始まりの契約
「今日から、ここが俺の部屋かぁ~」
高校卒業後、何とか入り込めた会社にも随分と馴染んだ頃、俺は、ずっと憧れていた一人暮らしを実現する為、何とかギリギリ生活出来そうな安アパートを探し出した。
頑張って歩けば駅もあり、狭いながらも駐車場付き。どんなにボロくても、どんなに不便でも、ずっと憧れていた、自分の車と一緒に過ごせる理想のアパート。
「まぁ、値段相応だけどさ」
二十歳そこそこの稼ぎで借りられる物件なんて、たかが知れている。それでも初めての一人暮らし、どんなにみすぼらしかろうが、俺にとっては目も眩むような光景だったのだ。
「いやー、このレトロなデザイン。これもまぁ、ある意味、貴重だよね」
扉の前で悪態をつきながらも、心は高揚していた。
これから始まる、想像もつかないような大人の世界。
何が始まるのか? 何も起こらないのか?
……大丈夫。辛い事や苦しい事なんて、……もう、あれ以上は無いだろうから。
「おーい、しまちゃーん、これはどこに運べばいいの~?」
身体に不釣り合いな程の大きな段ボール箱を抱えて叫ぶ、華奢で小柄な女の子、『上原 咲樹』。
こんなオタクな俺にも、一応、彼女は居たりする。
「あぁ、えーと、その辺りに積んどいて」
そんなに超絶可愛いって訳でもないけど、明るくって、人付き合いが上手な彼女。
何も無い平凡な毎日を否定するかのように、突然何かを考え出し、率先して人を引っ張っていく、俺とは正反対のアクティブな女の子。
秋葉原に憧れを抱き、ネットやアニメにのめり込むような人種からは想像も出来ない、いたって普通の、とても良くできた女の子。
そんな彼女と、こんな俺が、何故付き合う事になったのか? それは、まぁ、そのうち。
「いやいやいや、置く場所なんかどうでもいいから、さっさと終わらせようぜ」
彼女の高校時代の友達、美人なのに残念なくらい男勝りな『渡部 涼子』。
「ねぇねぇ、しまちゃん、このマンガ、後で貸して? 私のも貸すから~」
同じく彼女の友達、見た目可愛いのに、何故かこっちの世界の住人、『佐々波 あゆみ(さざなみ あゆみ)』。
「はーい、みんな、がんばって終わらせて、早く引っ越しそば食べようね~」
さらに同じく彼女の友達、、同級生なのに何故か自分をお姉ちゃんと呼ぶ『鈴木 美空』。
「しまちゃ~ん、もしかして、この箱は開けちゃいけない箱~? えへへ~」
……、重ねて彼女の友達、超絶天然娘『安藤 芹奈』。
「っつーか、わかってんなら、わざわざ声に出すな。そして開けるなよ?」
「ほほぅ、しまちゃんはコスプレとか好きなんだ?」
「いやまぁ、嫌いじゃないけど。って、何で既に読んでいる?」
「わー、こっちは巨乳だね~」
「やっぱ巨乳っていいよねぇ。あのふかふか感が……」
「むぅ、芹奈の胸じゃダメって事?」
「そんな事は言ってない。ぺったんこだって味わい深いんだぞ?」
「芹奈、ぺったんこじゃないもん。ちゃんとあるもん。これでもDなんだよ?」
「おぉ、思ってたより――」
「……二人とも? 女の子達に荷物運ばせておいて、なーにをしているのかなぁ~?」
「はっ!?(×2)」
そこには、引きつった表情で仁王立ちする、さっちゃんの姿が。
「へぇぇ~、私の胸じゃ何か物足りなかったのかなぁ~? ごめんねぇ~?」
「ご、ごめんなさいっ!(×2)」
アキバの雑踏に佇む姿が超似合う、絵に描いたようなオタクの俺が、どうしてこんなハーレム状態なのか?
――それは、もう数年前の話。高校生だった頃の俺は、今と変わらず、自他共に認めるオタクだった。
マンガやアニメにのめり込み、会話する相手は無機質なパソコンのディスプレイ。
しかも、ネット上ですら人付き合いが苦手な俺には、オンライン・コミュニティなんて華やかな世界が似合う訳もなく、夜な夜な自分好みのサイトを徘徊する毎日を過ごしていた。
それでも、一応、友達らしい相手はいた。
彼の名は『高橋 大介』。
俺のように特殊な趣味にハマる事も無く、普通に音楽や流行り物を追いかけ、社交的でお洒落にも気を配れる、至って普通の好青年。
小学中学と、そこそこの付き合いがあり、数少ない友人としてよく遊んだものだ。
そんな彼は、さも当然の様に、高校生活の中で彼女を作った。
彼女の名は上原咲樹。
彼女は大介と同じく社交的で、とても性格の良い、世話好きな人だった。
何かして遊ぼうという話が出れば、何のためらいもなく、思いつく限りの知り合いへ片っ端から連絡をし、皆で楽しみを共有しようとする女の子。
人付き合いが苦手な俺には、何でそんな事をするのかさっぱり分からなかったけれど、それでも、その知り合いの中に必ず俺が入っていた事は、とても嬉しかった。
俺が朝弱い事を心配し、予定がある時は、必ず電話で叩き起こしてくれた。
俺が人付き合いに関心を示さない事を心配し、色々な女の子を紹介してくれた。
俺が偏食な事を心配し、色々ごはんを奢ってくれた。
ちゃんとした彼氏がいるのに、プラスαで俺の事まで気を配ってくれるなんて、一体この子は、どれだけ良くできた子なんだろう? そんな想いと感謝を胸に、俺は高校生活を過ごしていた。
結局、誰とも関わろうとせず、ネットや二次元の世界に浸りながらだったけれど。
――――。
「……しまちゃん、あのさ、……大介、好きな人が出来たんだって」
「好きになったものは仕方がないから、……別れてくれって」
「でもさ、何か……、私が悪い……みたいな言い方、されちゃったん……だよね」
「……っ、……何で、なのかな? ……あはは」
突然の告白。
親同士の交流まであったから、このまま結婚するんだろうなーって思っていた、そんな仲睦まじい二人だった筈なのに。
だから正直、彼女の話を聞いた時には耳を疑った。その話を聞いた後でさえ、あの大介の口からそんな言葉が出てくるなんて、想像すら出来なかった。
「ひっ……、なんかね、『俺への愛が少ないから、俺は、他の女に惹きつけられたんだ』って言うんだよ? 『だから、俺は悪くない、お前が悪いんだ』って。……っく、……私、どうすれば良かったの?」
俺は正直、あいつの言葉の意味が理解出来なかった。
そして、それ以上に、大介がそんな風に変わってしまっていた事に愕然とした。
笑顔を取り繕いながら、まるで別世界のようにぼろぼろと涙を流す彼女の目も、きっと、俺と同じ気持ちだったんだと思う。
「……さっちゃんは悪くない。……きっと、大介は変わっちゃったんだよ。俺達が知らないうちに、……いつの間にか」
そんな状態になった二人を修復できる物なんて何も無く、結局、二人はそのまま別れた。
俺も、彼女の友達も、大介の意味不明な言い訳に、今まで感じた事のない気持ちを覚えていた。
怒り? 憎しみ? 軽蔑?
それを一言で形容するには難しいけれど、結果的には、大介との関係を断ち切る事でしか、みんなの気持ちの整理を付ける事は出来なかった。
――昔、良く三人で遊んだ事を思い出す。
二人のデートなのに、俺が邪魔しちゃ悪いよなぁ、なんて思いながらも、あいつらは俺を快く受け入れてくれていた。
『やっぱり、遊ぶ時は友達いっぱい居た方が楽しいでしょ?』なんて笑いながら。
なのに彼女は、友達じゃなくて、一番大事な彼氏を失った。
「……ひっ、……私っ、良い奥さんになろうって、……ひぅっ、……い、一生懸命頑張ったのに、……どうして、……ぅあぁぁ――」
さっちゃんがこんなにも泣く子だったなんて、思いもしなかった。
いつもの明るい彼女しか知らない俺には、どうやって彼女を慰めたら良いのか、何一つ分からなかった。
……でも、もし、ここで彼女を抱擁する事が出来たのなら、俺は、一人前の男になれたのだろうか?
彼女の悲しみを受け入れ、彼女の為に何でもする覚悟が出来たのなら、少しでも何かを救ってあげられたかもしれない。
でも、当然、そんな事が出来る訳もなく。
「ある意味、良かったのかもよ? ……結婚する前に分かってさ」
そんな、ありきたりな台詞しか出てこなかった。
その後、彼女は『そっか、……そうだよ……ね』と、涙に崩れたまま、切ない笑顔で呟いた。
結局俺は、彼女の足下に広がる悲しみを拾い上げる事も出来ず、彼女の辛さを包んであげる事も出来ず、暗にこう伝えたのだ。
『何とか自分で頑張って』
彼女は優しい言葉で頭を撫でて貰いたかっただけなのに、俺は、そんな事すら出来ずに、ただ、自分が傷つかないように逃げていた。
彼女を受け入れる事で自分が傷つく事を恐れ、それを上手に誤魔化しただけで。
そうやって、いつも何かから逃げ続け、自分の世界を守り続けていた毎日。
――――。
「――まちゃーん、しーまーちゃーん、おーい」
「……あぁ、ごめんごめん、あー、それ、そっちの部屋に入れといて」
そして今、さっちゃんは俺と付き合っている。
ドラマチックな恋愛をして付き合い始めた訳じゃ無いけれど、それでも俺は、今、この瞬間を幸せだと思っている。
だから俺は、今の幸せを大切にしたいから、今日この日をもって過去と決別する。
「新生活……か」
島崎 優也、……今日から、第二の人生を歩み出そうか――。




