最後に手を差し伸べるのは
空が見えたと思ったら、次は車を上から眺めていた。かと思えば、斜めになったビルが見えたり、逆さまになった街路樹が見えたり。
……あぁ、そうか、俺は車にはねられたのか。そういや、あそこに転がっている子供を助けたんだっけ。
……そっか、これで終わりか。
でも、これでやっと、誰かの役に立てたんだ。それなら、もう……。
――――。
「……さいっ! 誰か救急車呼んでくださいっ!」
「……あぇ?」
途切れた意識が戻る。
気がつけば、知らない女性が上から覗き込んでいた。傍には小さな子供が、怯えた表情で立ち尽くしている。
「……そっか、良かった」
冷たいアスファルトから身体を起こし、独り言のように声を掛ける。それは、子供へ掛ける言葉だったのか、それとも自分への言葉だったのか、それは分からない。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、えぇ、大丈夫ですよ」
身体中がズキズキと痛むが、一応、問題なく動いている。出血している所も、あちこちぶつかった時の擦り傷だけみたいだし。
「あの、えと、その……」
取り乱してどうしていいか分からない母親を尻目に、突っ込んできた車へと目を向ける。
「あーぁ、ボコボコ。良く生きてたなぁ、俺」
車を運転していた女性は、ハンドルを握りしめたまま、真っ青な顔で硬直していた。
彼女が何を思ってそこに座り続けるのか、何故こっちを見ようとしないのか、そんな事は何一つ分からないけれど、それでも、一言くらいは声を掛けて欲しかった。
ほんの少し何かが狂えば、俺もあの子供も、ただでは済まなかったのだから。
――――。
警察や消防が到着する頃には、周りは黒山の人だかりとなっていた。
あの子供と母親は、どうすれば良いのか分からないのか、いつまでも右往左往し続けていた。
俺はそんな人混みを眺めながら、歩道でぐったりと座り込んでいた筈なのだが、気がつけば、いつの間にか担架に乗せられ、どこかへと運ばれていた。
――救急車に揺られながら、ふと、言葉が浮かんだ。
『もう、死んでも良かったのになぁ』
誰かの為にと捧げてきた筈のこの命。
なのに結局、彼女達を救う事すら出来ぬまま、最後は辛い別れに辿り着いてしまった。
……でも、今はこうやって、たった一人だけでも助ける事が出来たのだから、これ以上を望む必要なんて無い。あのささやかな願いは、これで叶ったんだから。
だからもう、終わって良かったのに。
……それに、これ以上は色々辛いしさ。
――――。
病院に運び込まれ、レントゲンやら何やらと色々検査された結果、後は経過観察という事になった。当たり所が良かったのか、最近の車の性能が良かったのか、擦り傷や打撲以外の怪我はなかったらしい。
「いやー、島崎さんは運が良い。今日、宝くじ買ったら、もしかすると当たるかもしれませんよ? ははは。では、何かあったらこちらに連絡してくださいね。お大事にどうぞ」
鈍い痛みが纏わり付いた身体を引きずり、病院を背に、とぼとぼと家路を辿る。
誰もいない、いつもと違う帰り道。すっかり夜も更け、周りの家々には温かい明かりが灯っていた。
「……何か、俺、……惨めだな」
いつものようにコンビニで酒と弁当を買い、いつものようにアパートへと向かう姿。
ボロボロになったスーツと、血の匂いがするシャツ。その姿はまるで、自分のこれからを映す鏡のように思えた。
だれも幸せにする事が出来ず、ボロボロになりながら、こうやって一人で惨めに生きて行く、そんな人生を映すかのように。
……なんか、泣けてきたなぁ……。
「島崎さんっ!」
……?
「島崎さんっ! 大丈夫っ!?」
突然目の前に駆け寄ってきた人影は、何を躊躇う事も無く、胸の中へと飛び込んできた。
「遠藤さん、……何で?」
目を真っ赤にして、泣きながら抱きついてきた彼女。どこからか走ってきたのだろうか、髪も服も、吹き出すような汗で濡れてしまっていた。
どうして彼女がこんな所にいるのか、俺には全然理解出来なかったけれど、……でも、この香りは、とても懐かしかった。
「ぐすっ、……先輩から、電話貰ったの。島崎さんが事故に巻き込まれたみたいだって」
たまたま報告書を届けた会社の担当者が見ていたらしく、その人が直接先輩へと連絡してくれていたらしい。
「でも、何度掛けても携帯が全然繋がらないって、私の所に連絡が来たの」
「……あ」
思い出したようにスーツの内ポケットをまさぐると、出てきたのは、スクラップと化した携帯電話の残骸。
「でも、私も何も聞いてないし、病院だってわかんなかったから、ずっとここで待ってたの。そしたら、ボロボロの島崎さんが歩いてくるし、私もう、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって……」
「……ごめん」
抱きつく彼女の腕に、力が入る。
「でも、無事で良かったよぉ」
彼女は突然、大声で泣き出した。
あんなに穏やかな女の子が、こんなにも泣きじゃくるなんて、思いもしなかった。人目も気にせず、まるで何かが壊れたかのように泣く姿、これが、本当の彼女の姿なのか。
「ご、ごめん、ホントにゴメン。大丈夫だから、そんなに怪我とかしてないから」
彼女はそれからもずっと泣き続けた。何かに安心したのか、それとも、他の何かによってなのか、それは分からない。
ただ、一つ分かった事は、俺は一人じゃなかったんだという事。
こうやって心配してくれる人が、今、ここにいる。たったそれだけで、こんなにも心が温かくなるなんて。
……知らなかったな。




