永遠の別れ
「美空、ほら、立って」
「ひっ、……ぐすっ」
「こんなびしょ濡れで座ってたら、間違いなく風邪引くぞ? 家まで送ってくから、もう泣くなって。な?」
自分の心をシャットダウンし、冷静に言葉を選び続ける。
「そんな昔の事なんて、俺は全然気にしてないからさ」
吐きそうになる内臓の感覚を、ブレーカーを落とすように切り離す。
「ちょっとびっくりしただけで、全然傷ついてなんかいないし」
気が付けば、手足の感覚が無い。
「ほら、行くぞ、歩けるか?」
「……ひぐっ、……なんっ……で? 私っ……は……」
「何言ってんだよ。そのぐらいの黒歴史、みんな色々持ってるんだからさ」
……でも、彼女はもう、十分苦しんで来た。だから、ここで終わらせないと。
「だから、もう気にするなって」
――――。
彼女は車に乗って落ち着いたのか、それから泣く事も、喋る事もしなかった。聞こえて来るのは、ワイパーの動作音と、マフラーの咆哮だけ。
俺は、鈍い痛みを繰り返す頭や内臓の悲鳴を無視しながら、歪む景色を何度も何度も気力で補正し、必死にハンドルを握り続けた。
「……ここで大丈夫」
美空の家の近くに車を停めると、彼女は伏し目がちにドアを開け、何も言わずに車を降りた。ふらふらと歩く彼女は、結局最後まで俺と目を合わせる事なく、家の中へと帰って行く。
気が付けば、時計の表示は午前二時、何気なく思い出すのは、明日の会議の事。
「そうだ、明日は午前中から打ち合わせがあったんだ。……帰らなくちゃ」
無意識だったのか、機械的に、何も考えずに車を走らせる。家に帰って、寝て、起きて、会社に行って、会議に出る。それだけを考え、フロントウィンドウの先を見続けた。
……今、今日の事を思い出してしまったら、多分、会社になんて行けないから。
「……そういえばそろそろ曲がる――」
何故か突然、一瞬で車内が昼間のように明るくなった。
気が付けば、あんなに耳に付いていたワイパーやマフラーの音は聞こえなくなり、景色はモノクロームな世界へと変化していた。そして、それが何なのかを考える事も出来ぬまま、次の瞬間、フロントウィンドウ越しの景色が凄い勢いで回転し始める。
何も感じないし、何も考えられないのに、何故か目の前の景色だけが次々と変化していく不思議な感覚。
――――。
「……?」
次に気が付くと、車内の景色は一変していた。粉々に砕けたフロントウィンドウ、目の前に迫る天井、しぼんだ白いエアバック。
「聞こえますか!? 大丈夫ですかっ!?」
ふと横へ振り向くと、ドアを開けて消防隊員が話しかけてきていた。
「……え? あ……」
何を聞かれているのかも分からないまま、取り敢えず返事を返そうとするが、何故か声が言葉にならない。それどころか、視線やピントが思うように合わない。
「あなたのお名前は?」
「……島……崎。……これ、……何?」
「事故が起きた事は覚えていませんか? それより、どこか痛い所とか無いですか?」
「え、あ、いや、別に……」
「そうですか、取り敢えず外傷の方も大丈夫そうなんですが、これだけの事故なので、念の為に病院へ行きますけど、大丈夫ですよね?」
「え……、あ……はい」
車から降ろされると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ぐしゃぐしゃになった乗用車2台と大型トラックが路肩へと乗り上げ、周りはパトカーや救急車や消防車によって、まるで昼間のように照らされていた。
「な……」
そして、それは当然、自分の愛車も同じように潰れていた訳で。
「そんな……」
フロントやサイドだけでなく、何度かひっくり返ったせいなのか、ルーフまでもが無残に傷つき、今まで大切にしてきた、あの美しいシルエットは、……見る影もなかった。
そして、あの芹奈のステッカーも。
――――。
『ほんと、無傷で良かったですね、島崎さんは運が良いですよ』
病院で検査を担当した医師は、そう笑顔で微笑んだ。
確かに、俺の身体は何ともない。でも、車は傷だらけのまま、ディーラーの片隅にひっそりと放置されている。俺を助ける為に、こいつは、こんなにも無残な姿になったというのに。
「いやー、さすがにこれは無理ですよ。ほら、完全にフレームまでイッちゃってますし、エンジンだって潰れて……」
なのに、誰一人として、こいつを助けようとはしてくれなかった。こいつはこんなにも、身体を張って頑張ってくれたのに。
「どうです? 最近発売になったばかりの……」
そんな事は分かってる、こんなになってしまったら、誰が見たって明らかだ。でも、他の人にとってはただの鉄屑だったとしても、これは、俺の大切な車。
「……すみません、少し、一人にして貰えますか?」
昨日の事故から一睡も出来なかった。
病院から帰った後、俺はアパートでずっと泣き続け、信じられないくらいの涙でシャツを濡らした。恐らく、今も目が赤いのだろう。
騒がしく話しかけてきた店員は店の中へと戻り、俺は一人、懐かしい香りが残る車と向き合う。
「いっぱい、いろんな所に行ったよな」
「あの時、徹夜でドライブしたのは大変だったな」
「そういえば、故障して動けなくなった時、大渋滞作っちゃって、かなり恥ずかしかったっけ」
「……でも、ずっと頑張って走ってくれたよなぁ」
「……暑い日も、寒い日も、……雨の日も、雪の日も」
もう二度と使う事の無い鍵を握りしめ、又、涙が零れそうになるのを、必死で堪えた。
「……いっぱい、いっぱい、……ありがとな」
――――。
「え? ちょっ、事故ったって大丈夫? ちゃんと病院とか行った?」
「えぇ、ちゃんと検査したんで大丈夫ですよ。……それより、すみませんけど、今日は休ませて貰ってもいいですか?」
特に身体に痛みがある訳でも無いし、仕事自体は問題なくこなせるけど、今日は休む事にした。精神的に辛いとか、そういうんじゃなくて、やらなきゃいけない事がある気がしたから。
「あいつと、……ちゃんと話をしなきゃ」
……このまま、都合良く逃げ続ける訳にはいかないから。




