ここへ至る道
やっぱり、いくら慣れている俺でも、この瞬間だけはちょっと寂しい。
「みんな、おやすみー、気を付けてね~」
食事や後片付けが終わり、のどかに和む食後の一時、それはあっという間に過ぎ去っていく。
門限がある訳じゃないけど、親元から通う、まだ二十歳そこそこの女の子達。当然、帰宅時間は早め早めとなる訳で。
「しまちゃん、おやすみ~」
そう言って手を振りながら、女の子達は駅へと並んで歩いて行く。
「島崎、……エロ本は程程にしておけよ?」
「やかましいわっ! って、何なんだ、いきなり?」
「いや、まぁ、仕方ないのは分かるんだけど、やっぱりやり過ぎは良くないと思って……」
「はい?」
「い、いいから、分かったなっ!?」
「お、おう」
わ、訳がわからん。何が言いたいんだ?
「しまちゃーん、また一緒にエッチな本見ようね~」
「またって何だっ、またって!? 芹奈には必要無いだろがっ!」
「えへへ、後でしまちゃんの性癖占いしてあげるからねっ」
「何だそれ、その有りそうで絶対有り得ない占いは。『メガネワイシャツ好きな貴方、今日のラッキーアイテムは白ソックスだよっ』とか言われるのか? ……いや、それはそれでアリな気も……」
「あれ? ネコ耳ニーハイじゃなかったの?」
「そうそう、ネコ耳……。って、何を見た?」
「しまちゃんが今日買ってきたマンガ」
……おかしい、誰にも見えない所に隠蔽したハズなのに。……もしや、奴の感知能力はそれ以上という事なのか、侮れん。
「芹奈、人の部屋を勝手に漁るのはダメなんだぞ?」
「はいはーい」
「何その軽い返事。俺のプライベートは一体どこへ……」
こうやって女の子と何気ない会話が出来る日常は嬉しいけれど、でも、それと引き替えに失う物だってある。
「さっちゃん、またね。おやすみ」
二人だけじゃないという事は、当然、そういう事が出来ないという事。いくら俺がオタクだからって、そういう衝動は多分にある。エブリディ。
「うん、おやすみ」
さっちゃんはそう言うと、突然くるっと小走りで戻ってきた。
とてとてとて、そんな効果音が鳴るんじゃないかと思わせるような可愛らしさで。
「(また今度ねっ)」
俺が何を考えていたのかを見透かしたように、彼女は頬を赤らめながら、そう囁くように耳打ちする。
そんな事で浮かれて胸を躍らせている自分を思うと、やっぱり男っていうのは単純で、彼女達の手の平で踊らされているんじゃないかって気がしてくる。
……でもやっぱり、そういう期待には逆らえなかったりする訳で。
――――。
宴も終わり、明かりを落としてから始まる、もう一人の自分の時間。
この薄暗い部屋の感じ、中学・高校と、毎日がこんな感じだった。世界と隔離され、何者にも犯される事のないパーソナル・スペース。
やっぱり、今でもこの空気が一番落ち着くのかもしれない。誰とも関わらなくて済む、この瞬間が。自分以外は必要無いと気付かせてくれる、この静けさが。
――コンコンッ。
「っ!?」
突然聞こえてきた、控えめに叩かれる玄関の音。
さっちゃん? って、『今度』って今日の事か!?
「はいはーいっ」
邪な期待に胸を膨らませて扉を開けると、そこに立っていたのは、予想外の人物だった。
「……あゆみ? どした?」
「……あはは、マンガ、もう一冊持ってきてたの忘れてた。……はい」
「え? わざわざ? ……何か、悪いな」
部屋の明かりが暗いせいか、逆光の中の表情は、あまり読み取れなかった。
「んじゃ、また明日ね」
「あはは、やっぱり明日もか」
「当たり前じゃーん。溜まり場だもん」
それなら何で、明日にしなかったのだろう? 明日渡せば済む話じゃないか。
「ばいばーい」
……そんな明るい想像はしないようにしている。
何故なら俺は、過去に一度、彼女にフラれている。そんな事、想像する必要なんてない。
そんな無意味な想像、自分の惨めさを再確認するだけだ。
――――。
あれは……、高校一年の冬だったか。
大介がさっちゃんと付き合いだした後、何かの集まりで彼女が友達として連れてきた子。
小柄で色白で、……まぁ、ちょこっとだけ、ぷにぷにしてたけど、俺は、彼女に目を奪われた。
「何か、甘々で可愛らしい感じの子だな~」
それが第一印象だった。
小学校での出来事以来、人と関わる事に対して、まるで意味を感じられなかった。
携帯、PC、本や雑誌、必要な事柄は、全て情報としてアクセスできる。
広大なネットの中に於いて、リアルはあまり意味が無い。必要な物は全てそこにあるんだから、他は別に必要無い。
ただ、それだけ。
ネットから溢れ続けるコンテンツに身を任せ、有意義に思える無意味な時間を、俺は安穏と過ごしてきた。
誰とも深く関わろうとせず、いつになっても人に興味が持てぬまま。
だから、このままずっと同じ時間が続いていくんだろうなぁ、と、そう思っていた。
でも、彼女はそんな時間を打ち崩した。
幼い日に抱いた、叶わぬ恋心を過去に追いやるような、そんな新鮮な景色。
……とは言っても。
こんなオタクな俺が、一体どんな顔して声を掛ければいいのか?
いや、そもそも、一体どんな言葉を言えばいいんだろう?
『こ、こんにちは、い、いい、お、お天気、ですね』
……無理。いやもー無理っ。全般的に激しく無理。
そんな風にのたうち回る俺を、さすがに見かねたのだろうか?
彼女の友達が、彼女に内緒でデートのセッティングをしてくれたのは、それから半年後の夏の事だった。
――――。
「……き、今日は、結構楽しかったね。……でさ、あの……さ、実は俺、……佐々波さんの事が、……す、……好き……なんだ」
その時、俺は一体どんな顔をしていたのだろう? 正直、今は想像すらしたくない。
あんな恥ずかしい思い、もう二度とゴメンだ。
「あ、そーなんだー。ありがとー。でもごめんねー」
まるで俺が存在する事すら認識していないような、さらりとした返事。
「あ、もうこんな時間? それじゃ、そろそろ帰ろっか?」
今日という日が、まるで何かに科せられた義務であったかのように。
やっと終わった、そんなすがすがしい表情で。
……こんなにも恥ずかしい思いをして、こんなにも嫌な汗をかいたというのに。
彼女は一言、『今日も暑いよね~』と、片付けた。
「んじゃ、まったねー」
最初から最後まで、彼女の態度に変化は見られなかった。それはもう、疑いようのない現実。
だからもう、忘れるべきなんだ。
何も考えず、ただ、半年前に戻るだけでいい。
あの心地良い、何者にも犯される事のない、純粋な世界へと――




