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自分の為ではなく、人の為に

 空を見上げ続けていた。

 過ぎ去る時間と共に変わっていく、輝くような白い雲。


『この命、このまま無駄にするのか?』


 今、この屋上から飛び降りさえすれば、確実に死ねるだろう。

 やってみたい事もしてみたし、多分、思い残している事はない……ハズ。


「……あ、これ、捨てとかなきゃ」

 何故買ったのかも分からない右手の缶コーヒーと、使う事の無い服が入ったままの左手の紙袋。こんな物を持ったまま飛び降りる訳にもいかないから。

「……ゴミ箱、……あそこか」

 何故か重く感じる足を引きずりながら、何かに追い立てられるように歩きだす。一度も使われぬままに捨てられる、缶コーヒーと紙袋の為に。


「……」

 ゴミ箱を目の前にすると、ふと、要らなくなった鉛筆を捨てようとしている、小さい頃の自分の姿が思い浮かんだ。

 小さな手のひらにある、中途半端な長さの鉛筆。

『貧乏くさいから、……もういらない』

 そう強がって筆入れから取り出した、ずっと使い続けていた鉛筆。

 でも、あの時、……本心でそう思っていただろうか?

 

 ……そうだ、確かあの時――


「捨てちゃうの?」

「っ!?」

 気が付けば、俺の後ろに誰かが立っていた。

「……美空、なんでここに?」

「ん? ちょっとそこで見かけたんだけど、なんか気になって後付けちゃった」

「そっか……」

「……あのさ、しまちゃんが何をしたって、それはしまちゃんが決めた事だから、私は何も言わないよ?」

「……」

「でもね、やり直しが効く事と、やり直しが効かない事って、やっぱりあると思うんだよね」

「……」

「それにさ、全く無意味な事って、この世界には存在しないと思うんだ。どんな一つ一つにだって、ちゃんと意味がある。私はそう思うの」

「……意味?」

「そ、意味。存在理由とでも言えるかな?『そうであるという事は、そうでなければならない理由が必ずある』って感じ。何か哲学っぽいけど」

 ……俺が、存在する理由?

「だから、しまちゃんが存在するという事は、しまちゃんが居なければならない、しまちゃんを必要としている誰かが必ずいるっていう事」

「……俺を?」

「うん。だから自分の事だけじゃなくって、しまちゃんを必要としている人の事も、少しは考えてあげて欲しいな」

 

 ……それが何の役に立つのかは、今は分からない。

「……それじゃ、私はそろそろ行くね?」

 何の役に立つのかは、それを必要としている人が決める事。それなら……。

「そっか、まだ使えるかも知れないんだ」

 俺には必要のない、この命。でも、他の誰かの為になら、役に立つかもしれない。

「うん、使えるよ。しまちゃんは、すっごく役に立つんだから」

 今は必要とされなくても、この先、誰かが助けを求めた時、この命で応えてあげられるかも知れない。


 ……なら、今はまだ、その時じゃない筈だ。


「……美空、……ありがとな」

 この時、随分久しぶりに自然な顔をしていたような気がする。

 死にたくなる程嫌だった過去の出来事も、あの流れる雲のように、いつの間にか、遠い昔の話のように思えていた。

「うん。ばいばい、またね」


 残された俺は、何か、本当の自分が生きる意味を見い出したような気がしていた。

 誰にも頼らないと心に決めてから今日この日まで、生きる事に何の興味も持てず、ただ、自分が楽に過ごせる世界に浸ってきた。

 そして、その何者にも犯されない安穏とした聖域を、毎日毎日、ずっとただ盲目に守り続けてきた人生。


 ……でも、それは、自分が存在する本当の理由じゃ無かったんだと思う。そんな気がした。


 もし、あの店員さんのように、俺が誰かに優しく声を掛けたなら?

 もし、それで誰かが喜んでくれたなら?

 もし、それで誰かの人生に幸せが訪れたのなら?


 俺にとっては必要の無い、この命。でも、こんな所で無意味に捨ててしまったら、それこそ本当に何の役にも立たない。

「とりあえず、その時までは大事に取っておくか」


 人生で一番の地獄だった筈なのに、今日は何故かちょっぴり嬉しかった。

 それは取るに足らない些細な事だったのかも知れないけど、今の俺を変えるには、十分な出来事だったように思う。


――――。


 その日を境に、自分の中の何かが変わっていた。

 どんなつまらない仕事でも、誰かの為と思うだけで、その仕事の見え方がまるっきり違っているような気がした。

 つまらない書類作成、つまらない単純作業、つまらない顧客対応。でも、それらの先には必ず人がいて、その人は自分の仕事を待っている。だから俺は、その人が望むように、その人が喜ぶように仕事をする。

 例え顔が見えなくても、それがその人の笑顔になるのなら、それは、つまらない仕事なんかじゃ無い、そう思えるようになっていた。


 ――俺は誰かに必要とされている、そんな初めての感覚が、俺の中の何かを形作っていくような、そんな気がしていた。


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