31.あのクソジジイはいつか殴る
ミニックを持ったネログリフとアイリスがこちらに向かってくる。
ネログリフは裏通りとはいえ疎らながらに人目があるところで大恥を掻かされたというのに、異様なほど落ち着いた様子だった。
表情にも感情のブレは見えない。
ただネログリフとは対照的にアイリスはベールから覗く白い肌を真っ赤に染め、杖の後端で地面を刺しながら歩いている。
「ど、どうするのって! あの人は、ホントに喧嘩売っちゃダメな人だから! ホントに! これはホントに! 確かにカナリア嘘吐いてたし信用できないかもしれないけど、これはホントだから! は、早く謝ってって! カナリアも一緒に謝るからァッ!」
「んでも、アイツ絶対ロクでもない奴だって。話聞いてても胡散臭いし、なんかもうオーラから怪しいしもん」
「そんなことないってば! さっきはちょっと……カナリア寄りで言っちゃったっていうか……。そもそもお布施も充分に払えてないのに、母さんを教会の治療所に入れてくれてるだけで……それ以上を望むカナリアが厚かましいって言うか……」
「ぶっちゃけアンタもわかってんだろ。金ないところからあの手この手で絞ろうとすんのは、いつの時代どこの世界でも悪党しかいねぇぜ。そういう奴が聖人面してんのは気に喰わねぇわ。ちっと一言なんか言ってやんねぇと」
「…………でも」
ネログリフを睨む。
俺の視線を受けて尚、ネログリフは表情を崩さない。
ネログリフの手にしているミニックが初撃以降妙に大人しいと思えば、開かないよう指で押さえつけられている。
本人は涼しげな顔をしているし、腕に筋肉が張ってもいなかったので気付かなかった。
このジジイ、見かけより力あるな。それとも何かの魔法か?
「……あの人が例えどんな人だったとしても、ホントに逆らっちゃマズイから! おにーさん、世間知らずだからそんなことが言えるんだって! ホントに、とにかくここは早く頭下げてってば! おにーさん! おにーさんって! ホントに、とんでもないことになるから!」
ネログリフが俺の前まで来る。
飛び出そうとしたアイリスを手で遮り、目で一歩引くよう命じる。
アイリスは小さく頭を下げ、その場から退く。
「ほっほっ、若い頃は、力を持て余すもの。その矛先を誤るのも、また若気の至りと多目に見ましょうとも、ええ。こう見えても、私にも身に覚えがあるものです」
ネログリフは強引に俺の手を取り、ミニックを握らせて来る。
そしてそのまま、ずいっと顔を近づけてくる。
「大事なものなのでしょう。次は手を滑らさぬよう、お気をつけて。大事なものの扱いで、人の価値が知れるものですから」
あくまでも笑顔のままでそう言い、軽く俺の肩に手を触れてから退く。
近づいて来たらぶん殴ってやろうかと思ってたのに、つい動けなかった。ペースを取られてしまった。
触れられた肩からぞわっと寒気がする。
「カナリア、また近い内にお会いしましょう」
含みを持たせたふうに言って、ネログリフは今度こそ俺達の前から去って行く。
「お、おい待てジジイ! コラァッ!」
俺が慌てて仕切り直そうと罵声を浴びせるが、ネログリフはこちらを振り返りもしない
「私、虫は殺すんですよ。別に経典でも禁止していませんからね。広義に取り忌避する信徒がいるのは知っていますが、教会に煩い小蠅が入るのが本当に嫌なんですよ」
「あ? いいからこっち向きやがれ!」
何の話がしたいんだコイツ。
「とはいえ小蠅の入ってくる環境である以上キリはありませんから、掃除に力を入れてもらったりと手を打ったりもするんです。それくらい私は小蠅が嫌いな性分のもので」
「テメッ! ひょっとして俺を小蠅だって言いてぇのか!」
「何がどこにあるかは、よく考えてから動いた方がいい。貴方は考えがなさ過ぎる。自分のものに限らず、他人の大切なものを蔑ろにすることもまた、人としての徳を貶めるものですよ。そう思いませんか、カナリア」
「なんでそこで……」
そこでようやく、遠回しに何が言いたいかがわかった。
要するに、これ以上何か騒ぎ立てる気ならカナリアの母親に何かするかもしれないぞと、脅しを掛けてきたのだ。
「おいコラァッ!」
思わず拳を握る俺の両腕を、後ろからカナリアが肘で押さえる。
「お、おにーさん! お願いだから……抑えて、ください……」
砕けた口調が畏まり、それに伴い語気が弱々しくなる。
振り解くのは簡単だが、さすがにその気にはなれなかった。
「誰にでも過ちはあるものです。それを赦されないほど、神は不寛容な方ではあられません。今日のことは忘れましょう。お互いに、その方がいい。では貴方方に、神の御加護があらんことを」
「……クソジジイが」
「この期に及んで戯言を! 見逃して頂いた身であるということをゆめゆめ忘れるな下郎! ネログリフ様の慈悲深さに甘えつけあがるその様、悪魔にも劣らぬ醜悪!」
アイリスが白い歯茎を剥き出しながら全身を震わせ、小さな可愛らしいところを余すところなく憤怒に染め上げてブチギレて振り返りそうなる。
ネログリフは足を止めてからそれを軽く宥め、また歩き出す。
二人の背が遠ざかっていく。
随分と離れたところから、一度だけネログリフがこちらを振り返った。
その目が愛想よく細められていたかどうかは、この距離ではもう判断できない。
カナリアが俺の腕を拘束していた力を緩め、その場にへたり込む。
「……悪い、俺のせいで状況悪化させたか?」
「そんなことで頭下げなくてもいーんよ。騙した客から謝られたら反応に困るって。まーでも、どーしても良心が痛むぅーって言うのなら、大人なカナリアさんがおにーさんを立てて差引まいなすって勘定したげるから、なぁーんか恵んでくても……」
「軽口叩いて場を流すのも表情戻ってからにしろよ。痛々しいぞ」
「……あの人、確かに黒い噂もあるし危ない人かもしれないけど、気が短いってわけでもないから激情や意地では絶対に動かない。だから脅しを口にしたら、それ以上の意味はないかなって……」
俺がまた性懲りもなくジジイ狩りに出ない限り、その点に関しては特に問題ねぇってことか。
「なぁ、あのジジイと病気と教会について、教えてくれないか?」
首を散々突っ込んだ分、ここで引くのは性に合わない。
あのジジイにもどうにか一泡吹かせてやりたいし、できればカナリアの事情もどうにかしてやりたい。
下手に動けばカナリアの母親が何をされるかわからない以上、正攻法以外の一捻り加えた攻め方をせざるを得ないが。
ただ何をするにしても、俺にはそのための知識が足りない。
「ネログリフ様知らないって聞いたときは驚きだったけど、ひょっとしておにーさん五年前の事件のことも知らないの?」
「五年前の事件?」
「元々この辺りの地方では教会はそこまで権力なんて持ってなかったんだけど……ちょっとトラブルがあって、それにいち早く対処できたから今の位置に収まってるっていうと語弊がないかな」
繊細な話なのか、言葉選びに頭を悩ましながら話すカナリア。
「バッサリ言っちまっていいぞ。多少偏見入ってたって、最後に判断するのは俺だし」
俺が言うと言葉を固めたようで、カナリアは小さく息を呑んでから口を開く。