平穏のような日常
あれから、渡部が俺の部屋に顔を出す事は無かった。何で来なくなったのかも分からないし、あのまま諦めるなんてとても思えなかったけど、正直、心の中ではホッとしていた。
このまま何事もなく過ぎていってくれればと、そう期待し、美空や芹奈にも出来るだけ話題を振らないように心掛けた。
それはもう、宗教的な祈りに近かったような気がする。
「そう言えば、凉子ちゃん今日も来なかったね。あれからメールしても『忙しい』ばっかりだし、ちょっと心配だな」
でも、その祈りは届かなかった訳で。
「本当、どうしたんだろうね? そんなに仕事忙しいのかなぁ?」
二人とも不思議そうに、そして少し心配げに、玄関へと呟く。
今までも、こうやって暫く来なかった事は度々あったけど、今回はいつもと様子が違う。それは、あの夜を一緒に過ごしたこの三人なら、言わなくても分かっていた。
「くっそ~、折角凉子ちゃんが好きそうな映画が始まったのにな~」
「何だ篠原? あいつと映画に行くつもりだったのか?」
最近は篠原や五十嵐も、晩飯をたかりに来る事が多くなった。もちろん、割増料金は徴収済み。
「そうなんだよ、やっと『魔法幼女てつこ/輪廻の山の手・終電までお兄ちゃんと一緒』が公開になったのにさ~、タイミング悪いよなぁ」
「……、俺、ずっと思ってた事があるんだ。お前って明るいし、色々気が利くし、人付き合いも上手なのに、何で彼女出来ないのかなーって。でも、その疑問が今日、やっと解けた気がするよ」
「へ? 何が?」
「何がじゃなくて、初デートにロリアニで喜ぶ女子がどこにいる? せめて池袋方面にしとけって話だよ」
「何おう!? 島崎は全然分かってないっ! これは鉄子ちゃんの悲しい過去と、固い絆で結ばれた仲間との友情が織りなす感動のバトル、そして、愛する兄との終わりなき旅路を描いた、アニメという枠を超える至高のラブストーリーなんだぞ? それを言うに事欠いてロリアニ等と……」
「待て待て待て、論点はそこじゃ無いから。ていうか、渡部から妹までなんて、どんだけ守備範囲広いんだよ、お前は」
「おぅ。わりかし熟女系もイケる口だけどな」
「でもやっぱ、てつこたんは外せないよね~」
「……五十嵐よ、お前もか」
「島崎だって、この前『ゆりゆり』借りてたじゃーん」
「ばっ、おまっ、見てたんかっ!」
「しまちゃん、とうとうそっち側に行っちゃったんだね……」
「じとーっ」
「ちがーうっ! あれはそういうアニメじゃなーいっ!」
渡部が居ない事を除けば、いつも通りと言っても差し支えないのだろう。暖かい食事、賑やかな部屋、明るい笑顔、この前のような恐怖とは無縁の世界。
でも、あいつがあんな事にならなければ、これ以上の、もっと幸せな景色が広がっていたのだろうか?
でも、だからと言って、あいつが居れば良かったなんて、……今更思えない。
「そう言えば芹奈の方は、雑誌の撮影ってどうだったの? 大丈夫だった?」
「えへへへ~、よくぞ聞いてくれました。心してこれを見るのだっ!」
ごそごそとバックを漁って取り出したのは、一束の写真。
「カメラマンさんと編集さんが、良く撮れたのを選んで印刷してくれたんだ~。ね?ね? 超~可愛く撮れてると思わない?」
「すげーっ! 普通にグラビアみたいだ」
「でしょー? 芹奈もこれ見た時、超ー感動しちゃったんだ~。だから、早くみんなに見せてあげようと思って、飲み会誘われたの断って帰ってきたんだよ?」
「そっか、ありがとな。しかし、マジで凄く感動するぞこれ。ちょっと泣きそうかも」
「やだもー、しまちゃんったらー」
あの日、まるで魔方陣で召喚されたかのように現れた芹奈の新しい一面は、今、また新しい世界へと足を踏み入れようとしていた。
それは俺にとって喜びであり、幸せであり、そして、寂しさでもある。
だから、瞼の端に滲むそれは、そんな色んな感情が入り交じっていて、何か一つの理由で説明がつくものではなかった気がする。
「芹奈たんは、これで芸能界デビューだよね? 俺、絶対ファンクラブ入るからねっ!」
「俺はファンクラブどころか、全部のイベントをコンプリートするぜっ! 会社休んでっ!」
「だから、雑誌の撮影なだけで、芸能人でもアイドルでも無いと言っとろーが」
「えへへ。でもね、何かそうやって期待されるのって、嫌いじゃないかも」
「芹奈……」
「それに、色々がんばったら可能性はゼロじゃないかもだよ? しまちゃん、どうする? 芹奈がアイドルになっちゃったら」
「……」
芹奈が一歩、又一歩と遠のいていく事を想像すると、その度に胸が締め付けられる気がした。いつか、こうやって普通に話せなくなる日が来るのだろうか? もし、そんな日が訪れたとしたら、俺は普通で居られるのだろうか?
「ん? そんな真剣な顔してどうしたのかなぁ? 芹奈がいなくなったら寂しい?」
「ば、そんな寂しいとか、そんなんじゃなくて……」
「ふーん? でも、可愛そうだから追求しないでおいてあげようかなっ。えへへ」
……本当に、そんなんじゃないのか?
――――。
いつものように夕食を平らげ、何の役にも立たない雑談で夜も更けた頃、いつものように皆は帰り支度を始める。
「さてと、お姉ちゃんも明日の仕事がんばるぞー。おー」
「美空ちゃん、帰り送ろうか?」
「ううん、大丈夫。まだちょっと帰る途中に用事があるし」
「芹奈ちゃんは?」
「あたしも大丈夫。友達と会う約束があるんだ~」
「何だ、寂しいな~」
「まぁまぁ、また今度お願いね?」
「今度じゃ無くて、今日がいいんだけどなぁ~」
「あはは、拗ねない拗ねない」
そんな他愛も無い会話で盛り上がっていたみんなを尻目に、芹奈は俺にそっと小声で話しかけてきた。
「芹奈ね、後でしまちゃんに内緒の話があるの」
「内緒?」
「うん。だから一旦帰ったフリして、また戻ってくるね」
「あ、うん、わかった、けど……」
何の話だ? まさか本当にアイドルになったとか、って、そんな訳ないか。まぁ、考えたって仕方ないけど……。
「みんな、おやすみ~」
「おやすみ~」
いつものように手を振り、いつものように少し寂しい一時を味わうはずだった玄関口。でも今日は、そっと芹奈と目を合わせ、秘密の約束を確かめ合っている。これもある意味、幸せな一時。
――――。
「お待たせ、遅くなってゴメンね?」
あれからそれ程経った訳でもないのに、芹奈は何かを思って、そう謝りながら戻ってきた。そして、その時の彼女の顔が、真剣というよりも、何か思い詰めているような表情に思えたのは、気のせいだったのだろうか?
「大丈夫だよ。それより、上がってゆっくりしたら?」
「ううん、ここで大丈夫」
靴を脱ぐ事もせず、そう言って彼女は、玄関の扉を背に立ち尽くした。
「? そう? ……それで、内緒の話って?」
「うん、あのね、芹奈……」
それっきり、ただうつむくだけの彼女。しかし、その沈黙で何かを覚悟したのか、彼女は真剣な眼差しで顔を上げる。
「あのね、芹奈、……しまちゃんの事が好きなの」
それは、いつか予感していた光景。
こうなると分かっていて、何も考えずに過ごしてきた日々。
そして辿り着いた、この未来。
……だからこそ、次に繋ぐ言葉が、何一つ見つからなかった。




