているのに気づき、ヴァンとアレクシア・クリスタは2人して身を乗り出した。
「…これは、キレイですね」
「露桟敷というのよ」
「この葉からファミリアが生まれるのですか?」
その問いにこくりと頷いた彼女は、無言を求めるように人差し指を唇にあてて微笑した。
小さな葉の上に、三日月模様が浮き出ている。
さらに、その上には木の実のような丸い玉が乗っていて…不思議な光景にヴァンは息を飲んだ。
その名のとおり、まるで宝石が眠る小さなベッドのように見える。
じっと観察していると、
間もなくして、葉の上で静かに割れ始めた木の実から小さな光が現れ、2人の頭上をくるりと旋回しながら遠くの空へと飛び立っていった。
上空を見上げ、ヴァンがほうと感嘆の息をつく。
「美しいですね。初めて見ました」
「ファミリアの王様はもっとステキよ」
「王様…ですか?」
「私もまだ見たことないけど」
その言葉に、ヴァンはぷっと失笑してしまった。
ファミリアの王様なんて聞いたことがない。
そんなものがいるなら一度くらいは見てみたいけど、どうせ空想好きな公女の夢物語の一つなんだろう。
「王様には可愛いお姫様がいて、いつか王子さまと結婚するとかいう話なのですか?」
からかうように言うと、彼女はとたんに頬を膨らませて睨みつけてきた。
「そういう事もあるかもしれないって、前にお母様が話してくれたもの」
「あっ、お母様?! 忘れてた!」
母の言葉を思い出し、ヴァンは慌てて立ち上がった。
大公妃に見つかる前に、寝室を抜け出したアレクシア・クリスタを連れ戻すよう言われていたのに…。
「公女さま。早くお部屋に戻りましょう。お母上に見つかったらまた怒られることになりますよ」
ぐいっと手を引き、大急ぎで宮本殿に戻ろうとした刹那。
不意に視界がかげったことに驚き、ヴァンは息を飲んだ。
目の前に立ちはだかった父・ルクリュビエール・ジマ・バフィトが、眼光をひらめかせて見下ろしてくる。
「…ここで何をしている、ヴァン」
威圧的な声音が降り下り、言葉を失って立ちすくんだ。
「あの、公女さまを、お部屋に…、その、大公妃が、」
しどろもどろな息子を尻目に、父の視線が公女へと移った。
「お子様はもうお休みの時間ですよ、アレクシア・クリスタ公女。護衛の者に部屋まで送らせましょう。…お前は私と一緒に来い、ヴァン」
「えっ、でも、僕は…」
「話がある」
そう押し切られ、彼は泣きそうな顔でしぶしぶと頷いた。