死の向こう側にある風景
さっちゃんは幸せになった。
そして、あゆみも誰かと結婚した。
もう俺に残された物は何もない。
誰にも必要とされないし、俺自身、誰も必要とはしない。
……?
あぁ、そうか、俺は、もう生きている意味がないのか。
そっか、なら死のう。もう疲れたし。
――――。
浴びるように酒を飲み、ぐるぐると回る視界の中で、冷静に死を見つめていた。
自分に何の意味も見いだせない以上、生は苦痛でしかない。
今はアルコールのお陰で自分を保っていられても、酔いが覚めてしまえば、耐える事の出来ない残酷な現実が待っている。
この数週間、一切の思考を封じ込め、機械のように感情無く過ごしてきたつもりだったけど、やっぱり無理みたいだ。
ふと出てくるのは、遠い彼女の名前と、『どうして俺じゃダメなんだ?』という自責の念。
毎日毎日、毎日毎日……。
「……俺は、必要じゃない」
『誰も味方にはならない、頼れるのは自分だけ』
……だから、俺は一人で生きて行く。そう心に決めていた筈だったのに、どうしてこんなにも誰かに依存してしまったのか?
「……そうだ、俺は一人なんだ」
そうだ、俺は、誰かを頼っちゃいけないんだ。
俺は一人だから、自分で何とかする。
そう、自分は自分で何とかする。
誰にも頼らない。
そう、……自分の最後は、……自分で処理する。
「……掃除するか」
その日、死ぬ事を決意した。
まるで、自分が生きている事が罪であるかのように。
自分は、この世界に居てはいけないのだと、誰かに言い聞かせるように。
――――。
その日から、部屋にある物を少しずつ捨て始めた。
死ぬのは簡単だけど、俺が死ぬ事で、誰かに迷惑をかけたくなかった。
だから、自分の物は自分で処分する事にした。
趣味で集めた物、いつか使うと思って取っておいた物、さっちゃんやあゆみとの思い出の品、他にも色々。
……本当に山のように捨てた。
『死んでいく人間には必要ない』
そう、呪文のように呟きながら。
――――。
それから暫くして、部屋もだいぶ殺風景になったある日、俺はふと、空を見上げていた。
いつか見た、あの放課後の空のような、透き通った青色がそこにあった。
『……どうせ死ぬんだし、今まで出来なかった事、……やってみようかな』
無限に深い空の奥を眺めながら、ふと、そう思った。
でも、出来なかった事って……。
あ、そうだ、かっこいい服を買いに行こう。
今までそんな洒落た店なんて入った事なかったし。こんなアキバ系が行ったら恥ずかしい思いするかもだけど、どうせ死ぬんだ、知った事じゃない。
それに、せめて最後ぐらい、人並みに過ごしてみたいし……。
――――。
ネットで近場のそれっぽい店をいくつかピックアップし、自分に暗示を掛けるように独り言を繰り返しながら、空っぽになったアパートを後にする。
『俺は死ぬんだ、何も怖くない……』
その覚悟が何かを変えたのか、それとも本当に暗示に掛かったのか、どちらなのかは分からない。でも、自分の死を意識した途端、何故か、それ以外の事が些細な事に思えるようになっていた。
今まで、『自分は不細工だから』というコンプレックスを理由に、そういう事には関わらないようにしてきたけれど、やっぱり、そうやって逃げ続けていた間も、『人並みにオシャレな格好をしてみたい』という密かな憧れは消えなかった。
眩しい大介の姿に憧れ、さっちゃんやあゆみに釣り合うような男になりたいと、ずっと無意識に願い続け、……そして、ずっと自分を卑下し続けた。
そんな事をしたら、あのイジメられていた日々のように、周りから白い目で見られるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないかと、嫌な妄想で頭がいっぱいになる。
もし、そんな事になったら、……生きていけないんじゃないかと。
でも、俺は今日、それを自分の命と引き替えに乗り越える。
これが人の命と釣り合わないという事は、良く分かっている。でも、例え他人がそう思ったとしても、俺にとってそれは、見上げる事すら億劫になる程の、高い高い壁だったから。
……だから、せめて最後くらい、その壁を少しでも越えてみたかった。
――――。
巨大なショッピングモールの中、まるで『センスの悪い人お断り』と書いてあるような、見るからに上品な装飾に彩られたショーウィンドウ。そんな、いつもなら近寄りもしない店の扉をくぐると、そこには今まで見たこともない景色が広がっていた。
秋葉原の雑踏からは想像も付かない、優雅で繊細なディスプレイ。
テレビの中で見るような服やアクセサリの数々。
その一つ一つの全てが、見た事もない鮮やかな世界を彩っていた。
『……俺が知らない事って、沢山あるんだな』
そんな当たり前の事を、今更ながらに実感した。
検索すれば全てが手に入る、知らない事なんてちょっと探せば済む、だから、世間の事は大体分かっている、ずっとそう思っていた。
けど、それがどれだけ小さい思い込みだったか、今、改めて思い知らされた。
自分の知る世界が、こんなにも狭かったのかと。
「いらっしゃいませー、どうぞ気軽に広げてみてくださいね」
それに、想像していた程、そんなに恥ずかしい思いをする事もなかった。
店員のお姉さんも、最初は挙動不審な男に戸惑っていたけれど、それでも親身になって、似合いそうな服を一生懸命選んでくれていた。
「こういう感じとかどうですか? それとも、こっちの方とかはどうです? こんなのも結構合うと思いますよ」
しどろもどろに受け答えする俺を気遣い、彼女は子供をあやすように質問をする。
「これ……とか、いいですね」
たったそれだけの気遣いがどれだけ嬉しかったか、俺は、目頭から涙がこぼれないうように返事をするのに精一杯だった。
「それじゃ、折角だから、これとこれを組み合わせて試着してみましょうか? こっちだと派手過ぎでちょっとアレですけど、これならさりげない感じでお客さんに合うと思いますよ」
「あ、は、はい、ありがとう……ございます」
服を選んでいるだけなのに、何故か口をつく、感謝の言葉。今までほとんど口にした事の無い、ありがとうという気持ち。どんな身近な人にだって、滅多にそんな事言わなかったのに、ただ商品を売りたいだけの店員さんに、どうしてだろう?
「――着てみたんですけど、どう……ですかね?」
「あ、いいですね~、やっぱりこれの方が似合うと思ったんですよ。うちの店のイチオシからはちょっと外れちゃうんですけど、お客さんはこっち系が合いますよね。うん」
……あぁ、そうか、この人は、ただ服を売りつけたいだけじゃ無くて、俺の事をちゃんと見てくれているんだ。
馬鹿にするでも無く、見下すでも無く、当たり前のように俺を人として扱ってくれている。
そんな当たり前の事が、何故か凄く嬉しかった。
誰も居ない孤独な世界だと思っていたのに、気が付けば、そこかしこに人が溢れている。
そして、話しかければ笑顔で応えてくれる。
ちゃんと俺の顔を見て……。
「……こんな服が似合うだなんて、今まで思ってもみなかったですよ」
――――。
薦められた服を買った後、俺は何故かショッピングモールの屋上に来ていた。
左手には紙袋、右手には温かい缶コーヒー。
「ん? 缶コーヒー? 俺、こんなのいつ買ったんだろう?」
どうやってここへ来たかも覚えていないし、どうしてここに来たのかも分からない。
「……まぁ、どうでもいいか」
部屋は片付けた。やりたい事もやった。まぁ、これから色々な人に迷惑を掛けるかもしれないけど、少しぐらいなら大目に見てくれるだろう。
……そう、今、ここから飛び降りれば、全て完了する。
俺は誰からも必要とされないし、俺も誰も必要としない。
……だから、ここで終わらせる。
「……でも、本当に、……必要じゃ無いのか?」
ふと、空を見上げて思った。
俺の目を見て話してくれた、あの店員さんの笑顔。あれは、これから死ぬ人に対する笑顔だったのだろうか?
……あの日、捨てると誓ったこの命、……このまま無駄に捨てていいのだろうか?




